あなたの腕-3-

思い出したくないことを今まで思い出さなくて済んだのは、何故だろう。
具体的に考えているわけではないが、眠りにつく寸前、リディアはわずかにそのことを思った。
今まで思い出さなかったのに、どうしてかなぁ。
言葉に表すなら、そんな疑問。
灯りがついたまま眠ることは最近少なくなった。
特に、魔導船の中にあるシェルターは、灯りを感じさせない
久しぶりに、部屋の一部を温かく照らす灯りの傍で眠ろうとしていると、瞼の奥まで照らすわずかな光が気になる。
それは目の奥にまで広がっていく気がする。
いつもは見えないように、気にしないようにしている、自分が知らない部分まで照らし出されてしまいそうな光。
それは、しまい込んでいた記憶までリディアの脳から引き出すために「ほら、見てご覧」と今まで目を背けていた場所を暗闇の中で明るく浮かび上がらせる。
浅い眠り。
灯りが点る安心感、誰かがそこにいる安心感。
その裏返しのように、誰かが眠る自分の傍に近付く恐怖。
いつも自分を守ってくれるはずだった人は、そこにはもういなくて。
深い眠りに導かれそうになっては、何かが引き戻す。
本当は間違いなく深く一刻二刻と眠っているはずでも、一定時間で再びリディアは浅い眠りに引きずられるように夢うつつに戻る。
眠っているようで、ずっと起きているようで。
その曖昧な状態で、遠くからカッ、カッ、と小さな音が聞こえた。
あれは何の音だろう。リディアは再び落ちていきそうな意識の中で気づいて、鼓動を速めた。
誰かの足音。
この部屋に向かってくる。
足音は一人じゃない。怖い。
半分意識がなくて起き上がることも出来ないけれど、自分の中で生まれた恐怖だけは嫌というほど感じている。
例えば、洞窟の中で、外に魔物がいる状態だって眠れたのに。
わかっている。それは、みんなが傍にいることを知っていたからだ。
なのに、どうしてここでは安心して眠れないのだろうか?
魔物が来るはずもない場所。人が住む場所なのに。
今まで宿泊したことがある、どの宿屋ともそう変わらないはずなのに。

「村の外には魔物がいるから、リディアは外に出てはいけないわ」

遠い記憶の母親の声。

「魔物は人間を襲うから、村の外に行く時は武器を持たないと。物騒な世の中だね」

村の男達がそう言って剣を腰にさす。

世の中には「悪い人間」がいるのかもしれないが、幼いリディアはそれを知らなかった。
母親はその「悪い人間」が村に来ないように追い払っていると知っていたけれど、その「悪い人間」がどれほど「悪い」ものなのか、想像をしたことはなかった。ただ、勝手に、魔物の方が恐ろしくてたちが悪いものだとリディアは思い込んでいたし、そうであるように母親も話していたのではないかと思う。
近年あちこちで暴れだしたと言われていた魔物の存在は知っていた。それは、リディアも素直に「怖い」と思えた。
けれども、本当に恐ろしいものは、魔物ではなくて。
それは、人間の悪意だということを初めて知った日。
どうしてミストの村がこんなことに。どうしてお母さんが。
その漠然とした恐怖にたたみかけるように、リディア自身を狙ってやってきたバロン兵達。
そうだ、この場所は。
幼いリディアが、初めて具体的に知った、人間の悪意と、その悪意に対する恐怖が刻まれた場所なのだ。
リディアは、叫び声をあげた。いや、声をあげたつもりだった。
幻獣は誰もお互いを傷つけないし、憎み合いもしない。
同胞なのだからそれは当然だ。
それだけではない。彼らは幻獣ではないリディアに対しても優しい。
なのに、どうして人間は。

「大丈夫だよ」

そう言って手を差し伸べてくれた、守ってくれたあの人も人間なのだけれど。
本当に大丈夫なの?
リディアはすべての力を振り絞ってその問い掛けを音にしようとした。けれども、彼女の体はいうことを聞かずに夢の中ではベッドに横たわっている自分を見ているだけだ。

エッジはリディアを起こさないようにと静かにドアを開けて部屋の外に出た。
セシルとローザが疲労感のある表情を見せながら通路を歩いて来るところだった。
「お疲れ」
「ただいま。起きていたのかい?またせてすまないね」
セシルが小声で返事をした。
2人はエッジに手短に話した。
砂漠で老爺が追いはぎにあって怪我をしていたこと、ローザが治療をして家まで送ったこと、とりあえず命に別状はないものの体力を相当消耗していたため医者を呼んだこと。
ひどい話だわ、とローザは深く溜息をついた。老爺は何も悪いこともしていないし、集めた石だってそのままではなんの価値もなく、手をかけて磨いて加工をして工芸品を作り上げて、初めて彼らの収入源になるものだというのに。
「嫌な話だな」
「多分、相手は捕まらないだろうけどね」
セシルもまた、小さく溜息をつく。命あってのなんとやらというが、これからあの夫婦は「もしかして、また追いはぎにあったら」と思ったら、今まで通りの生活が出来なくなるかもしれない。そう思い巡らせてエッジは眉根を寄せた。それから気づいたように、ご苦労さん、と軽く2人をねぎらった。
「ねぇ、エッジ、リディアは?」
「ああ、こっちの部屋で寝てる。お姫様は一人で寝るのが寂しいんだとよ」
「まぁ」
驚いたようにローザは目を見開いた。確かに宿屋ではいつもローザと同じ部屋で眠っていたけれど、そこまでリディアが寂しがりやだったとは・・・なんて風に驚いているようだ。
「じゃあ、お部屋代わる?」
「いや、別にいーだろ。お前ら2人でそっちの部屋で寝りゃいー」
「エッジ、それ、あなたがリディアとそのまま一緒の部屋で、ってこと?」
「エッジ、リディアに何かするつもり?」
ローザの問いかける声は穏やかだった。エッジもそれには対して反発もせずに軽く答える。
「してねーし、する気もねーよ。信じろよ」
「だからといって」
リディアとエッジを一室に眠らせるのはどうかと思う。そうセシルは言おうとしたけれど、そこで言葉を止めてローザをちらりと見た。彼がそんな風に自分の恋人の意見伺いをすることはめずらしい。ローザは先ほどまでの問い掛けで彼女からの質問は全て終わった、とばかりに口を閉ざしている。その表情はやはり変わらず穏やかだ。エッジはそれに気付かないふりをして、勝手に話を進めた。
「遅くまで動いてて、お前らも疲れただろう?どうせリディアはぐーぐー寝ていて、いつも通り早起きするに決まってる。それには俺が付き合ってやるから、お前らはゆっくり昼くらいまで寝てればいい」
「エッジだって」
「俺は短眠だからな」
確かにエッジが言うことにも一理はあった。
とっくに月は西に傾き、あと半刻もすれば薄く明るい空になるに違いない。そんな時間に彼らは老爺を砂漠から連れ帰ったのだ。
セシルは微笑を浮かべた。本当はローザの様子を伺った時に彼の答えは出ていたのだ。それでももう一言エッジに食い下がったのは、彼は彼でリディアを心配する保護者役であることを完全には降りていないからだ。
「わかった。じゃ、お言葉に甘えて眠らせてもらうよ。この調子じゃ本当に昼くらいまで寝ていそうだしね」
「だろ」
「おやすみなさい、エッジ。くれぐれも、リディアのこと、よろしくね」
何かしたらただじゃおかない、とか、そういうことを言われるのではないかと警戒していたエッジは、ローザのその言葉に意外そうな顔を見せた。
それに気付いてローザは小さく微笑む。
「頭ごなしに、リディアのことだけ大事なわけじゃないのよ、私だって」
「・・・あぁ、ありがとよ、安心しな、なんもしやしねーよ」
セシルはそれについては何も言わなかった。
エッジとリディアの関係は今はとても微妙で、あやうい間柄だ。
それを強引にどうにかしようとエッジがリディアにせまることはないと思ってはいたが、正直なところ心配ではあった。が、何故それを心配するのかと追求されれば、セシルもローザも「余計なおせっかい」をしているのだと認めるしかないだろう。
リディアが自分からエッジのところにいき、エッジは何もしないと言った。ならば、それでいいのではないかと思う。
セシルもローザもリディアが大切ではあるけれど、リディアのことを心から愛しく思っているエッジのことだって、邪険にしているわけではない。
そして、その彼らの信頼をエッジが軽んじるとも思っていないのだ。

部屋に戻ってそうっとドアを閉めると、エッジは驚いて声をあげそうになった。
「リディア?」
「エッジ・・・」
「目、覚めちまったのか。まだ夜だぜ?いくら早起きがいいつっても早すぎる」
ベッドの上でリディアは上半身を起こして、ドアから入ってきたエッジをじいっと見ていた。
時折、その大きな瞳に見つめられると、エッジは息を止めてしまう。
エブラーナには一人としていないその緑の瞳に緑の髪。こうやって一緒に旅をすることに慣れた今でも、彼が知らなかった世界で生きてきた少女がもつ、不思議な雰囲気にたじろぐことがある。それは、言葉にすれば神秘性と呼ぶものなのだろうか。
けれど、多分リディアにそうと告げても彼女には意味は伝わらないだろうし、不安にもさせてしまうのだろうと思う。彼女が大人の女性になるまでは、絶対このことを口に出さないとエッジは決めていた。
リディアが眠る前からつけていた灯りはまだ油が切れていないようで、柔らかい光を灯している。やっぱり途中で消した方がよかったのかな、なんてことをエッジは思った。
「セシルとローザの声がした」
「ああ、戻ってきたぜ。安心しな、じーさんは無事だったってさ」
「そうなの、よかった・・・」
小さな笑み。リディアの喜び方がいつもとちょっと違うことに気づいて、エッジはリディアの傍に近付き、ぼさぼさに寝癖がついた緑色の髪をなでた。眠っていたくせに、なんでそんなに疲れた表情を見せるのかと、こちらが心配になってしまう。
「寝ろ。無事がわかれば、安心するだろ?」
「セシルとローザは?」
「向こうの部屋で寝るってよ。明日は昼くらいまで寝かせてやろうぜ、遅くまで人助けしてたんだしな」
「うん」
「俺ももう寝るぞ」
そっと手を離してエッジは隣のベッドに腰掛けた。
「おじいさん、どうして帰ってこれなくなったの?」
「・・・悪いやつが世の中いるもんだ。おいはぎだってよ」
「おいはぎ」
「じーさんの稼ぎの石やら、ありとあらゆる道具をもっていっちまった悪い奴がいるらしい。そんで、砂漠に放り出されたんだろ。あんまりすぐカイポに戻れたら追っ手が来るかもしれないから、遠くにでもおいてきたんじゃねーかな・・・」
エッジのその推測は的中していた。
セシルもローザもそうとは言っていなかったが、いつもの老爺がいるという場所とカイポを直線で結んだコースには、彼の姿はまったくなかった。まったくあさっての方向で出会うことが出来たのだ。それは奇跡的だった。
「ひどいね」
リディアは泣きそうな表情で、けれど、強い口調で言った。
「なんでそんなひどいことするのかしら」
「みんな、楽して生きたいんだろうな」
「だって、そんなの変よ。だからって人のものとってもいいわけじゃないもん」
「そうだな、変だ」
そう言いながらエッジは、いつでも出かけられるように着ていた胸当て等を脱ぎ、ブーツの履き口を閉めていた紐を緩めた。
「みんながみんなに優しかったらいいのに」
「当然の理想だな。そうだったら戦争も起きなくて、いい」
リディアの単純な言葉に、エッジは笑わずにそう答えた。彼はリディアのその願いが、この世界では永遠に叶えられないものだとわかっていた。けれど彼女は心の底からそう思っているのだろうし、その気持ちはとてもよくわかる、と思う。
「さっき、怖くなって目が覚めたの」
「うん?またか。なんだ、何が怖いんだよ」
「誰かの足音がする、って。セシルとローザのだったのね」
「多分な。怖かったのか」
エッジは肩につけたテクターをはずしてサイドテーブルに置いた。腰にまきつけているサッシュもするりと抜いて、それはサイドテーブルの傍にある、小さな椅子の背もたれにかけた。その様子をリディアは反対側のベッドの上でじいっと見つめていた。
「・・・なんだよ、寝ないのか」
「・・・朝まで起きてよーかなー」
「なんで」
「・・・」
「嫌な夢でも、みんのか」
うん、とも、ううん、とも判断が出来ない声がリディアの口から漏れた。
「・・・お前さ、なんで無理してカイポ来たんだ?別にセシル達と別行動でさ、俺と一緒にミストにいっちまってもよかったのによ」
「そうだね」
「やっぱ、みんな一緒がいいんだろうけどさ。お前、最初からあんまりカイポは気が進まなかったみたいだったしさ。なんでそこまでして、ここに来たんだよ」
リディアはベッドの上で上半身を起こしたままで、隣のベッドの縁に腰掛けているエッジをじっと見た。
「うまくいえないんだけど」
自分の心にある何かを具体的な言葉にすることは、とても難しい。ぽつぽつと思いついた単語を並べるぐらいしか出来ないかもしれないが、リディアは答え始めた。
なんとなく、と答えてもエッジはきっと納得しないだろうし、何よりもエッジからのその質問は、リディアにとって自分でも自分に問い掛けていた質問でもあったのだ。
「カイポに来て・・・ミストに行って・・・バロンに戻るのって・・・なんか、セシルが旅に出た時の、逆の道なんだなーって思ったの」
「あー・・・俺はよくわかんねーけど・・・そうなのか?」
「うん」
エッジはそこまで細かいことをセシル達から聞いてはいない。
ただ、セシルとカインが以前ミストの村を焼き払い、そこでまだ幼かったリディアと出会って、セシルは共に旅を続けた。その程度のことしか知らないし、ファブールだとかダムシアンだとか、どの国に誰がどの順番で誰と知り合って・・・なんてことをひとつずつ聞いたこともなく、時間の前後関係なぞ知るわけもない。
「そしたらね・・・。逆戻りしたら、なんかね」
「ん」
「馬鹿なこと言うな、って笑わないでね」
「・・・努力する」
「時間が戻って行くみたいにね、みんな、戻ったらいーなー、なんて思って」
「はぁ?」
「うまく言えないけど。でも、そしたら、またセシルのこと好きになっちゃうのかなーって思ったり」
ああ、それであの言葉が。それについてはエッジは納得した。リディアが言うことひとつひとつはとりたてて同調は出来ないけれど、とりあえず「セシルを好きになるかも」という懸念までのストーリーは理解した。
笑いはしないけど、とエッジは思う。笑いはしないが、突飛過ぎる発想だとは思う。
「そうやって、逆戻りしたらいいなって思ったら、あんな怖いこともまた、体験するのかなーって考えちゃって」
まいったな、とエッジは思う。
何を言えばいいのか言葉がみつからない。
笑い飛ばせばいいのだろうか。そうすればいつも通り「もう、真面目に聞いてよー!」と彼女は言うだろうか。
その答えはあまりにはっきりとしていた。
笑うことなんてもう出来ない。馬鹿だな、お前、考えすぎだぜ、ともしも言ったら、きっとリディアは悲しそうに、でも、懸命に笑顔を作って言うに違いないのだ。「うん、そうだよね」と。全然そんなこと思ってないくせに。
「でも、それは絶対絶対ないんだなーって思ったんだぁ・・・セシルのことも、2人きりでいた時と同じ感じがしないし」
「なんで?ローザがいるからか?」
「ううん。だって、この町の人、誰もわたしのこと、わからないでしょう?」
「リディア」
「当たり前よね。あの頃と今じゃ、こんな大きくなっちゃったし・・・わたしだって馬鹿じゃないから、わかってる。時間は戻らないものなんだって」
そう言ってリディアは、とてもゆっくりとうな垂れ、顔を覆うように緑の柔らかい髪がさらりと肩から鎖骨へと落ちてゆく。
何故そんな期待をしてしまったんだ、馬鹿。
そう言いたい気持ちを抑えてエッジは立ち上がり、隣のベッドに再び近付いた。リディアのベッドの前に立ち、屈むように右手をベッドについて、そっと左手を彼女の頬に伸ばす。
「そんなに、昔に戻りたいのか」
「・・・そしたら、テラのおじちゃんも、ギルバートのお兄ちゃんの恋人も、ミストのみんなも、お母さんも戻ってきて・・・お帰りって、言ってくれるじゃない?」
エッジの手はリディアの頬に優しく添えられた。うつむいたままその手のひらに頬を摺り寄せるようにリディアは首をかしげた。
「ミストに戻っても、お母さんはいなくって、わたしももう大きくなってるんだって知ってるの。知ってるんだから」
「そうだな」
頬に触れているエッジの親指に、リディアのまつげがわずかにかすった。まばたきと共に動くそれから受けるわずかな刺激を、なんだか愛しい、とエッジは思う。
「ねぇ、わたし達ゼロムス倒して、平和になったのに、どうしてエッジが言ってたみたいな、悪い人がいなくならないのかなぁ」
「そりゃ・・・人間ってのはそういうもんだからさ」
「以前は、そんなこと思いもしなかったのに。悪い人がいて、本当に簡単に、人のものを盗んだり殺したりするなんて、知らなかったんだぁ・・・幻獣達は、絶対そんなことしないし・・・考えたこともなかったんだもの」
その言葉にエッジはずきん、と胸を突かれたような痛みを感じた。確かにそうだろう。幻獣達がお互いに悪意のある行動をとって諍いになったとしたら、相当な規模の争いになるに違いない。それ以前にあの幻獣達が己の欲望のためだけに他者を傷つけるはずがない。彼らが自分の力を振るうのは、原則として召喚士を守る時だけなのだし。
エッジの痛みは、幻獣界で育ったリディアが人間界に対して失望しているのではないのか、という懸念だ。自分やセシルやローザ、カインといった仲間達がいても、それは人間界を構成するほんの小さな砂粒のようなものに過ぎない。俺達を信用出来ないのか、なんていう風に論点を摩り替えることがエッジにはできなかった。
「お前、怖いのか」
「何が?」
「・・・人間界で、生活するのが」
リディアはそうっと顔をあげた。エッジは彼女の柔らかな肌から手を離さないように気をつけながらベッドの縁に腰掛けて、体を曲げて彼女を見る。
ミストの村を見に行く、とリディアは言っていた。「見に行く」ということはそこに戻るわけではないということだ。それをエッジもセシル達もわかっていた。その先はどうするかの答えをまだ彼女が見つけていないことも。
誰もが思いもよらないほど、たくさんのことをリディアはこの町で再確認したのだろう、とやっとエッジは気づいた。わかるはずがない。ミストの村につく前にこれほど大きく彼女が揺れるとは、一体誰が想像しただろうか?
曖昧な笑みでリディアはエッジを見つめる。
それは、大人の女が男をはぐらかす時の表情に似ている、とエッジは思った。
まだ早いだろう。そんな笑顔を見せるのは。
そう思っても、エッジの口から出たのはまったく違う言葉だ。
「あのよう・・・抱きしめていーか?」
「変なの。エッジがそんなこと聞くなんてめずらしいよ」
「おめーがそんな顔してるほーがめずらしいんだよ」
「そっかな」
「そうだよ」
問いに対するリディアからの返事を待たずに、エッジはリディアの体を覆うように抱きしめた。
暖かくて小さな体。
「エッジの心臓の音がする。なんか嬉しいな」
リディアは心臓の音を聞くのが好きだとエッジは知っていた。子供でも大人でも、規則正しい鼓動を感じるだけで安心するものだということも。
「そか。早いか?」
「ううん、普通かな・・・」
「そうか・・・でも、こうやってることに慣れたわけじゃねーぞ」
「え?」
「お前が腕の中にいるのに、慣れたわけじゃない。慣れるほど、お前、俺に甘えてくれねーし」
それにはまたリディアの答えがない。
しばらくエッジがリディアを抱きしめていると、何を言うわけでもなく居心地が悪そうにリディアがもぞもぞと腕の中で動き出した。
「こうやってるのは、もう嫌か?」
ストレートな言葉でエッジははっきりと聞く。それへはちょっと困ったようにリディアが言葉を返してきた。
「あ、ううん、そういうわけじゃないの」
「・・・セシルの方がいーのかな」
「え?」
「俺よりさ、セシルの方が・・・安心するんじゃねーかと思って」
そんなことを口に出すことは、エッジにとっては屈辱だった。それでも、彼は言わずにはいられなかった。実際、リディアはエッジが伸ばした手にすら怯えて飛び起きてしまったのだし。
「そうじゃないのよ。あのね」
「ん」
「このまま、眠っちゃいそうで」
エッジの腕の中で、何も考えられなくなったまま、深い眠りに入ってしまいそうで。
それはそうだ、眠くなっても全然おかしくない時間なんだし、とエッジは思う。
「いーぜ。眠っちまえ」
「んー、でも、そんなの子供みたいだし、恥ずかしい」
「子供じゃねーし、恥ずかしくもねーよ」
リディアはエッジの腕の中で彼の顔を見上げた。ほのかな温かな灯りの中、エッジは小さく笑みを見せる。
本当は言いたいことは山ほどあった。
彼はもう子供ではないし、まがりなりにも「エブラーナの後継者」としてそれなりの教育も受けてきた。
彼は自分で普段意識はしていないけれど、ことリディアと共にいるとそれを痛感する。
小さな島国で育った彼が、異国人であるセシル達を、リディアを、まったく何の気兼ねもなく受け入れられたのは、物心ついたころからの教育の賜物だ。
知らない世界の知らない道理に「わけわかんねー」と声高にして彼は反応するが、誰よりも早くその違いや、何に基づいてその違いが発生しているのかなどを嗅ぎつける嗅覚や理解力に長けている。
だから、わかる。
腕の中のリディアの戸惑いや恐れといった感情に同調は出来ないけれど、彼女が育った幻界での道理や生活とか。
それらがまったく異質であること。そしてその根底にあるものが何なのか。
「・・・幻獣は、お互い、戦争なんてしねーもんな」
「うん」
けれど、この星にいる人間達は戦争を起こすしもっと小さな諍いをあちこちで起こす。
いや、月の民さえも。
召喚士が邪魔だといってミストの村を焼き払い、幼い子供だったリディアでさえも闇に紛れて葬り去ろうとし、年老いた老人から稼ぎを根こそぎ奪った挙句に命の危険がある場所に置き去りにするその数々の行為。
言い訳は出来ないな、とエッジは思う。
説得力は何もない。自分は聖人君子ではないのだし。
やがて、腕の中のリディアは小さな寝息を立て始めた。ことりと頭から、体から力が抜けて、それでも重いと感じさせない、あまり大きくない体がエッジにもたれかかる。
「でも、忘れんなよ。お前、お前が人間だから、人間で召喚士だから、あいつらと会えたんだしさ・・・」
エッジの呟きは、腕の中のリディアには届いていない。
そうっとそうっと起こさないようにリディアを抱きかかえて、ベッドにゆっくりと横たえた。
落ちてゆく彼女の指先が、まるで名残を惜しむかのようにエッジの腕を掠める。いや、名残を惜しんでいるのはエッジの方に違いない。
毛布を優しくかけてから、彼は灯りを消した。
灯りを消しても部屋の中はわずかに明るいことに気づき、朝が近いのだと知らされる。
「みんなで昼起きかな」
そう呟いて、彼もまた隣のベッドにおとなしく潜りこんだ。
もちろん、自分は多分誰よりも早く目覚めるのだろう、と思いながら。

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モドル