熱病-3-

二人は少しだけ距離を空けたまま歩き、カインの居住区と呼べる場所へと行った。
カインは、彼がよく食事時に使っている平たい岩を指してなにやら呟いた。ポロムはあまりそれを聞き取れなかったが、多分彼は「そこに座れ」と言ったのだろうと判断し、おずおずと「いつものカインさんの場所」に腰を降ろした。
椅子にするには少し低いけれど、足が下につかないよりはいくらか楽な高さだ。
その足元で、カインはいつも火をおこして湯を沸かしたりしている。
家屋があるわけではないし、誰かと生活を共にしているわけでもないため、火を起こすのはもっぱら外で、食事をするのも外だ。
偶然なのか彼が運んだのか近くにもうひとつ平たい岩があり、そこへカインが座ると、火を挟んでちょうど向かい合う形になりそうだ。
ポロムが困ったように見ていると、カインは彼女の足元に屈んで手早く火を起こした。
それから彼は、運んできた鎧を住処の奥に置いてきたり、食器らしいものを用意したりと、自分のペースで言葉もなく動く。
彼のそういった態度を見ると、いつも「もう私との話は終わりなんだわ」とポロムは思うけれど、今日は違う。
彼は彼女に茶を振舞うと言ったのだし、そもそも何一つ彼女の用事は済んでいない。
そうやって、彼との時間に猶予があるということが、ポロムにとっては嬉しくてならない。
ほどなくして湯が沸くまで、ポロムは何を話し掛けることも出来ず、彼の様子を目で追ったり、火にかけられている小鍋が時々震える様子をみて待っているだけだった。けれども、それは幸せな時間だ。
「お湯、沸いてきました」
「わかった」
カインは水を蓄えてある、あまり大きくない樽からひしゃくのようなもので水をすくい、手を洗った。
それから、いくつかの食器――どれも適当に手に入れたのだろうと明白なほど、統一感がまったくないものだ――を携えて、やはりポロムの向いに座う。
カインは持ってきた小さな袋から茶葉を出すと、かちゃかちゃと音を立てて茶を淹れ始めた。そこで、ポロムはついに我慢が出来なくなって自分から話を切り出した。
「カインさん、あの、バスケットを返しに来てくださってありがとうございます」
「ああ、別に。道具屋に行くついでに寄っただけのことだ」
「えっと・・・それで・・・」
バスケットの中に入っていたものは。
そう問いかけようとしたポロムへ、カインは茶が入ったカップを差し出した。
ふわりとポロムの鼻を擽る香りは、甘いけれどもくどくなく、鼻の奥には留まらないさわやかさを持ち合わせている。
「知らない香草の香りですね。いい匂い」
「バロンでは珍しくもないが、このあたりでは珍しいらしいな。道具屋のおやじが言っていた」
「いただきます」
礼儀正しくそういってからカップに唇を近づけ、茶を口に含むと今度は口腔内から香りが鼻をぬけていく。そして、その茶はあまり渋みもなく、柔らかな甘みが舌に残ってポロムの気に入った。
「槍や鎧は普段から手入れをしているものだが、毎日隅々まで行うわけにもいかない」
突然、茶とは無関係と思われる話をカインは始めた。
「とはいえ、自分で納得がいく手入れをするとなると、なじんだものはバロンのものが必要となってな。それで、道具屋にバロンの商人に掛け合うように頼んだんだ。それのついでが、この茶だ」
「おいしいですね。わたし、この味も香りも好きです」
「そうか」
カイン自身の感想がないということは、彼はきっとこの茶を以前から飲んでいたのだろうとポロムは思った。
「貰うぞ」
「あ、はい」
ポロムに茶を渡した後から、すぐにカインは遠慮もなくポロムが持ってきたものに手をのばして、ごそごそとあさっていた。
彼女から二度目の説明がなくとも、それらのものを彼が食すことは初めてではないため、野菜のペーストを適当な分量の湯で伸ばしてスープを手早く作る。
(カインさんが、わたしが作ったものを食べてくださっている)
以前から食物を持ってきても、その場で彼が食べる様子を見られることは希なことだった。
早速彼は固パンに少しだけジャムを塗り、スープをすすっている。
ポロムの手よりもずいぶん大きい彼の指は長い。
その人差し指と親指が平たい固パンを摘んで彼の口に運ぶ様子を、ポロムはしばらくの間ぼうっと見ていた。
それから、はっと気づいたように、話を元に戻そうと
「カインさん、バスケットの中に入って・・・」
「鎧の手入れをするために必要な油と、女性が使う香油の一種が、名前が似ていてな」
「え」
「道具屋が間違えて仕入れてきてしまった。あれは、俺が悪かった。もっと注意しておけばよかったものを。それを再度頼んで、今は待っているところだ」
「そう・・・だったんですか」
「間違えて仕入れたものを返そうと持っていったが、ポロムに渡せば使ってもらえるやもしれんと思って」
そういってカインは口の端についていたパンのかけらをぬぐい、スープを飲み干し、更に茶も一口飲んだ。彼が食事をする様子はがつがつとした感じがあまりないけれど、それでも間違いなく男性の食事のテンポで、見ているポロムにはいささか忙しく思える。
「えっと・・・女性が使う香油ということは、わたしもわかったのですけれど」
ポロムは口篭もりつつ、肩からぶらさげていたバッグの口を開けた。ごそごそと内ポケットを探りながら言葉を続ける。
「わたしには、早いようで・・・あ、違う」
これだ、と思って取り出したものは、ジーナからもらった練り紅の容器だった。
カインはそれをめざとく見つけ
「それも、バロンの細工だな」
と口にした。
「これは、あの、たまたま、知り合いから貰ったんです。練り紅なんですけど・・・」
ポロムはわずかに頬を紅潮させた。
なんとなく、気恥ずかしい。
年頃といっても、唇に色を乗せることすら戸惑っている彼女には、自分が「そう」であることをカインに言うことすら難儀に違いない。
「あの・・・カインさんがくださった香油は、練り紅と合わせるものなんですよね?」
「そのようだな。以前、そう聞いたことがある。のびがよくなって、時間がたっても色がくすまなくなるらしい。そのうえ、なんだ?女というものは、そういった香りをつけることが好きなんだろう」
女というものは、というカインの言葉に、ポロムは一瞬鼓動が大きくなった。
女というものは、それが好き。だから、ポロムに。
(それは、私を女と思ってくださっている、ということでいいのだろうか)
嬉しいような、恥ずかしいような。
その感覚をポロム自身が認識するよりも先に、彼女の体は容易に反応をしていた。
わずかにあがる体温。
それは、茶の温かさのせいではない。
「あの、カインさんのお気持ちは、とてもありがたいのですが」
「うん?」
「私、まだ、紅を塗るような年齢・・・というかその、塗ったことがないので」
年齢、と言い切ることが、いささか頭が堅いことのような気がして、一瞬ポロムは戸惑った。
では、何歳から塗っても良いのだろうか、とか、彼女とあまり年の変わらない少女達は塗っているのだし、とか、それらのことが彼女の言葉を止める。
カインの方はといえば、当然彼女のそんな葛藤や迷いをくみ取ることもなく、額面通りに受け取るだけだ。
「塗ってないのか。勝手に、塗ってるような気がしていた」
「・・・え」
そういうと、カインは身を乗り出してポロムの顔をじっとみる。
きっと、紅をさしていないことを確認しているのだ、とポロムは自分に言い聞かせて、どうにかその場から動かないでいることができた。
けれど、彼の端正な顔立ちがいつもより近く、そして自分をみているのだと思うと、どうにもならないいたたまれない気持ちや、まるで自分の顔を品定めされているような不快さ恥ずかしさを伴い、彼女の辛抱はそう続かなかった。
「あんまりっ・・・みないでください・・・!」
そう言って身をすくめてカインを拒否する。特に気を悪くしたようでもからかう様子もなく、すぐにカインは身をひいた。
「勝手だな。人の顔はじろじろみていたくせに」
「!」
その彼の言葉が先日のことだと気づいて、ポロムの体温は更にあがっていくようだ。
顔が、火照る。
それは、甘い痺れの伴う恥ずかしさではなく、自分が犯してしまった罪を暴かれた時のように、とりかえしのつかない言葉を突きつけられる恥ずかしさだ。
「ご・・・ごめんなさい。私」
「そう思うなら、ちゃんと見せろ」
「え」
カインは今度は身を乗り出してこなかったけれど、じっとポロムを真正面からみる。
その時間も、そう長くはなかった。
「ふーん・・・」
「カインさん?」
「塗ってるような、色に見えていた。あれか。色素の違いか、気のせいだったか」
「別に、そう唇の色は濃い方ではないと思うのですけど」
「だが、そのうち塗るんだろう?」
それは、かなり間抜けな質問だと言えるが、ポロムは答えに窮した。
カインが茶のカップに口をつけて、それを再び置くまでの間、ポロムはどう答えようかとずっと悩み続けている。
それを焦れったく思ったのか
「貰ったんだろう?誰やらに。貰ったのに使わないなんて、意味がわからん。それとも、それも俺と同じで押しつけられたのか?」
「えっ・・・あ・・・押しつけだなんて、思ってません!」
それだけは誤解されたくない、とポロムは僅かに声を荒げた。彼女の声に驚いたように、カインは僅かに目を見開き、瞬きをすると「そうか」とあっさり引き下がる。
「でも、わたしは、まだ・・・」
唇を彩る心積もりがない。
そう続けようとしてポロムは口篭もった。
では、いつ、と言われればなんと答えれば良いのだろうか。
そんな、されるかされないのかもわからない疑問への答えを考えあぐねて、ポロムは言葉をおし留める。
が、カインの方は、ひとまずポロムの主張を理解したようで、彼なりに提案をしてきた。
「もし、塗る予定がないなら、その練り紅をくれた人間にでもやればいい。男か?女だろう?俺に返されても、俺こそ使い道がない」
「え・・・」
カインがくれたものを、ジーナにあげる。
悪気がまったくないカインのその提案に、ポロムは眉を潜めた。
カインは悪くない。それをポロムはわかっていながら、どうして彼がそんなひどいことを言うのか、と胸の奥に痛みを感じる。
他の誰に言われても、それは正論だとポロムは思ったに違いない。いや、カインが言おうとその主張の内容は変わらないし、正しいことは明白だ。頭では彼女もわかっている。
しかし。
「・・・お返しします。役立てられなくて、ごめんなさい」
ポロムは立ち上がって、自分が座っていた岩の上に香油が入った容器を置いた。
「お茶、ご馳走様でした」
苛立ちだけではない。
悔しいとか、悲しいとか。ポロムの心の中にはたくさんの思いが渦巻き、冷静でいられない。
カインは、何故そんな風にポロムが頑なになっているのか理解が出来ないようで、不思議そうに彼女を見上げる。
「もう帰るのか」
その彼の言葉に、更にポロムは苛立った。
(どうした、とか、もっと・・・もっと、私の気持ちを深く知ろうと、どうしてこの人はしてくれないの)
それは、自分勝手な思いだ。
練り紅を塗らないのも、苛立っているのも、香油を返すのも、苛立ちを隠せなくなって帰ろうとしているのも、すべてがポロムの勝手だ。
それと知りつつ、もう少しだけ一緒にいたい、もう少しだけ自分の気持ちを知って欲しい、心配して欲しい、と願う自分がいることに気付いて、いっそうその場にいることが難しいと思える。
「今日は、忘れていくなよ」
カインは茶を飲み干してから、そう声をかけた。バスケットのことを言っているのだろう。その声音はまったくいつもと変わらない。
なんと残酷な男か、とポロムは頭に血が昇る。
彼に悪気はない。悪気がないから尚更悪い。
気付けば、まるで恨み言のような言葉達が、ポロムの唇から漏れていた。
「そうですよね。また、私のところへそれを返しにいくのは、面倒でしょうしね」
「・・・そういう意味で言ったわけでは」
「カインさんが持っていても仕方ないから、くださっただけですものね。他にお知り合いに女性がいれば、その方に渡したんでしょう?きっと。誰でもいいものなら、私、いりません」
「何?」
感情的に口から零れる言葉。意味がわからないように、カインは困惑の表情を見せている。
ポロムは乱暴にバスケットを手にとり、頭を下げた。
「じゃあ、さようなら。帰ります」
「おい、ポロム」
名前を呼びつつも、カインは腰を浮かそうともしない。それに気付いてポロムは更に苛立ち、背を向けた。
次に彼の顔を見たら、きっと自分は泣くだろう。
その思いは強く、彼女の心の中で警告音を鳴らしている。
それに急かされ、背を押されたように、ポロムはその場から逃げるように走り出した。
いや、逃げるように、ではない。
彼女は、それ以上辛い気持ちになることを恐れて、逃げたのだ。


複数回テレポを重ねてミシディアに逃げ帰ってきたポロムは、誰にも声を掛けられないように、忙しいふりをして全速力で走って家に戻った。
(パロムがいなくてよかった。パロムがいたら、きっと全部見透かされてしまうわ)
長老と共にミシディアを空けているパロムは、そんな剣幕でポロムが家に帰ってくれば、手に持ったバスケットから推測して、カインの元に行ったこと、そこで何かがあってポロムが逃げ帰ってきたことを容易に推測するに違いない。
パロムがいないことを寂しいと思いつつ、心の端では安堵する。
ポロムは、自分の持ち物を大切にする少女だ。
どんなに苛立っていても、外から戻ってくればバッグもバスケットも所定の位置に戻し、靴を脱いでベッドにあがる時だって、乱暴に足を振らないことがほとんどだ。
けれど、今日はそういうわけにはいかなかった。
バスケットはとりあえずはテーブルの上に置いたけれど、バッグは床の上に投げ捨て、外套は椅子の背に乱暴にかけただけだ。
そして、ベッドに飛び込むと一緒に足をばたばたと振って、靴を脱ぐ。
あまりに大きく振ったため、ポロムが脱いだ靴の片方は壁まで飛んでいってがつんとぶつかってから床に落ちた。
それを気にせず、ポロムはそのままベッドでうつぶせに突っ伏して、また少しだけ泣いた。
先日カインに会った日にあれほど散々泣いたのに、また泣けるのか、と途中で気付いて、そう思ったらそこからは涙が止まる。
案外と冷静になったものだ、と自嘲気味に口端を歪めて、ポロムはベッドの上に起き上がって座り込んだ。
「カインさんの、バカ」
小さい呟き。やり場のない気持ちは、声に出せばあまりにも子供じみた言葉にしかならない。
彼は知るはずもないのだ。
生まれて初めて、好きだと思っている男性から「女性」として貰ったものだったのに。
けれども、思いの他それはとても軽い気持ちでポロムに届けられたもので、女性ならばきっと誰でもよかったのだ。
確かに彼が言うように、ジーナに渡せばいいのだ。
そうすればきっと彼女は翌日には、いや、もしかしたらその場で唇を拭い、渡した香油を混ぜた練り紅の色を乗せるのだろう。
自分はそれを見てどう思うのか。
ああ、ジーナはやっぱり私よりずっと女の人なんだ。
そんな阿呆なことを思うのか。
(きっと私、妬むわ)
けれども、それはジーナのせいではない。
カインのように、ずっとずっと年上の男性を一方的に思っているのに、女性としての背伸びを出来ない、勇気のない意気地のない自分のせいだ。
自分が好きな男性が、本当は自分にくれたはずのもの。
たとえ、それが「自分のために」選ばれたわけではなくとも、他の女性の手にそれが渡ると考えると、それはせつない。
ごろり、とベッドの上にもう一度横たわり、頭の上の方で結んでいた髪をほどいてポロムは瞳を閉じた。
疲れた。
色々考えすぎて、苛立って気持ちが高揚している気がするのに、それを抑え付けるかのように、どこかが磨り減っているようで。
いつもの彼女は、昼寝をするような怠惰な習慣もなければ、昼寝をしなければならないほど体力がないわけでもない。
けれども、彼女は本当に疲れていて。
カインのことを考えて、睡眠が乱れていたことを彼女はとっくに忘れていたが、彼女の体は忘れてはいなかったのだ。


ぱちん、ぱちん、と何かが何かにはじかれているような音。
遠くから、それが聞こえる、とポロムが認識するのと同時に、彼女の目は覚めた。
「あ・・・」
寝てしまった。
そして、耳に飛び込んでいた音は、はじかれている音ではない。
夕立だ。
カーテンが開いたままの窓の外はうっすらと夕暮れを知らせる空の色になっているのに、更にそこにもやがかかっているように見える。
降り注ぐ大粒の雨があちらこちらを打ち付ける音が、夢の世界から彼女を揺り起こしたのだろう。
ポロムはベッドから降りて、急いでいる時に履くサンダルを足にひっかけた。
慌てて外に出ると、家の反対側にある物干し場では洗濯物が雨に打たれていた。
(そういえば、今日は湿度が高かった気がする・・・)
悲しい気持ちになりながら、手早くそれらを取り込む。パロムがいないため、いつもよりはずっと洗濯物が少ない。
朝一番に干した洗濯物は、間違いなく乾いていた。
カインに会って戻ってきたら取り込もう、と心に決めていたのに。
ポロムは腕いっぱいに洗濯物を抱えて、強い夕立に打たれながら玄関にぐるりと回って戻ってきた。
(・・・え?)
その時、彼女は視界の隅に違和感を感じ、すぐにでも家に入りたかったのにぴたりと足を止めた。
少し離れた場所に立っている数本の木々。
その下に。
「!」
ポロムの家に背を向け、こちらから見えないように。
突然の夕立で木の下に立ち止まっているその姿は。
(カインさん・・・どうして・・・?)
それは、ちらりとみえるだけの、ポロムが気付いたことが奇跡と言えるような距離だ。
いつもの甲冑に身を包むことなく、昼にポロムが会った時と同じ恰好で、カインはそっと木の下に隠れるように立っていた。
彼は決してこちらを見ずに、背を向けたまま動かない。
あわよくばポロムの家で雨宿りを、などと彼がまったく思っていないのだろうことは、その様子でポロムにはわかった。
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
ポロムは、鼓動の高鳴りを感じて、何かを恐れた。
間違えてはいけない、ともう一人の自分がどこかから言い聞かせているような気がする。
玄関の扉を開けて、ひとまず洗濯物をかごの中に放り込んだ。
(えっと・・・ああ、そっか、パロムが持って行っちゃったんだ)
男性用の雨よけの帽子は、家にない。
仕方がないとばかりに、ポロムは獣の骨をフレームにした小さな日傘を手にした。
ミシディアでは雨が降れば、フードつきの雨用の外套と雨よけの帽子を併用するだけであまり雨傘を使わない。
どちらにせよ、彼らは一年の半分ほどはフードつきのローブを身に纏うから、帽子はフードがない時にしか使われない。
ポロムが手にしたそれは、人一人が入るか入らないかの炎天下の日よけになる女性用の日傘だ。最近はそれを雨の日に使う者もいるが、ミシディアでは稀な光景でもある。
とはいえ、カインは魔道士ではないから、フードつきのローブを身にまとうはずもない。せめて、いつものように甲冑であれば、いくらかは雨を防げただろうに。
(・・・違う。きっと)
ポロムは、はっと気付いた。
彼女は試練の山からテレポを数回唱えるだけでミシディアに戻れるが、カインはそういうわけにはいかない。
彼が甲冑を着ていないのは。
(わたしがあんな風に逃げて・・・きっと、それからそう時間を置かないで、カインさんは山を降りていらしたんだわ)
間違いない。
彼は、ポロムに会うためにミシディアに足を運び、夕立で足を止められてしまったのだろう。
ポロムは焦りながらフードつきのローブを羽織って、家を出た。
思いのほか続く夕立はばらばらと耳に大きく鳴り響き、更に視界を悪くする。が、カインの姿は間違いなく木の下にまだあった。
「カインさん!」
ポロムは走り出し、自分が歩きづらいサンダルを履いてることに気付いて、足を踏ん張った。
夕立に彼女の声はかき消され、カインは気付かない。
弱まらない雨は、ローブから出ている彼女の足首を濡らし、また、足が跳ね上げる泥が更にそれを汚す。
もうすぐ落ちるだろう太陽は夕立の空にわずかに見えるけれど、温もりを最早届けはしない。
ポロムのローブの下には濡れてしまった体が冷えてきて、走りながらも彼女は身震いをする。
(いつもなら、夕立一つぐらい、どうってことないのに)
普段はもっとむうっとした日に夕立があるものなのに、今日は湿度が高いだけで気温はどうやらそうではないらしい。
「カインさん!」
「・・・!」
彼女の声に気付いたカインは振り返り、今まで彼女が見た中で一番驚きの表情を見せ――とはいえ、いつもは兜をかぶっているせいなのだが――それから眉根を寄せた。
彼はこの木の下に辿り着く前に相当降られてしまったようで、シャツは明らかに濡れそぼって体に張り付いていた。
その様子にポロムは一瞬戸惑ったが、気を取り直す。
「カインさん、これ・・・これを差して、わたしの家まで」
そういってポロムは小さな日傘を渡そうとしたが、カインは受け取らない。
「・・・いや・・・いい。もう少し、雨足が遠のいたら宿屋に行く」
「でも」
「すまない。みつけてもらって・・・来てもらったのに。だが、いいんだ」
かたくななカインに、ポロムは噛み付くように声を荒げた。
「どうして、ですか。宿屋に御用時があるわけじゃあないんでしょう?」
「・・・」
カインは、こういう時に容易な嘘をあまりつかない男だ。
宿屋に行く、と彼が言うのは、裏を返せば「ポロムの家には行かない」ということで、その言葉が本来は先に来るべきことなのだろう。
「とにかく、早く来てください!わたしもっ・・・わたしも、ちょっと、寒いので、早く帰りたいんです!」
そう言うポロムを見て、次はカインが声を荒げる番だ。
「なんだ。お前、なんでローブを着てるのにそんなに濡れてるんだ」
「濡れてから、ローブを着たからです。とにかく、早く来てください!」
かくして、ポロムは最近では稀なほど、強気でカインの腕をひっぱった。
以前の彼女ならばそんな風に、疎ましいと思われるほど彼に対して強引なことが出来たはずなのに、カインへの恋心は彼女からその積極性をいつの日か奪っていた。
彼の腕を引きながら、ポロムは一瞬心の中で「わたし、子供に戻った気がする」と妙な気持ちになったけれど、それは正解ではない。
カインは、自分の腕をひっぱるポロムの小さな手をみて口端を緩めた。
残念なことに、ポロムはそれには気付くことが出来なかったけれど。


夕立ちは一刻程度で止むこともあるが、今日はどうやらそうはいかないらしい。
ポロムはカインを引っ張って家に戻るとローブを脱いでかごに放り投げた。
カインにタオルを数枚渡してから、大慌てでパロムのクローゼットを物色する。
パロムはカインに比べればまだ体も細く、上背も足りていない。
そんな彼のワードローブからカインが身につけられるものを探すのは一苦労と思われたが、少なくとも腰を巻き布で調整するタイプのパンツは役立ちそうだった。
そういえば、いつもこれをパロムはずり落ちそうになるほどぶかぶかに履いていて、時には腰のあたりが見えていたような気がする。
ポロムはそれを「だらしない」と思っていたが、彼女と同じくらいの年齢の女子の中にはそれが良いと言う子がいることも知っている。
(シャツは、どうしようもないかも)
一応念のため、とシャツ一枚も少し乱暴にクローゼットから引き抜いて、ポロムはカインのもとに向った。
「カインさん、着替え、ここにおいておきますね。そちらの部屋でどうぞ」
「別に、着替えるほどのことでも・・・なくもないか」
それへ素直にカインが従ったのは、彼が濡れた衣類を着ていることに抵抗がなくとも、彼の足もとから床に滴り落ちる水を気にしてのことだ。
「思いのほか、濡れたな」
彼がそう呟いて隣の部屋――今はほとんど誰も使うことがない、客室と呼ぶには狭すぎる部屋だ――に移動する音をかすかに聞きながら、ポロムはタオルを頭からかぶって湯を沸かし始めた。
とにかく、何か温かいものを飲みたい。それから、冷えた足を温めたい。
濡れた髪は結ばなくとも、手で軽く束ねて後ろに流せば邪魔にならない。
彼女が棚に手をのばしてカップを用意していると、着替えたカインがこれまた頭からタオルをかぶった状態で部屋から出てきた。
「・・・何してる。ポロム」
「えっ」
「俺のことはいいから、着替えろ」
カインは、ポロムの足首がまだ泥で汚れている様子、ポロムの足もとで床の木が色を変える様子に気づいたようで、いつもよりも強い声音でそう言った。
が、言われた当のポロムは一瞬ぼんやりとして
「あっ!私!着替えないと!」
ようやく我に返ったように、素っ頓狂な声を出す。
カインの世話のことばかり考えていて、すっかり自分のことは御留守になっていたようだ。
「あ、あの、じゃあ、ちょっと失礼しますね・・・着替えたらお茶お出ししますから、ここに座っていてくださいな」
口ごもりながらポロムはそそくさとその場を離れ、自分の部屋に飛び込んでいった。


いつも、自分がいる、安心出来る空間。
そこに戻ったはずのポロムは、部屋がどれほどいつも通りでも自分自身がそうではないことに気づき、落ち着こうと深呼吸をした。
(何やってるんだろう、私・・・)
着替えを、と思うのに、何を着ていいのかよくわからない。
濡れた髪が首筋に張り付いて気持ちが悪いはずなのに、それをどうにかしようと頭がうまく回らない。
そうだ、服。
クローゼットを開けてみると、そこには当然のように見慣れた衣類が並んでいる。
けれど、ここでもまた、ポロムは途方に暮れる。
いつもの部屋、いつものクローゼットの中身。
けれど、そこにいて、それを選ぶ自分だけはいつも通りではない。だから、出来ない。
(カインさんに会いに行くだけなら、それなりに選べるのに)
「あー、もう!」
自分に苛立ってそんな声をあげて、ポロムはもう「どうとでもなれ」と服をクローゼットから出した。
着心地の良いかぶるだけの上着と、柔らかいスカート。
それは、どちらも彼女が家で過ごす時に気に入っている服だ。
数えきれないほどの回数着たもので、少しくたくたになってきている。そのぐらいの服が彼女は好きだった。
(本当は、もっと、可愛い服も着たいけれど)
自分の家にいるのにおめかしをするのは、カインを意識しているようで――もちろん、十二分に既に意識しているのだが――恥ずかしいと思えた。
それに、あの人はきっと、私の服なんて気にもしないに違いない。
本当にそうだったら少しばかり寂しいけれど、そうでも思わなければいつまでもポロムは悩み続けていたに違いない。
彼女は、濡れた上着を一枚脱いだ。
洗濯物を取り込むだけではそこまで濡れなかっただろうに、雨の中でカインの姿を確認している間に、嫌というほど彼女の服は水を吸っていた。そのまま床に落とすと、水の重さで床にへばりつくような形になる。
もう一枚、肌に触れている服の裾をポロムは掴んだ。
素肌にぺったりと張り付いた服の感触は、気づくとたまらなく不快で、すぐにでも脱ぎ捨てたい。
けれど。
ポロムの手はそこで止まる。
「・・・っ」
嫌だ。
だって。
着替えを手にして、部屋の隅に身を隠すように行っても、どうしても濡れた服を脱ぐ勇気が出ない。
外では、まだ夕立がばちばちとそこかしこに降り注ぎ、窓を閉じていても家全体に響くように耳に痛い音をかき鳴らしている。
ポロムは、まるで自分がまだその雨の中に一人でいるような錯覚に陥り、しばらく茫然と部屋の隅に立っていた。
どうしよう。
怖い。
同じ家の中に、カインさんがいて。
扉を隔てているけれど、間違いなく彼はそこにいて。
ただそれだけだ。それ以上彼は何一つ悪いことはしていないし、今だってきっとぼんやりとポロムが戻るのを待っているだけに違いない。
けれど。
(パロムだったら、何も、気にしないのに)
ものの数秒、いや、十数秒の話だ。
あと一枚、えい、と脱いで、タオルで体をさっと拭いて、着替えを頭からかぶる。
その、普段だったらどうということのない動作が、どうしてもポロムには出来ない。
自分が好きな男性がすぐ隣の部屋にいる状態で、ほんの僅かな時間でも裸体になることは、彼女にとっては途方もなく恥ずかしくていたたまれないことのような気がするのだ。
意識しすぎているということは、彼女もわかっている。けれど、出来ないものは出来ないのだ。
(恥ずかしい)
恥ずかしいのは、それを「恥ずかしい」と思う自分だ。
なんということがないことにいちいち反応して、意識をしてしまう自分自身だ。
ポロムは着替えを持ったまま途方に暮れ、どうして自分はこうなのか、と心底呆れた。
頭の奥から「だから、私はまだ練り紅を塗ることは出来ないし、彼女たちは出来るのだ」という声や、「だから、私は変わっていると言われるのだろう」という声、そして「だから、私がわからないパロムの魅力を、他の子達はわかるのだろう」という声。
いや、もしかしたらもっともっと、彼女が漠然と今まで心にしまっていた、いつかはそれと対峙しなければいけなかった言葉達が、突然湧き上がってくる。
どうして恋愛というものは、こんな風に「知らなかった自分」を突きつけられてしまうのだろうか。
決心に時間がかかったけれど、ポロムはようやく勇気を出して服を脱いだ。
濡れた髪が背中にぺたりと張り付いて、背筋を伝った水滴が腰のあたりまで降りていく。
乾いたタオルで軽く体を拭いていたその時だ。
明らかにパロムとは違うノックの音が響き、続いてカインの声が聞こえた。
「ポロム!湯が沸いているが、火を弱くして良いのか!それとも、もっと湯を沸かした方がいいのか!?」
「あっ・・・え、と、すぐ行きます!」
即座に返答出来たのは、奇跡的と言えよう。
カインは当然扉を開けるわけでもなく、部屋の外で声をかけただけだ。
それをわかっていながら、ポロムは反射的にタオルで体を隠した。
彼女は自分がそうしたことに気づかず、大慌てで服を頭からかぶり、スカートも交換して部屋から出て行った。
きちんとタオルで拭けなかったせいで、濡れた足にスカートがまとわりつく。
それに気づいても、それ以上どうにかする余裕なぞ彼女にはまったくなかった。



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