譲りたいもの、譲れないもの


ガキって言われた。
わかってた。わたしに対してそんな言葉を向ける人がいるとすれば、それはエッジだって。
わたしに対してそんなことを言うのは、エッジだけだって。
でも。
わかってたけど、それでも。
わたしは、エッジにだけは……他でもない、エッジにだけは、そんなこと言われたくなかったんだ。
わかってたけど。
わかってたんだけど、それでも。
……胸が、痛い。

魔導船には休憩のできる装置がある。何度も使ったけれど、わたしはその装置で休むのが少し苦手だった。狭い機械の中に閉じ込められているみたいな気がして、なんだかいつも息苦しいように感じてしまう。
そのせいか、目が覚めるのもいつもわたしが一番で。操縦室の大きな窓から、一人で外を眺めて、みんなが起きてくるのを待つのがわたしの習慣になっていた。
今日もやっぱりわたしが目を覚ますと、起きている人は他に誰もいなかった。
みんなが目を覚ましたら、フースーヤとゴルベーザの後を追って月の中心核に向かう。こうやって、みんなを待ちながら外の景色を眺めるのもこれが最後になるんだろう。
……それなのに。
わたしの目に、外の景色はちっとも入ってこなかった。
ぐるぐるぐるぐる。わたしの中で、繰り返し再生されるのは、数時間前の出来事で。
「ガキはいい子でお留守番だ」
いつもわたしをからかう時みたいに、意地悪な笑みを浮かべて、そんなことを言った人。
あれも、冗談だったの?
冗談にしたって、ちっとも笑えない。ちっとも面白くなんか、ない。
そしてわたしは、あの時のエッジの言葉が冗談なんかじゃなかったことを知ってる。
だってエッジ、怒ったもの。
魔導船にこっそり忍び込んでいたわたしに、怒声をあげた。……セシルとローザには、にやにや笑いながら冷やかしたりしたのに。すうっとその笑顔が消えた。
……でも、わたしも怒っていたから、声を上げたエッジを無視して、セシルに向かって話を進めた。
言いたいことをセシルに言って、わたしはにっこり笑ってみせたけれど、本当はわたしはエッジに向かって叫びたかった。
エッジにだけは。
わたしの戦う理由を知っているエッジにだけは。
あんなこと、言われたくなかったのに。
今のメンバーの中で、一緒に戦った時間は一番短いくらいかもしれないけれど、それでもエッジは一番わたしのことをよくわかってくれてるって……そう、思っていたのに。
わたしのこの思いは、わたしの単なる独り善がりな期待だったんだ。
悲しかった。
悔しかった。
切なかった。
失望、した。
どの言葉も当てはまるような、やっぱりちょっと違うような、複雑な気持ち。
あ、やだ。
考えていると、目の奥が熱くなってきた。鼻もなんだかツンとする。
ダメだダメだ、泣いちゃダメだ。……だってそんなの、なんだか悔しい。
なんだか、泣いちゃったら負けのような気がした。
……何に負けるのか、自分でもよくわからないけど。
目を閉じて、目頭に力を入れて、潤んできそうになる涙に引っ込むように命じる。
深呼吸して、涙が命令どおり引っ込んだのを確認して、落ち着くのを待って、そうして目を開けると、目の前にポーチカがいた。
ちょっと首を傾げるようにして、わたしの顔を覗き込んでいた。
ポーチカ。わたしが小さい頃からの、大切な友達。小さい頃は一緒によく遊んだし、幻界でも仲良くしていたけれど、大人になってこっちに戻ってきてからは、勝手に出て来たりしなかったのに。
まるで小さい頃、泣いているわたしにそっと寄り添ってくれた時みたいに。
いつもと同じ笑顔を浮かべたポーチカが、そこにいた。
あぁ……そっか。
今、わたしあの時みたいなんだ。
膝を抱えて泣いていた子どもの頃みたいに、不安定に感情が揺れているのを感じて、それで心配してポーチカは来てくれたんだろう。
「……ポーチカ」
つぶやくと、気が緩んだのか、せっかく止めた涙があふれてきた。一度あふれてしまったら、もう止まらなかった。
手を伸ばしてポーチカを抱き締める。
わたし、大人になったと思ってたんだけどな。
大人になって戻ってきて、今度こそみんなの力になれるって思ってたんだけどな。
でも本当は、ポーチカに心配させちゃうくらい、まだまだ子どもで。
……ううん、本当はそんなことわかってた。
前に、シドのおじちゃんにからかわれて怒ってるエッジを見て、くすくす笑いながらローザがこっそり教えてくれた。
「人間ってね、本当のことを言われてしまうと、ムキになって怒っちゃうんですって」
わたしはまだ、あまりにも子どもで。そのことがとても歯がゆくて。
認めたくないけれど、本当は誰よりもそんなことわかってて。
だからこそ、言われたくなかった。
そうなんだけど、でも。
やっぱりそれだけじゃなくて。
「なんかね……ガキって言われて……拒絶されたみたいな……『お前は俺とは違う』って言われたような……そんな気がしたんだぁ……」
ポーチカに聞かせるわけでもなく、ぽつりとわたしはそう言った。
わたしはエッジと近しいと思っていたのに、エッジにとってわたしは近い存在じゃなかった、っていうか。
わたしが思っていたより、わたしとエッジの距離はずっと遠かった、ううん、遠ざけられた。……それが、とてもショックで。
大人と子どもの間に線を引かれて、「お前は入ってくるな」って拒絶されたような気がしたんだ。
でも、こんな風にポーチカにすがって泣いているわたしは、間違いなく子どもなんだろう。
ポーチカは何も言わない。黙ってわたしにおとなしく抱き締められてくれている。それが、とてもありがたかった。

ポーチカを抱き締めたまま、しばらくぼんやりしていると、はっきりとした輪郭を持たなかった悲しみが、だんだんくっきりと見えてきたような気がした。
わたしは……わたしは。
自分が子どもだと言われたことよりも、
そして、事実として、歯がゆいくらい自分がまだ子どもだということよりも、
それよりも、なによりも……エッジに突き放されたことが、
拒絶されたことが、
ものすごく、ものすごく……ショックだったんだ。
こんな風にポーチカに心配かけちゃうくらい、泣いちゃうくらい、悲しくて……つらかったんだ。
……でも、それはどうして?
どうして、こんなにもエッジの言動にわたしは傷ついちゃうんだろう……
「……リディア?」
ぼんやりしているわたしの耳に、突然声が飛び込んできた。
ハッとして顔を上げると、入り口のところにローザが立っていて、驚いた顔をしてこっちを見ていた。
慌ててわたしは顔に残った涙をぬぐう。ローザの出現に驚いたポーチカはあっという間に消えてしまった。
「ローザ、起きたんだ。早いのね」
涙をぬぐいながら、わたしは一生懸命明るくローザに声をかける。
「みんなにお茶を淹れておこうと思って……それより、リディア……あなた、泣いてるの?」
まだ驚いたようにローザは入り口に立っていたけれど、わたしの声で我にかえったように、小走りに駆け寄ってきた。そうしてわたしの肩を抱いてくれる。
「えへへ……ごめんなさい。なんでもないの」
「なんでもないわけないでしょう? 話したくないことなら、無理に話せとは言わないけれど……」
ローザは、優しい。
みんなのために少し早く起きて、お茶を淹れておこうなんて気を配って。
でも今は、泣いていたわたしのために、お茶なんてそっちのけで肩を抱いて、話を聞いてくれる。
綺麗で、優しくて、大好きなのに……わたしは今、ローザに少し、嫉妬してる。
そのことが……そんな自分が、たまらなく嫌。
でも、考えてしまうんだ。
わたしがローザみたいに、もうちょっと大人だったら、
わたしがローザみたいに、「私がいなければ回復はどうするの?」ってきっぱり言えたら、
そうしたらわたしは、胸を張ってエッジの横に立てたのかな。
そんなことを考えてしまう自分が惨めで。
助けてくれている幻獣たちにも申し訳なくて。
「……ごめんね、ローザ。わたし、ローザが少し、うらやましくなっちゃったの」
ぽつりとわたしは惨めな告白をした。驚いたようにローザは少し、目を見開く。
「私が、うらやましい? ……どうして?」
驚いたようだったけれど、ローザは特に声を大きくしたりはしない。優しく続きを促してくれる。
「ローザは、わたしより大人で……ローザにしかできないことを、できるから」
わたしの言葉に、ローザは少し考えるように口をつぐんだ。それからゆっくりと、
「白魔法のこと? でも、それならリディアだって、幻獣を呼ぶことはあなたにしかできないわ」
「違うの」
わたしはそう言って首を横に振る。
「幻獣たちに力を貸してもらうのは、あくまでも攻撃のひとつの手段、でしょう? 幻獣たちを呼ばなくても、攻撃の方法はほかにもいっぱいあるもの。でも、みんなを癒すことは、ローザにしかできないの」
わたしは馬鹿なことを言ってる。それはよくわかってた。
昔、わたしは白魔法が使えた。召喚魔法をたくさん覚えるために、白魔法を捨てたのはわたしだ。
今、仮に召喚魔法を捨てるなら、白魔法が使えるようになるとしても、わたしは白魔法を選んだりしない。
単なるないものねだり。駄々っ子だ。そんなこと、誰よりも一番自分が良くわかってた。
「リディア。本当に、そう思っているわけじゃあないでしょう? あなたは幻獣たちが大好きだもの」
ローザはそう言って、わたしの正面にしゃがむとわたしの両手をとって、わたしに微笑みかける。
「リディアが何を気にしているのか、わかったわ。エッジのことでしょう?」
ローザにそう言われた途端、顔がかっと熱くなった。言い当てられたことが、なんだか無性に恥ずかしい。
「べっ……別に、わたしはエッジのことなんか……」
「あなたより大人な私がうらやましいのは、エッジに子ども扱いされたから。白魔法を使える私がうらやましいのは、回復はどうするの?って言った私に……そんな私を連れていこうと決めたセシルに……エッジが反論しなかったから。……違うかしら?」
違わない。ローザの言うとおりだった。でも、それを認めるのは恥ずかしくて、わたしは黙ってうつむいてしまう。
「ねぇ、リディア? 私も最初、セシルに置いていかれそうになったわ? それも、今回だけじゃない。覚えてる?」
それは、確かにそうだった。覚えてる。
カイポの村で。病気が治ったローザはセシルについていくと言ったけれど、最初セシルはそれを止めたんだった。
「リディア。それは、セシルが私を足手まといになると思ったからだと思う?」
ローザの言葉に、わたしは首を大きく横に振った。
「違うわ。セシルはローザのことが心配なだけ。ローザを危ない目に遭わせたくないだけよ」
わたしの返事に、ローザはゆったりと微笑んで、うなずく。
「そうね。そして、セシルの決めたことに、エッジは反対しないわ。それは、私のことを一番気遣っているのがセシルだということを、エッジが知っているからよ」
……え?
「私を連れていくかどうか。それはセシルが決めることだと……そう、エッジは思っているの。だから、セシルが私を置いていくと決めた時も、連れていくと決めた時も、反対しなかったのよ」
だから、ね? とローザはわたしの瞳を覗き込む。
「私があなたより大人であることも、白魔法を使えることも、関係ないの。セシルが決めることだと思っているから、何も言わないだけなのよ」
それなら。それならどうして、わたしには。
目に焼きついて離れないのは、セシルとローザを冷やかしていたにやけ顔が、すうっと怒りに変わる、その表情。
ローザさえうまくいけば、当然わたしも一緒に連れていってもらえると思っていたのに。実際、セシルはわたしも一緒に行こうって決めてくれたから、それは間違いではなかったけれど。
胸の奥のわたしの言葉が聞こえたように、「でもね」とローザは言った。
「でもね、エッジは、あなたのことは……口を挟みたいと思っているの。そして、セシルが私を置いていこうとした理由が邪魔だからじゃないのと同じように、エッジは決してあなたが邪魔だから置いていこうとしたわけじゃないわ」
ローザは、やっぱり優しい。一生懸命わたしのことを慰めてくれる。
でも、でも……その言葉たちはなぜか、わたしの心に届かない。ううん、なぜかじゃない。理由は良くわかってる。
それは、ローザのせいじゃない。わたしのせい。わたしが自分に自信がないから。
そして、エッジの怒った顔が、目に焼きついて離れないから。
うつむいてしまったわたしの頭に、慰めるようにそっと手を置いて、それからローザはお茶の葉の入っている缶を手に取った。
ふたを開けて、「あら」とつぶやく。
「空っぽだわ。ちょっと貯蔵庫にある分を取ってくるわね」
そう言って、ローザはお茶の葉の缶を手に、魔導船の奥、デブチョコボのいる貯蔵庫へと歩いていった。わたしはまた、ひとりになる。
ローザの背中を見送って、またわたしはぼんやりと窓の外に目をやった。
窓の外に広がる月の景色。だけど本当に見つめていたのは、窓の外の景色じゃない。窓に映る自分の顔。
口をへの字にして、今にも泣きそうな、わたしの顔。
その顔が、わたしに現実を突きつける。事実を教えてくれる。
今、わたしを支配している感情が、怒りや悔しさではなくて、悲しみと寂しさであること。
わたしに来て欲しくなかったんなら。わたしなんかいないと思って振舞えばいい。
胸の奥でエッジに向かってそんな風に強がってみる。
そうしたら、窓に映るわたしの顔は、ますます泣き出しそうに歪んだ。
どうしてそんなに、エッジのことで心を揺らすの。
セシルやローザやカインが、わたしのことを認めてくれたら、それでいいじゃない。
三人が認めてくれているのに、どうしてたった一人のことで、わたしはこんなに心を揺らすの。
一緒にいた時間だって、一番短いのに。あんなにいい加減なやつなのに。
それなのに、どうして……
窓に映るわたしに向かって問いかける。泣き出しそうなわたしの顔は、泣き出しそうな顔のまま、小さく笑ったように見えた。
でもね。多分、セシルよりもローザよりもカインよりも、わたしのことを一番良く知っているのはエッジなんだよ。
そして多分……一番わたしのことを気にかけてくれていたのも、エッジなんだよ。
そして……わたしが、一番気にかけているのも……
その先は認めたくなくて、わたしは泣き出しそうに笑う自分の顔を見なくて済むように目を閉じた。
ローザはまだ帰ってこない。お茶の葉を取りに行っただけのはずなのに、遅いな。
早くローザが戻ってきてくれたらいいのに。そうしたら、わたしの中で響いてる声に耳を傾けないで済む。ぐるぐる回る思考もきっと止まってくれる。
こんなに、あんなやつの顔が脳裏にちらついたりしなくなる。
……あれ?
その時になってようやく、わたしはおかしなことに気がついた。
お茶を淹れようとしてから、お茶の缶が空っぽになってることに気づくなんて、ローザらしくない。
ローザなら、お茶を淹れて缶が空っぽになったその時に、次にお茶を淹れる時のためにちゃんと補充しておくはず。
よくよく考えてみれば、装置で休む前にローザはみんなにお茶を淹れてくれて、その時に「ちょうどお茶缶が空っぽになっちゃったわ。補充しておかなくちゃ」とか言ってたような……気がする。
それなら、どうして……
その時、扉の向こうで小さく物音がした。
回復の装置が止まった音。そして、装置の扉が開く音。
誰かが起きたんだ。
……ううん。誰か、じゃない。残る三人の中で一番目が覚めるのが早いのはエッジだって、わたしはよく知ってる。
今まで何回かあの装置で休んだけれど、大抵わたしの次に起きて来るのはエッジだった。
一度、「エッジもあの装置が苦手なの?」って聞いたら、「別にそういうわけじゃねぇけどな。忍者ってのはあんまり睡眠時間がいらねぇんだよ」なんて言ってたっけ。
いつもなら、そうやって早起きしてきたエッジと二人でおしゃべりするのも悪くなかったけど、今は大問題だった。
今エッジと二人で会いたくない。
どうしよう。どうしよう? どうしよう!
心臓がぎゅっとつかまれたみたいに苦しくなる。
どうしよう!
意味もなくあたりを見回したけれど、もちろん隠れるようなところなんてあるわけなくて。
どうしよう。……消えちゃいたい。
だけどもちろんそんなこともできるわけなくて。
とっさにわたしは入り口に背を向ける。エッジが来た事になんか気がつかなかったふりをした。
一心に窓の外を眺めているふり。
もしかしたら、ローザはそろそろエッジが起きてくることを知っていて、わざと席を外したのかもしれない。
「二人でちゃんと話し合いなさい」ってローザは言いたいのかもしれない。
でも、まだわたしはどんな顔をして、エッジに向かって何を話せばいいのかわからなかった。
扉がスライドして開く音。そして部屋に入ってくる軽い足音。
足音は、一歩部屋に踏み込んできて、そして止まった。
きっとわたしの姿を見つけたせいだ。
このまま、気がつかないふりをし続ける? それとも……
小さく深呼吸をして、わたしはゆっくり振り返る。思ったとおり、足を止めてこっちを見てるエッジと目が合った。
「おはよう」
自分でも驚くほど穏やかに、あっさりと声が出てきた。きっと声と同じように、わたしの表情も穏やかだったと思う。
多分、それはさっき窓に映る自分の顔に、自分の中にある感情が怒りではないことを確かめてしまったからなんだと思う。
だからわたしは、諦めにも似た笑顔を浮かべて、エッジと向き合うことができる。
でも、こんなに穏やかに笑えたのに、なぜかエッジは眉を寄せた。
「どうしたんだよ?」
そんなことを言って、つかつかと近寄ってくる。何のことを言っているのか、さっぱり意味がわからない。
「どうしたって、何が?」
反射的に後退りながら聞き返す。じりじり遠ざかってはみたものの、あっという間にエッジに腕をつかまれてしまった。
「目が赤い。そもそもなんで逃げるんだよ」
あぁ……そっか。さっき泣いてしまったあと、ローザが来たから目をこすっちゃったんだった。
そんな風に納得しながら、全然違う返事をする。
「だってエッジ、怖い顔してつかつか歩いて来るんだもん。反射的に避けちゃっても仕方ないじゃない」
わたしの返事に、腕をつかむエッジの力が強くなった。
「何で目ぇそらすんだよ」
穏やかに穏やかに。そんな風に念じていたけれど、至近距離でエッジに見つめられると、やっぱり心が痛む。つい視線をずらしたわたしに、鋭いエッジの声が飛ぶ。
「エッジ、痛い。離して」
視線をそらしたまま訴えると、エッジの声はますます鋭くなった。
「返事になってねぇ」
詰問口調のエッジの声に、ついカチンときた。
どうしてそんなふうに、問い詰められなきゃならないの。
「さっきあくびをしたあと、ちょっと目をこすっちゃったの! そんなにじろじろ見ないでよっ」
お願い。そんな力でわたしの腕を握り締めたりしないで。
もうこれ以上、わたしの中に入ってこようとしないで。
わたしの願いは、独り善がりな期待でしかなかった。
勝手に期待して、それが裏切られて、そして勝手に傷ついた。
悪いのは勝手に期待したわたし。わかってはいるけれど、わたしがエッジに期待したのは、エッジがわたしの中に、踏み込んできたから。
誰にも打ち明けなかった秘密を明かして、エッジはわたしの「特別」になった。
特別になったから、願ってしまった。
願ってはいけない。それなら何も、与えなければいい。
わたしはもう、勝手に期待したりしないから。
だからもう、わたしの中に踏み込んでこないで。
エッジの手を、振り払った。自分の腕を取り戻して、わたしはわたしを抱きしめる。
エッジは、何を考えているのかわからない瞳で、そんなわたしを見下ろしていた。
どうなるんだろう。エッジ、どうするんだろう。
緊張で、思わず体がが固くなる。
……と、不意にエッジの肩から力が抜けた。
「そうだな。こうなっちまった以上、釈明もせずに元通りってわけにもいかねぇよな」
思いがけない言葉に、わたしは目を見開いた。
「どういう意味……?」
わたしの声に、エッジは少し情けなさそうに眉を下げると、一番近くの椅子に腰を下ろす。そして、隣りの椅子を指差した。
「ま、とりあえず座れよ」
そう言ってから、頭をぼりぼり掻いて、独り言のように「あーもーどーすっかなー」なんて言い始める。戸惑いながらも、とりあえずわたしはおとなしくエッジの隣りの椅子に座った。
情けなさそうに眉を下げたまま、エッジは頬杖をついてわたしの顔を覗き込む。
「怒ってんだよな? 俺はお前の事情を知ってたのに、あんなふうにお前を置いていこうとしたから」
エッジの言葉に、どくんと心臓が跳ねた。
わかってたんだ、エッジ。わたしが、他でもない「わたしの事情を知ってる」エッジに置いていかれそうになったことに、傷ついたということが。
でも、少しだけ違う。わたしは小さく笑うとそっと首を横に振った。
「違うよ。わたしは怒ったわけじゃない……悲しかっただけだよ」
わたしがそう返事をすると、頬杖をついてない方のエッジの手が伸びてきて、くしゃっとわたしの頭をなでた。情けない顔……ううん、すごく優しい目をして、エッジはわたしを見つめる。
「悪かったな。ああ言えばお前が傷つくのは知ってた。知ってて、わざと言ったんだ」
え……?
「なんで……」
かすれた声で、やっとそれだけ聞き返した。なんだかのどが張り付いて、声がうまく出てこない。
「お前を傷つけてでも、ここに連れてきたくなかったからだよ」
なんで……
やっぱり、わたしは邪魔? 足手まといだって思われてる……?
「だから、ローザと一緒に忍び込んでた時は本気で腹立った。傷つけて……嫌われてでも置いていこうとしたんだからな」
そこまでして置いていきたかったくらい、わたしって邪魔なの?
……じゃあ、どうして今エッジは、わたしにこんな優しい目をして笑うんだろう。
「でも、お前には譲れない戦う理由があるんだし。そもそも、言われたとおりにおとなしく待ってるなんて柄じゃねぇよな。俺の認識が甘かった。だから、もう腹は括った」
腹は括った? なんのこと……?
「あ、あの。できるだけ邪魔になったりしないように、わたし、気をつけるから……」
いろいろ言いたいことや聞きたいことがあるはずなのに、わたしの口から出てきたのはそんな言葉だった。そしてわたしの言葉に、エッジは目を丸くする。
それからまたくしゃっと表情を崩して、優しい目で笑った。
「だよな。やっぱりお前はそんな風に思って……で、へこんでたんだよな」
くしゃりくしゃりとエッジの手がわたしの頭をなでる。エッジになでられるのは嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、こんなにくしゃくしゃなでられたら、髪がくしゃくしゃにもつれてしまいそう。
わたしがそんなどうでもいいことを頭の片隅で考えていると、優しい目……でも、やっぱりどことなく情けなさそうな顔をして、エッジが言った。
「あのな。俺がお前を置いていこうとしたのは、別にお前が邪魔だからとか、そういうことじゃ、ねぇんだ」
そう言われて突然、さっきのローザの言葉を思い出した。
「セシルが私を置いていこうとした理由が邪魔だからじゃないのと同じように、エッジは決してあなたが邪魔だから置いていこうとしたわけじゃないわ」
どくんと心臓がまた跳ねた。
「俺がお前を置いていきたかったのは」
どくん。
「お前のことが」
どくん。
髪をなでていたエッジの手が、頭からそっと離れてわたしの頬に触れる。包み込むみたいに。
エッジの手はほのかにあたたかかった。全然熱くなんてなかった。それなのに、触れられたところから、かあっと顔が熱くなった。
「大事だから、だよ」
わたしは目を見開いた。
「大事だから、みすみす危険だって……命懸けの場所だってわかってるようなところに、お前を連れていきたくはなかったんだよ。いくらそれがお前の本意じゃねぇってわかってても。お前を怒らせてでも」
大事……?
エッジが、わたしを、大事?
「やっぱり。全然気づいてなかっただろ」
意地悪そうにそんなことを言うエッジは、ちょっといつものエッジに戻ったみたいだった。頬を包んでいた手が、ふにっとほっぺたをつまむ。
いつものわたしならすぐに「痛いよ!」って抗議するところだけど、今はそれどころじゃなかった。
「どうして、わたし?」
わたしの口をついて出た問いに、エッジは苦笑した。
「男が女を大事に思う気持ちに、理由なんて要るのかよ?」
逆に聞き返される。そんな難しいこと、聞かれたってわかんない。
多分わたしは情けない顔をしたんだろう。エッジの苦笑が笑顔になった。
「なんて顔してんだよ」
エッジの笑顔に、またわたしは全然関係ないことを思い出す。
それは戦闘が終わったあとの、いつもの光景。
いつ、それに気づいただろう。
戦闘が終わると、いつもセシルは真っ先にローザを見ること。
セシルは真っ先にローザを見て、ローザの元気な姿を見て、安心したみたいな顔をする。
そして、ローザも。いつも真っ先にセシルの視線を受け止める。
「私は無事よ」って言うみたいに。安心させるように笑みをこぼす。
わたしはいつもそれを、あぁ、恋人同士の光景だなぁ……なんて思って眺めてた。
でも、よくよく考えたら。
戦闘が終わると、いつもエッジは真っ先に、わたしのところに来てたような……気がする。
「お前、前に出すぎ。気持ちが前に出るのはわかるけどな。体まで前に出てどうするんだよ」……なんて、いつもわたしの頭をくしゃくしゃしながら、からかってたような……気がする。
そんなことを思い出して、顔だけじゃなくて体中が熱くなった。
「おいおい。真っ赤だぞ?」
涼しい顔で、エッジはそんなことを言う。
「だっ、誰のせいだと思ってるのよ!」
思わず、がたんと音を立てて立ち上がってしまった。それは、エッジとの距離が近すぎるような気がして、恥ずかしくなったからかもしれない。
「……で、お前は?」
「え?」
椅子に座ったまま、エッジはわたしを見上げる。何のことかわからなくて、きょとんとわたしは瞬きをした。
エッジはなんともいえない表情でわたしを見ていた。面白がるような、でもちょっと不安が混ざったような、本当に良くわからない表情。
「俺は曲がりなりにも一応の覚悟を決めて、お前に告白したんだけどな」
告白って……えっ……あっ!
足手まといというわけじゃないけれど、大事だから、危険な場所に連れていきたくなかった。……セシルが、ローザを思うように。
セシルとローザは恋人同士で。で、エッジがわたしに対してそんな風に思ってるっていうことは、つまり。……つまり。
「おいリディア、湯気が出そうなくらい真っ赤になってんぞ」
そんなことわかってる。だって体中が熱くて熱くてたまらない。
わたしは、どうなんだろう。多分、エッジは返事がほしいんだよね……?
わたしは、ローザがセシルを思うように、エッジのことを思っているんだろうか?
「……わかんない」
酷く情けない気持ちで、わたしはエッジを見下ろした。
「……でも、エッジは多分、誰よりもわたしのこと、よく知ってると思う。エッジにしか話してないことも、話せないことも、いっぱいあるし。……だから、ローザがセシルを思うみたいに、わたしがエッジを思ってるのか、良くわからないけど、でも……わたしにとって、エッジは特別な人なんだと……思う……」
たどたどしい口調で、わたしは自分の良くわからない気持ちを言葉にする。
こんな言葉でいいのかな? エッジには、伝わるのかな?
「……これじゃ、ダメ?」
不安いっぱいでエッジを見つめると、エッジは眉をちょっと下げて笑ってみせた。
「ま、そんなもんだろ」
あっさりとした口調でそんな風に言う。何がそんなものなのか良くわからないんだけど、でも。
「エッジ、ちょっと赤くなってる?」
なんだか、ちょっぴりほっぺたが赤くなってるような気がする。
わたしがちょっとかがんでエッジの顔を覗き込もうとしたら、エッジは飛び退くように椅子を蹴って立ち上がった。
「ちょっ……! ばっ……! 見んな!!」
言葉になってない声を出して、エッジは腕で顔を隠す。
「あっ! なんで隠すのー!」
「うるせぇ! 見んな!!」
エッジが部屋に来た時とは反対に、詰め寄るわたし。後退って逃げるエッジ。
なんだか、心が軽い。
エッジは、わたしを大事に思ってくれて、嫌われてでも護ろうとしてくれて、わたしを置いていこうとした。
でも、わたしの譲れない気持ちも理解してくれて、今ここにいることを、許してくれる。
そのことが、こんなにも嬉しい。
ひょっとしたら……この気持ちが、恋なのかな。
そんな風に思ったけれど、まだ答えの出ない、今のこの状態を、エッジが許してくれるから、もう少し言わずにいよう。
長かった旅も、きっともうじき終わる。
その時まで……エッジの許してくれる、その時までは。居心地のいい、この関係のままで。

Fin
(蕾華さんの作品です。ありがとうございます。)


モドル