淡い微熱-2-

「体調、けっこう悪いのか」
慣れた室内に入るとベオウルフはあっさりと「本題」とやらを口にした。勿体つけるほどの内容でもない、わかりやすい問い。
「少し。でも大分落ち着いたわ」
そして、それにラケシスもあっさりと答えた。
気だるげな表情からは、彼女の体調があまり思わしくないことが伺われる。「大分落ち着いた」と言えるような様子ではないはずだ、とベオウルフは思う。
彼女はベッドのふちに腰掛けた。暖炉の中でぱちぱちと薪がはじける音が時折聞こえた。
ベッドを見れば、今まで彼女がそこで横たわっていたことがわかる。
ベオウルフの質問は当たり前すぎる本題で、他の人間相手であれば室内にわざわざ入る必要なぞないものだった。
扉越しに「具合が悪いのか」「何か食べるか」と2、3言やりとりすれば済むだけのことだ。
しかし、ラケシス相手の時はそれでは駄目だということを彼は知っている。
彼女は時折扉越しの強がりで、人々の心配を踏みにじる。それがベオウルフ相手であれば尚のこと、放っておいて頂戴、と言うだけで終わってしまうことだってあるのだ。
その放って欲しい、とかまって欲しいはいつも微妙なバランスで彼女の心の中で共存している。
別にそんなことにいちいち相手をするつもりはベオウルフにはないが、残念ながら、彼女が熱でも出して本当に倒れていたのではなかろうか、と懸念する材料が彼にはあった。
「熱があったのか」
「・・・少し。よくわかるわね」
「昼間、お前の体は熱かったし」
「わたし、お前に触ったかしら?」
驚いたようにそう言って、すれ違った時のことをラケシスは思い出す。
いや、そんなわけはない。自分が、あんな、人が通りそうな場所でこの男に自分から触れることはない。
それに、この男から触れられたならば、それを忘れるはずもないし。
「いんや」
ベオウルフは椅子に座らずに立ったまま答えた。
「すれ違った時、いつもよりあんたの体が熱いように感じただけだ。俺は、そういうことには敏感なんだよ」
だから、来た。
食堂で女中達に言われたからではない。
心の中でそう呟くが、それはもちろんラケシスに伝える必要がないことだ。
「まあ」
「今はどうなんだ。誰か、声をかけにこなかったか」
ベオウルフがそういうと、ラケシスはまじまじと彼をみつめ、少しだけ首を右にかしげる。
「何を言っているの。まるでお前はわたしの保護者のようね」
「そう思われるのは心外だけどな。あんたが食事の席にこないときは、フュリーがいつも声をかけに来てくれるだろ。でも、彼女は今日はいないからよ」
ベオウルフが言いたいことはラケシスにはあまりよく伝わらないようで、彼女は難しい問題を出されたように顔をしかめた。
「・・・食事の席に行けないなら、自分でそう言いに行けってことね?悪かったわ。眠っていたの。薬草をもらって飲んで、横になったらつい。おかげで、相当楽になった」
「悪くない。言いに行けないほど調子の悪い時だって人間はあるんだし。俺だって何にも言わずに食事をしない時もあるしな」
「じゃ、どういうこと?」
「でも、あんたの場合は、言いにいけないほど調子が悪いのかと思われるから、俺が様子を見に来たってわけだ」
「偵察ってわけね」
「大事になっていなくてよかった」
そのベオウルフの言葉を聞いて、ますますもってラケシスは驚きの表情になり、怪訝そうに眉をひそめる。
「・・・心配してくれてるの?」
「ん?ああ、ちっとはな」
はっきりと「そうだ」と答えるのはベオウルフの本意ではない。
ラケシスには決して言わないが、彼の心の中にはいつだって「保護者じゃないつっても、一応シグルドの大将から頼まれているんだよなぁ」という言い訳がある。
とはいえ、彼自身も「もうその役目はお断り」とシグルドに申し出たことなぞ今までないのだが。
「心配しているわりに、こんな遅い時間の訪問はちょっとおかしいんじゃないの?」
「そうだな」
ベオウルフはそう答えて、ラケシスに近付いた。
彼を見上げるラケシスの瞳は、体調があまり思わしくないせいなのか、いつもよりも潤んでいるように見える。
「まだ、熱は下がっていないだろ。少し熱い」
「そうね」
「呑気な言い草だな」
そう言って、ベオウルフはラケシスの頭を両腕で抱え込むようにゆっくりと上半身を折って覆い被さった。
ベオウルフの腕にラケシスは手をそっと添えて、軽い抗議をした。抵抗をすれば彼は体を離すだろうが、その抵抗をすることすら面倒に思えて、ラケシスはそのままベオウルフの胸元に頭をつける。
「何?」
「やっぱり少し熱いな、あんたの体」
「お前は冷たいわ・・・気持ち良いわね」
「気持ちいいのか」
「ええ。嫌じゃないわ」
「そうか」
どうやらそれは本当のことらしい。
ベオウルフはそのままラケシスをゆっくりとベッドに横たえて、その上に体を重ねた。ラケシスの足を守っていた毛皮をあしらったサンダルが、するりとベッドの脇に落ちて、かたん、と小さな音を二つたてる。
「具合悪い女を抱きに来たの」
「そういうわけじゃない」
「抱きしめるだけなら許してあげるわ。お前は冷たくて気持ちが良い」
「そりゃ、よかったな。俺も・・・あんたの体は気持ちがいい」
「そうなの?」
「体温が高めの女を抱くのは、いいもんだ」
「低俗な話ね」
「そうかな」
ラケシスは彼が言う「抱く」の意味が今の自分達の状態よりももっと深いものであることを理解していた。
軽く上半身を起こして、ベオウルフはラケシスの首筋、額に手を当てた。瞳を閉じるラケシス。
それらの感触は抱擁よりも強いとラケシスは思った。肌と肌が触れ合うことを、殊更彼女は意識していたが、ベオウルフはそんなことなぞ知りもしない。
「・・・昔、エルト兄様が」
「ああ」
「そうやって、額に手をあててくださったことがあったわ」
その言葉にベオウルフは特に返事をする必要なぞないと思ったようで、そのままラケシスの額を広い手のひらで包む。
「病気がうつるからいけないって医師に言われても、兄様は、来てくださったの」
「そうか」
ベオウルフは頬をラケシスの頬に寄せた。
彼女のなめらかな頬の感触、伝わるかすかな熱さ。微熱程度の熱さなのに、やたらとそれがベオウルフの頬に染入るようだ。
自分の前で、こんなにラケシスの体が熱いことなぞこれまでになかったかのように思える。
抱いても抱いても、そのしなやかな肢体を組み伏せて口付けを与えても、桜色に肌が彩られて彼女が背をそらしても、こんなに熱さを伝えたことはないとベオウルフは思った。
それは多分、自分もまたその時に熱いからなのだろう。
「・・・このまま、眠るか?」
「・・・このままって?お前に抱かれながら?冗談じゃないわ」
「馬鹿が。そういう意味じゃない。咽喉の渇きや腹の減り具合はどうだ。そんなことより、寝てしまった方がよさそうか?」
「眠りたいわ。もし、よかったら水を汲んできてもらえるかしら。寝ていると咽喉が渇いてしまって、目覚めるから」
「そうか。わかった。あんたはそのまま眠れ。遊びすぎた。悪かったな」
そう言ってベオウルフはラケシスに毛布をかけ、テーブルの上に乗っているピッチャーを持って扉にむかった。
その背に声がかけられる。
「ベオウルフ」
「なんだ」
「ありがとう」
「・・・どーいたしまして」
振り向きもせずそう言って、ベオウルフは出て行った。

水を汲んで戻ってくる最中に、暗い廊下でベオウルフはシルヴィアに出会った。彼は、髪をおろしたシルヴィアはなかなかに可愛らしくて好みだと思っている。滅多に見ないおろし髪でシルヴィアはぺたぺたと歩いていた。
「よう、踊り子ちゃん。こんな時間に歩いてると冷えるぞ。おやすみ」
「うん。おやすみ」
シルヴィアにはいつもの明るさがない。ぼそっとベオウルフにそう返してシルヴィアは通り過ぎた。
「元気ねーな」
ぽつりとベオウルフがそう言うと、シルヴィアは振り返って忌々しそうに口元を歪めながら言い放った。
「具合悪いの。風邪ひいたみたいでさ。熱出てるから愛想悪いのよ!しょーがないでしょっ、だるいの」
「何?お前も熱出してるのか。薬草は」
通路の明るさが足りず、相手の顔色がよくわからないとベオウルフは思う。しみじみシルヴィアを見ると、確かに心なしか頬が紅潮しているようにも思えたが、はっきりとはわからない。
「貰ってきて飲んだわ。すっごい苦いヤツ。もー飲みたくない。何、他に誰か調子悪いの」
「ラケシスが」
「あー、そうなのね。流行ってンのかしら。具合悪いのって、嫌い。何も楽しくなくなるもん。じゃあね、おやすみ」
「あったかくして寝ろよ」
「わかってるわよ!あんたもね!」
癇癪気味にそう言い放ってシルヴィアは部屋に向かって行った。
まったく、ラケシスもシルヴィアも、まだこの程度の寒さで風邪っぴきとはやわなもんだ。
シレジアの騎士にはなれないな・・・そんなことを思いながらベオウルフはラケシスの部屋に戻ろうと歩みを速めた。
そして、ふと、気がつきたくない恥ずかしいことに気付いてしまう。
(・・・まいったな。確かにそーだ)
「深入りしすぎちまったな・・・」
シルヴィアのことは気付かないのに、ラケシスのことは気付いてしまう。
確かにベオウルフはちょっとした外気の変化に敏感ではあるけれど。
こんな夜の澄んだ空気がひんやりとしている廊下ですれ違ったシルヴィアではなく。
人が行き交う真昼の廊下で出会ったラケシスの体が、いつもより熱っぽいなんてことを感じられるまで。
思い起こせば、自分はそこまで彼女の体に何度も何度も触れていたのだ。
心配してくれてありがとう、なんていう言葉も素直に出せず、心配しているのかどうか、なんて馬鹿げた質問をする彼女に。
そして、そういう間柄を作ってしまったのは自分だ。
頭を引き寄せ、ベッドに倒して、そして頬を寄せてもそこからそれ以上関係が動き出さなくなってしまった自分達。
愛しているとも好きだとも言葉にもせず、恋人でも愛人でもない自分達。
それを、ベオウルフはついに「深入り」と言葉にした。
面倒なことは好きではない。だから、わざわざ関係を言葉に集約できる間柄になる気もなかった。
ベオウルフはいつだってラケシスがどこにいるのか、明日は何をするのか、今日は何をするのか、したのか、なんてことはわからないし、ラケシスだって同じことだ。
そんなことをわざわざ知るよりも、彼女の体がいつもよりも熱っぽいと、すれ違うだけでそれに気付いてしまうことの方がどれだけ深い関わりなのかと思い当たった。
ベオウルフは歩く足をとめ、とん、と廊下の壁に背をつく。
このままの速度で歩いてラケシスの部屋に戻るには、少し自分は冷静さを欠いている。
言葉に集約できない間柄。
それを望んだのはお互いだった。
そして、そういう関係である女を、昔から自分は幸せに出来たためしはないことを彼は知っている。
男が女を幸せにする、とか、女が男を幸せにする、とか。
それれが本当は他人から与えられるものではないと知りつつも、女という生き物は間違いなく男が「何か」を与えることで、それを自分の幸せの一部に変換する生き物だと彼は思っていた。
「悪ぃな、エルト」
幸せに出来たためしはないけれど、彼と関係をもったその誰もが、彼に「女の幸せ」なんてものを求めてきたことだってない。いや、そもそも自分は、今までに本当の恋愛なんてものすらしたことがないんじゃなかろうか。
だから、彼は傭兵として生き残って、ここにいることが出来るのだ。
そして、ラケシスと出会うことが出来たのだろう。

ラケシスの部屋に戻ると、彼女は既に寝息をたてていた。
額に手を伸ばして触れると、やはり彼女は熱を持っている。
まったく、この女はいつもどこかしら患っているのではなかろうかと思う。
女は明るくて悩みを見せないのが一番良い。
たとえ悩みがあったって、それをいつでも人にぐじぐじ言い続ける女はこっちから願い下げだ。
いつでも悩んでいるような女は、悲劇の中にいる自分が好きなだけだ。うっとうしいこと甚だしい。
そういう女は大抵、他人が自分にとっていいように動くことを当然と思い、誰もが自分を傷つけないでいることを願い、その反面自分の行動で誰かを傷つけていることなんざ知りもしないに決まっている。
だから、ラケシスのことを何度も馬鹿で愚かな女だと思っていたし、その言葉を口にしてきた。
それなのに、今ベオウルフがここにいるのは。
手の平。手の甲。自分の体にラケシスの熱が移って来る。それから逃れるように右手の平、右手の甲、左手の平、左手の甲、とベオウルフは彼女の額におく自分の体の一部を移動してゆく。
熱を持った女を抱くのは、気持ちが良い。
自分の熱さに苦しんで、はぁ、と息をつくその音や、熱から逃れようとする仕草。嫌がられても抱きしめてしまいたくなる。
ああ、そうだ。だから俺は。
ラケシスの熱さを感じて、欲情してここに来たんだ。
そーゆーことにしといた方が、身のためだ。
その方が、わかりやすい。
たとえラケシスに、けだものとか最低の男だとかののしられたって。
これ以上の深入りは、なしってことで。
「おやすみ、お姫さん」
ベオウルフはラケシスの部屋を出た。
キュアン達ならば寒いと言うだろう廊下を、彼はまたすたすたと薄着で歩き出した。
ラケシスが「気持ち良い」といったように、ベオウルフの体はじわじわとまた冷たさを増していく。なのに、ラケシスに触れた手はなんだかやたらと熱くて、外気に熱がなかなか奪われないような気がする。
部屋に戻って一杯酒を飲んでから寝よう。
恋人でも愛人でもない深い関係にこれ以上引きずられないように、今日という日を酒でうやむやにして寝てしまおう。

フュリーは翌日の昼間、任務から戻ってきた。
どうやら女中達からラケシスのことを聞いたらしく、任務の疲れもあるだろうに、休む前にわざわざラケシスの様子を伺いにいったらしい。
皆でなんとなく集まる大きな部屋にアレクに誘われてやってきたベオウルフが無責任なことを言う。
「大変なこったな。真面目すぎるんだよ、フュリーは」
暖炉で温めていた酒の様子を見ながらアレクが
「フュリーが真面目でレヴィンに色々せっつくから、レヴィンがちゃんと王子面出来るくらいは公務をしてるんだろ」
と返す。それは間違いない。
ここ最近レヴィンは「一応」シレジアの王子としての公務も時折こなしている。
戻ってきた以上、その身分を使って何かをしようとする以上は、それなりのことをしなければいけない。
すぐに公務を放り出そうとするレヴィンに辛抱強く付き合うのはフュリーの仕事の一つだ。
その生真面目さが可愛いじゃないか、といいながらアレクは温めた酒を注いだカップをベオウルフの前にとん、と置く。
「そんで、そのおかげで俺たちは昼間から酒を飲める、と」
「まあ、そういうわけでしょ」
「昼から酒飲んで、大将に怒られるんじゃないのか、アレクやノイッシュとかはさ」
「シグルド様は一杯程度じゃ怒らない。それを言ったら、酒がたっぷり入ったケーキも食べられなくなる、とかいって笑ってくれるくらいだし。ま、ノイッシュやアーダンは絶対酒は飲まないけどな」
「お前らしいな。で、ノイッシュ達は稽古でもしてんのか」
「今日は城下町の仕事。新しい食堂が出来るってんで建築材とか運ぶのに人手が足りなくてさ。本当は俺とノイッシュが行くことになってたんだけど、たまにはアーダンもなぁ」
くはは、とアレクは笑う。彼が言いたいことはベオウルフにもわかっていた。
新しい食堂が出来るというその場所の近くには、いくつもの店があってにぎわう場所がある。
近辺には若い女性も多くいるわけで、そのあたりに行く仕事を数日続けた結果、アレクは山ほど「お友達」が出来てしまった。多かれ少なかれその幾人かはノイッシュにとっても「顔見知り」程度にはなった。(彼が好むと好まざると)
その仕事は馬が必要だったためアーダンにはそういった機会がなかったというわけだ。
「俺がいると、みんな俺んとこ来ちまうしね」
その軽口はまあまあ本当だろうと思えて、ベオウルフはあえて突っ込む気もしなかった。
別段ベオウルフはアレクと親しいというわけでもなかったし、ベオウルフからすれば「俺は女性に優しいぜ」なんておおっぴらに豪語するアレクはまだまだ若いとも思えていた。
それでも誘いに応じるのは、基本的にアレクは面倒ではない人間であることと、何気にその広い交友範囲のおかげで幅広い情報を持っているからだ。新しい食堂が出来るなんて話もベオウルフは知らないことだったし。
アレクに温めてもらった酒を口に含むと強烈な刺激が舌に響く。
「うん?」
「どうした?ベオウルフ?」
「いや、なんでも」
ない、と言おうとしてベオウルフはしかめっ面を見せた。
「この酒」
「え?これだよ」
アレクが見せた瓶は、ベオウルフには見覚えがある酒だった。特に高級なものでもなく、シレジアの酒場であれば当たり前のように出てくるものだ。
「嫌い?」
「いや・・・いつもと違う味がしたと思って」
「あっためたからだろ?」
「・・・」
ベオウルフは酒をぐいっと飲み干した。熱いアルコールが体の中を通って行く。普段ならばそんなに嫌ではない、むせ返るほどの酒匂いが鼻の奥に刺激を与える。それがやたらと不快だ。
「悪い、ちょっと急用を思い出した」
ベオウルフは立ち上がって、アレクに軽く片手をあげた。
「ええ?別にいーけどさ。ちぇっ」
「すまねーな。ごっそさん」
そう言ってベオウルフはさっさと退出してしまう。
残されたアレクは「つまんないねぇ」なんて呟いて、次は窓の外に歩いている人影を見つけ、手招きをした。
それは、遠乗りから帰ってきたミデェールで、普段はアレクとあまり話をしないどころか、もともとほとんど酒も飲まない物静かな青年だ。
どうやら今日のアレクは暇を持て余しているらしい。

めずらしくベオウルフは窓を閉めきってカーテンすら開かないままでベッドの上で寝ていた。
昼間から寝る趣味はない。ないけれど、そうするしか彼には手だてがなかった。
まったく、まいった。
ラケシスにうつされたのだろうか。
昨日、アレクからもらった酒を飲んだ時に、自分の味覚がいつもと違うこと、酒の回り方がおかしいことを感じ取って、すぐさま静養をとったけれどこのざまだ。
風邪をひいたことなんて、ここ数年ない。シレジアの寒さのせいだろうか。
いや、違う。この生活のせいだとベオウルフは思った。
こんな場所でこんな生活を続けていれば、体は安心を覚えてしまう。傭兵が傭兵でいるためには、いつだって生活のどこかに危険が含まれていることを忘れてはいけないのに。
自分の不甲斐なさを呪いつつ、それでも解熱作用のある薬草のおかげで昨晩より大分楽になった体を感じる。
(この程度の熱なら、後は寝とけば治るかな)
ことり、と小さな音が部屋の外から聞こえた気がする。
いつもの彼ならば聞き漏らさない音量だが、今の彼は「音がしたか?」と疑問に思う程度だ。
やがて聞こえる控えめなノックの音。
それは、知らない人間がたてる音だと思えた。
「あいよ、誰だい」
「ラケシスよ」
思いも寄らない名乗りにベオウルフは驚いた。
「・・・勝手に入ってくれ」
返事の後に、扉の外の人物はわずかに戸惑いの間を感じさせてから、静かに扉を開けた。
ベオウルフの顔に、入り込んだ空気が予想外の冷たさを感じさせる。もしかして、今日はまた冷え始めたのか。
昼の明かりが部屋にわずかに差し込むのを薄めを開けてベッドの中から見る。
ラケシスがぱたりと扉を閉める前に、差し込んだ光のおかげで空気中に浮かんだ小さな埃達がベオウルフには見えた。窓を開けて風通しをよくしたい反面、今は冷気に触れたくない、と思う。
「よう。あんたの風邪がうつっちまったみたいでな。まったく、情けない話だ」
「流行っているようだわ。シルヴィアも寝込んでいるの。それに、今日は本当に冷えているわ」
「シルヴィアか。この前あんたのところに行った時、会った。そんときにもう熱が出ていたみたいだったな。まだあいつも具合が悪いのか」
「ええ、クロード神父がついていてあげているようだわ。お前はどんな調子なの」
おずおずとラケシスはベッドに近付いて来る。
「ああ、少し熱が残っているけどな、寝ていれば治る、この程度」
「それならいいんだけど」
ラケシスはベオウルフの額に手を伸ばした。ひんやりとした手を期待していたベオウルフは苦笑をする。
「・・・あんまり、あんたの手と変わらないみたいだな。あんたはどうなんだ」
「もう大丈夫なのよ」
手をひいて、ラケシスもまた苦笑を返す。彼女はとても落ち着いているようにベオウルフには見えた。
「そうか?」
「微熱は続くかもしれないけれど、大丈夫だって医師に言われたわ」
「そうか・・・俺こそ大丈夫だから、気にすんな」
「ええ、後はわたしに出来ることはなさそうだし」
そういいながらラケシスは、ベオウルフの肩を隠すように毛布のふちを引きあげた。それから、ほんの少しの隙間が開いているカーテンに気付いて丁寧にそれをひいた。長さが足りないわけでもないのに、左右からひっぱられたカーテンとカーテンの間には、何故か空間が出来てしまう。
「どうしてもちょっくら開いちまうんだ、それは」
「そうみたいね。知っている?今日は雪が降ったのよ」
「そいつは気付かなかった」
ラケシスは自分のショールを止めていたピンを抜き取って、カーテンの端と端を軽く縫いとめた。完全に閉まったわけではないけれど、幾分ましになったと思える。
そんな気遣いをこの女が出来たのか。
そう思ってベオウルフは驚いたが、その感情を彼は顔には出さなかった。
「ありがとよ」
「いいえ。気にせず眠って。わたしも、もう行くわ」
「ああ、そうしてくれるとありがたい。看病なんざうけるほどでもないし」
それに、そんなものには慣れてもいない。
言葉を続けようとしたが、なんだかそれすら面倒になってベオウルフは瞳を閉じた。
ラケシスがゆっくりと、出来るだけ静かに、と配慮して歩く音。
椅子をひいてきて、そして、座る音。
なんだ、出ていかないのか。そう思ったけれど、ラケシスが傍にいることは嫌というわけではない。
眠りにつく様子を人に見られることが気恥ずかしいと彼は思わないし、今まで一度や二度はラケシスのもとでうたた寝をしてしまったこともある。
思えば、それがそもそもおかしい。
ベオウルフは目を閉じたままそう思いついた。
若くて血気盛んな頃には何度か女より先に寝てしまうこともあったが、傭兵である自分が容易に女の前で眠ることなぞ本来あり得なかったのに。
「ラケシス」
「どうしたの・・・ごめんなさい、わたしがいては眠れないのね。今、出て行くわ」
「違う」
「なに」
とても面倒だけれど、今でなければ聞けないと思える言葉が、不意にベオウルフの口から漏れた。ベオウルフは瞳を開けずに、溜息に似た息をついた。
「あんたは、俺の何なんだ」
「・・・どういう意味」
「・・・あんたが、ここにいることが、嫌じゃない」
彼の言葉の使い方が、自分に似ていることをラケシスは気付いた。
それは、ベオウルフの言葉ではない。間違いなくラケシスの言葉だ。
「それに、今日のあんたはいつもと違う。病人には手厳しくないようだな」
「当たり前じゃない、そんなこと」
「そうか。当たり前のことか・・・あんたは、病人にも厳しいことを言うと思っていたんだが」
「お前だって」
ラケシスは静かに答えた。
「おととい、わたしに優しかったじゃないの」
「俺が?あんたに?」
「そうよ」
「そんな覚えはないんだが」
「部屋に来てくれて、冷たい手を貸してくれて、水を汲んでくれて。ノディオンにいれば当たり前だったことが、今は当たり前ではなくて、お前が来てくれなければ誰も来やしなかったことをわたしは知っているのよ・・・わたしは、知っているの。それらのことは、悔しいけれど、多分お前が教えてくれたことだわ」
ベオウルフは黙った。
彼女の言葉は、自分が深入りしてしまったことを、彼女にもまた悟られてしまっているということを物語っていた。
「こんなときに聞き返すのもどうかと思うのだけれど」
ラケシスは続けた。
「では、お前は、わたしの何なの」
「・・・だな」
ごろりとベオウルフは寝返りをうち、ラケシスに背を向けた。
この男にはめずらしいあからさまな逃げを、ラケシスは非難せずに黙っていた。
毛布の上からでもわかる、エルトシャンよりも広い背中をしばらくみつめる。
「わたし、お前のことを、嫌いではないわ」
応えはない。
「おやすみなさい」
そっと立ち上がってラケシスは静かに扉に向かう。
扉を開けて、外に出て、閉めて。
ラケシスの一連の動作を感じ取って、彼女が室内にはもういないことを知っても、ベオウルフはしばらくそのまま動かなかった。一刻も早く眠りにつきたい、と思いながら。

ピンを失った彼女のショールは、ラケシスが歩くたびにするりと肩から逃げようとする。
それを胸元でそっと押さえてラケシスは外の空気を吸いに行った。
外出するには薄着過ぎるけれど、ちょっとだけ外に出るにはショール一枚あればなんとかなると思えた。
あまりに到来が早いシレジアの冬であったが、ここ数日は少し暖かかった。逆にそういう時に体調を崩しやすくするものだと医師から聞いた。そして、また今日の冷え込みだ。気をつけないとね、とラケシスはそっと自分の体を軽く抱く。
セイレーン城の入口に向かう大きな階段をゆっくり降りていくと、丁度誰かが外出から戻ってきたところだった。
ジャムカとエーディンだ。
「お帰りなさい。お出かけだったのね・・・あら、まだ雪は降っているの?」
「今止んだばかり。風邪をひかない程度に帰ってきましたわ。ラケシス様、体調はもう大丈夫なのですか?」
「大丈夫です。シルヴィアとベオウルフは寝込んでいるみたいだけれど。どちらにいってらしたの?」
ジャムカの外套の雪をはらいながらエーディンは笑顔で答えた。
「あまり動かないでいるのもよくないってお聞きしたから、少し城下町に」
エーディンの腹部は丸みを帯びていた。彼女の懐妊は誰にも祝福されている。
「きっと、寒さに強い子供が産まれるでしょうね」
とラケシスが言えば、めずらしくジャムカも笑って答えた。
「いつかグランベルやヴェルダンに連れて行っては、暑いと怒られてしまうかもしれないな」
「あら、でも、ここだって夏はあるじゃない」
「穏やかな夏は、グランベルの春とあまり変わらないんじゃないか?」
「そんなことないわ」
間違いなく、お互いをお互いの愛しい人として認識をして、信頼をして、恋人から生涯の伴侶になった二人。
ラケシスは幸せそうな二人に「それじゃ」と一言声をかけて、脇をすり抜けて外へ出る。
一歩踏み出せば、冬の弱弱しい、それでも眩しいと思える陽射しが彼女の視界を満たした。
「寒さに強い子になるのかしらね。私はまだ慣れないのに」
先ほど自分が二人に向けた言葉をラケシスは呟いた。
見慣れたはずのセイレーン城付近を、雪が白く覆っている。
雪の上を歩くような靴をはいていなかったから、彼女はその場から動かない。
慣れてもおかしくないほどに滞在して、けれども、明らかに自分の居場所とは思えない風景をぐるりと見渡した。
そして、ついにぶつけあってしまった自分達の言葉を思い出す。
あんたは、俺の何なんだ。
お前は、わたしの何なの。
皮肉なものだ、とラケシスは思う。多分ベオウルフは、自分達の間柄が「第三者」によって変化した兆しなぞ気付いてもいないだろうに。
手で触れて、頬を寄せて、口付けて。そこにはお互いとお互いしかいなくて。
服でお互いの間を遮る抱擁よりも、直接触れ合うその熱さや冷たさがいつでも自分の体の中に残っていて、あの男を思い出すたびにその感覚が蘇ると思うのに。
なのに、あの男は第三者を通して動いてしまった間柄を、ラケシスに言葉にしろと言うのだろうか。
そんなこと、言いたくなかった。それでも、触れ合う時の気持ちを言葉にして、お互いの関係を意識することはもっと恐ろしいとラケシスは思う。
間違っていない答えの一つはラケシスだけが知っていた。それは、間違っていないというだけで、全てではない。
わたしは、お前の子を産む女よ。
そんなことをあの男に言いたいとは思えなかった。
たったそれだけの関係なら、きっと、この世界のどこかにいる他の女が既にその立場を得ているに決まっている。それがどんな女かはわからないが、何故かその女と自分が同じだとラケシスは思いたくなかった。
わずかに吹く風に体を震わせてラケシスはすぐさま身を翻して城内に戻る。
忌々しいわね。
わたしは、あの人に風邪なんてうつしてやいなかったのに。
ショールの胸元を押さえながら、少しだけまだ火照る体を屈めるようにラケシスは歩いた。
そして、ベオウルフが全快するまで、もう彼の部屋にはいくまいと心に強く誓った。
熱が下がればきっと彼はラケシスのもとに来るだろう。ただ、これを返しに来たんだ、とピンを差し出すに違いない。
そして、自分はありがとうと答えるだろう。
その先のことはラケシスにもわからないし、きっとベオウルフにもわからない。そして、未来にデルムッドと呼ばれる、第三者にも。


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モドル

本当はあたくしは面倒な恋愛は好きではないんです。好きなら抱きしめたいし抱きしめて欲しいし、好きって言いたいし好きって言って欲しい。手を握って一緒に歩いて欲しいし、笑って欲しい。それがかなわないのは、彼等はどちらもとても不自由な人間だからだと思います。
あたくしは、ラケシスではなく、ベオウルフこそが、普通の恋愛が出来ない男なんだと思っているのです。