熱病-4-

めずらしく夕立ちから本降りに変わったのではないかと思うほど、雨は止まずに降り続いていた。
ばちばちと打ち付ける激しさは若干和らいだものの、それでも雨の粒は大きく、外に出かけることが相当に憂鬱に感じるほどの重苦しさを人々に与える。
普段ならば、外で子供達が走り回ろうと、茶を注ぐこぷこぷという音が耳に届かないことなぞない。
しかし、雨の音はそれをかき消す。いや、もしかしたら、それはポロムの心が揺れていたからで、本当は彼女の耳にはその音が届いていたのかもしれない。
「ポロム」
「・・・」
「ポロム」
「あっ・・・はい!」
「茶は急いでいない」
「え」
椅子に座っていたカインは立ち上がり、茶をいれていたポロムに突然近づいてきた。
「な、何、でしょう」
「お前、部屋で何してたんだ」
「・・・っ」
見透かされているのか、と、心臓がばくんと跳ね上がる。
ポロムは言葉をすっかり失い、茶を淹れる手を完全に止めた。
そんなに、自分が部屋に篭っていた時間は長かっただろうか。
カインに不審に思われるぐらいに。
確かに、服を脱げずに躊躇していた時間は、なんだか思いのほか長いと感じていた。まばたきをしては、そのまばたきとまばたきの間隔が気が遠くなるほど長く思えていたし、それを何度繰り返しても服を脱げないのではないかと恐ろしくも思えた。
どうしたら自分は助かるのだろうか、と途方に暮れていたのは間違いない。
まるで、永遠にあの部屋で泣きながら立ち尽くしているのではないかと思うほどに。
けれど。
「全然髪が乾いていないぞ」
カインはそう言うと、ポロムが数も数えずに大量に置いて行ったタオルの山から、まだ使っていないタオルを手にして彼女の頭にかぶせた。
「きゃ!」
かたん、と慌てて茶が入ったポットを置き、ポロムはタオルを取ろうとする。しかし、カインはそれを許さず、あまり丁寧とは言えない手つきでポロムの髪を拭き始めた。
「カインさんっ、あの、自分で出来ます」
「お前は、他人のことばかり」
「・・・っ」
「・・・昔、ローザが拾ってきた捨て犬がいた」
タオルに頭を包まれたままで、ポロムはそっと隙間からカインを見上げた。
「俺はあまり、そういう動物と遊ぶということが得意ではないが・・・セシルやローザが犬と走りまわって、汚れたその犬を洗うのは嫌いではなかったな」
「わっ、私は・・・犬と一緒ですか」
「そういう話じゃない」
「・・・」
「だから、髪を拭くぐらいは、出来るという意味だ。座れ」
言葉はぶっきらぼうだが、髪を拭く手は乱暴ではない。そのことにポロムは驚いた。
これがパロムだったら、きっと自分の髪を拭く時と同じようにごしごしとこすって、ポロムを怒らせるに違いない。
カインの手つきも決して丁寧で優しいとは言えない。
けれど、荒っぽくは拭かないというだけで、なんだか自分は女の子扱いをされているような気になり、ポロムは頬を紅潮させておとなしく座った。
初めは頭全体にタオルをかぶせて適当に拭いていたカインは、ポロムの長い毛先にするりとタオルを滑らせて少しずつ水分を吸わせていく。
タオルを頭からかぶっているうちは顔を隠せたため気にならなかったが、それを取り払われたポロムは動揺した。
もし、相手がパロムだったら「毛先は乾きやすいんだから後でいいのよ」なんて口をはさめるだろうが、それは今の彼女には無理なことだ。
むしろ、毛先だけで、もういい。いや、まだ嫌だ。ポロムの心は揺れる。
一刻も早くこの息詰まる時間から抜け出したい、と思う反面、これが続いて欲しいという欲が心に湧きあがる、その葛藤にポロムは苦しんでいた。
初めてこんなに長くカインの近くにいて、そして彼がわずかであろうとも自分の体の一部に触れているなんて。
どうせ、自分が祈ろうとなんだろうと、すぐにその時間は終わってしまう。
それならば、彼から与えられている刺激のひとつひとつに集中したい。
そう思いつつも、心のどこかで「そう思う」ことがとても恥ずかしいことのように感じられる。
長さが足りていない耳近くの髪が、タオルからはらりと逃げてポロムの頬に張り付いた。
それを不快に思って自分で掃おうとポロムが指を伸ばすと、ちょうどカインの指がそこには伸びており、爪先が軽く触れた。
「あっ」
「ああ、悪いな」
何の感情の揺れのないカインの声。
彼がいつも通りであればあるほど、ポロムは揺れる自分の気持ちを恥じ、どうして良いかわからなくなる。
意識をしているのは、自分だけだ。彼が善意でやってくれているあれやこれに、過剰に反応して舞い上がっているのは自分だけなのだ。何度も何度も繰り返し自分に言い聞かせたが、それを信じれば信じるほど、ポロムは自分にがっかりもする。
「こんなものか」
「あ、ありがとうございます」
タオルを無造作に、余っている椅子の背にかけるカイン。
いつものポロムならば、すぐにそれを手にして洗濯物を入れるかごに放ってくるのだが、今日は勝手が違う。
カインは、自分の髪を拭いた、首にかけたままのタオルもどうしようかと、するりと引き抜いた。
ポロムは立ち上がって
「お茶、淹れ直しますね」
と、無理にいつも通りの声を出そうと努力をした。
(ああ、やっぱり、ここが乾かなくて)
毛先は、髪が長くとも思いのほか早く乾く。
ポロムは首の後ろに手を伸ばし、うなじにまとわりつく水分を手の平で無造作に拭った。
いつもは、まるで今のカインと同じように、首にタオルを捲いているから気にならないのだが、今日は違う。
自分もタオルを・・・
そうポロムが思った時だった。
「そこまで気が回らなかった。すまん」
「いっ・・・!」
無造作に、何の心遣いもないまま、カインは手にしたタオルをポロムの襟足にねじ込んできた。突然のことに驚いて、ポロムは裏返った声をあげて体をこわばらせる。
「び、びっくり、しましたっ・・・わっ」
「・・・あー」
「大丈夫です。その、私も」
ポロムは体を縮こまらせて、慌ててタオルの山に手を伸ばすと、一番上に置いてあったものを首にかけ、後ろ髪をその上にかぶせた。
「・・・それは、ちょっと大きくないか」
「大丈夫、です!ちょっと大きいぐらいが、いいです!」
どう見ても体を拭くための大きさのタオルを首に無理やりまくと、ケープのようにポロムの肩は覆われる。
その様子を見て、カインはほんのかすかに声を漏らして笑う。
彼の小さな笑い声を聞いて、ポロムはほっと安堵の息をついた。
「お茶、いれ、直します」
その姿のままポロムは言ったが、自分がそれを口にしたのが二度目だということには気づいていない。
ポットの湯も茶葉を新しく入れ替え、何も気にしていない風に振舞うことにポロムは集中しようとした。
しかし、そうしようとすればするほど「なかったことにしたい」と思うことは彼女の頭の中で大きくなっていく。
カインに襟足を触れられてあげてしまった声。
もっとあっさりと、「くすぐったくて変な声が出た」と笑って言えればよかったのに。
もう少しだけ、髪を拭いていてもらいたいとも思ったけれど、あんな形でまた彼の手が伸びるなんて。
駄目だ。黙っていると、考えてしまう。
ポロムは手を動かしながら、カインに問いかけた。
「カインさん、どうしてミシディアにいらしたんですか?」
カインは既に椅子に座ってくつろいでいる。
どうしようかともてあましていたタオルも、結局彼は首にかけたままだ。
「うん?ポロムに、やっぱり香油を渡そうと思って」
「え」
「すぐに悪くなってしまうものでもない。蓋の裏にコルクがついているから、ただの陶器より密閉されているし。ポロムが練り紅を使うようになるまで、とっておけばいいだろう」
「・・・それだったら・・・別に、そんな、急いで来られなくても」
嬉しいような、嬉しくないような。
そんな微妙な心境になりつつも、黙っているよりは気が紛れてありがたいとポロムは素直に思う。
「俺は、よくポロムを怒らせる」
「あら」
「だが、今日のは・・・多分、いつもとは違うんだろう」
「今日のは、って」
「怒って帰ったじゃないか」
確かにそうだ。だが、ポロムは内心、自分が怒っていることなんて、これっぽっちもカインには伝わってなくて「なんだあいつ」程度にしか思ってないのだと信じていた。だから、彼のその言葉に素直に驚いた。
カインの前にカップを置くポロム。
「甘いのがよければ、蜜を入れますわ」
「ああ・・・たまには、それもいいな」
花の蜜が入った小さな瓶の蓋を開けて、ポロム細いスプーンでは蜜をすくった。
「勝手に私がへそを曲げただけでしたのに」
「そうは思わなかった」
「はい?」
「俺は、ポロムを傷つけたんだろう。多分」
「・・・なんで、そう思われますの」
カインはそう言って、ポロムが蜜を加えてくれた茶に口をつけ、一口飲んだ。
カップから口を離すと、ほっと小さく息をつく。
「いままでポロムは怒っていても、帰る時に走り出したりはしなかった。怒りながら、ずかずか歩いて行く後姿が愛嬌があったのだが」
「・・・!」
怒っていいのか喜んでいいのかよくわからないことを言い出すカイン。
ポロムは、それになんと言って答えればいいのか、ぐるぐると頭の中で色々な言葉を巡らせる。
「・・・あまり、甘くない蜜だな」
「え。あ、そうですか?昨日もらったもので、味見してなかったんですけど」
カインに返す言葉が見つからぬままで、彼は更に話を逸らす。
簡単に返事が出来ることには、こんなに容易に言葉が出るのに。
ポロムは自分の気の利かなさにがっかりしつつ、一度は閉めた蜜の瓶の蓋を開ける。
てらてらと鼈甲色に光る蜜をスプーンですくって、零さぬようにと注意をしつつ味見をした。
「・・・かなり濃厚で、甘いと思うんですけど・・・そのお茶にいれると、味が消えるのかしら?」
蜜はポロムの口に全て収まったわけではなく、彼女の唇を濡らした。特有のべたつきが気になって、ポロムは一度だけ行儀悪く唇を舐める。
それを見て思い出したようにカインは
「そういえば、蜜と香油を混ぜる女性もいるらしいが」
茶を飲みながらまた違う話をふった。
「蜜と?それを何に使うんですか?」
「今のポロムのように」
「え?」
「口に塗るんだ。練り紅ではなくて」
なるほど、蜜は潤いと艶を与えるのだろう、とそれにはポロムも合点がいった。
きっと、練り紅のように彩ることがなくとも、それは艶やかで色っぽい唇になるに違いない。
「それじゃ、おいしくて舐めてしまいます」
「そもそも香油も、口に入っても大丈夫なものだし問題はないんだろうが。舐めるうちは、確かに、練り紅も早いのかもしれんな」
甘くておいしいから、舐める。
大人の女ならば、自分の唇をアピールするためのものを、甘いから、なんていう理由で舐めとったりはしないだろう。
きっと、カインが言うように、やはり自分にはまだ何もかも早いのだ、とポロムは小さく溜息をついた。
「そうですわね・・・色がないから、わたしでも、とはいきませんものね」
そういって、まだ蜜が残っている自分の唇をポロムは指先で触れた。
粘り気があり、少しそれがおもしろいと思える。
「ぺたぺたしますけど」
「香油と混ぜれば、延ばされるんじゃないか?よくわからんが」
「あ、そっか」
そう言いつつ、ポロムは気になって口元を布でふき取った。そのままでいれば、また行儀悪く子供っぽく、唇を舐めてしまうと思ったからだ。
ちゃんと拭き取れたか、と指先でもう一度唇に触れる。
(・・・そういえば、カインさんの唇は)
柔らかかった。
そのことを思い出して、ポロムはちらりとカインを見る。
カップに口をつけるときに少しだけ窄まる唇。カップから口を離す時に、上唇と下唇の間に生まれる僅かな空間。
自分の唇も、同じように動いているのだろうか、と意味のないことをぼんやりと思う。
どちらだろう。
今、自分が触れている自分の唇と、あの日触れた彼の唇は、どちらの方が柔らかいだろう。
それは答えが出ているはずの問いかけだけれど、ポロムは「もう一度触れればわかるのに」と落胆しながら自分の唇の中央に触れていた。
それは、異性の唇を受け入れるために唇の中で一番ふくよかな場所だ。
「・・・わかっていないから、たちが悪い」
ゆっくりとした動作で、カインは立ち上がった。
何をするのか、と見上げれば、カインはポロムに近寄って、突然右手を掴んだ。
「な、に・・・どうなさったんですか!」
「前にも言ったはずだ」
「何を・・・?」
「いい加減、誘うな。その意味がわからないなら、余計、俺のところに来るな」
ポロムの心臓は、またばくんと跳ね上がった。

そうだ。こうやって。
もう一度、あの熱い手に、掴んで欲しい。触れて欲しい。
そう思う自分が、とても恥ずかしい女の子に思えて、目を背けくて仕方がなかったあの日。
この人の唇に触れたこと、薄暗闇の中に二人きりで、置きたばかりのこの人の声は掠れていて。

「は・・・っ!!」
ポロムは喉がひきつれたような声をあげた。
あの日、彼女が触れたカインの唇。
先ほどまで彼女がじっと観察してしまっていた、その彼の唇が、ポロムの小さな指先を這った。
カインにひっぱられた腕を反射的に戻そうと力をいれたが、それは叶わない。
「カインさん・・・カインさん、嫌です!」
抗議の言葉と共に、ポロムは立ち上がって左手でカインを引き離そうと、彼の胸元を押した。
が、押しても彼はびくともしない。それどころか、彼の胸板の厚さと固さに、逆にポロムは驚いて手を止める。
その抵抗が止まれば、カインに囚われている指先からの刺激が更に強く伝えられ、自分の指がカインの唇で触れられているだけではないことに気付いた。
「あっ、ちょっと・・・やめて」
こんなの。
どうにか、なってしまう。
ポロムの瞳に、涙が滲んできた。
右腕に痕がつくのではないかと思うほど、カインの力は強く、彼女の力ではどうにもならない。
掴んで欲しいと願っていた彼の手から与えられる刺激は、今となってはポロムにとってはどうでも良いものになってしまった。
そんなことよりも。
「駄目です!お願いです!ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、お願いです、カインさん!」
汚いとか、気持ち悪いとか。
恋も何も知らない頃ならば、罵倒して終わってしまっただろうに。
「何度も、唇に触れるからだ」
カインは冷たく言い放って、ようやくポロムの右手を解放した。
その場にぺたりとポロムは座り込み、広がったスカートの上に力なく右手も落とす。
「少しは、警戒しろ」
ざあああ、と窓の外の雨音と共に、カインの声がポロムの耳で響く。
ポロムを見下ろす彼の瞳は、彼女を見下している。
それは、仕方がない、とポロムはうまく動かない頭で思った。
(だって、私は何の覚悟もないまま、好奇心だけでこの人に触れて)
彼の唇で蹂躙され、雨ではない液体で湿った指先を、動かすことすら叶わない。
それほどにポロムは怯え、戸惑っていた。けれども、その思いの裏では、ようやく理解出来たことがふわふわと頭の中、心の中から湧き出て、カインを非難することもないまま彼を見上げる。

(ミシディアにいるの人から、キスをしてもらうよりも先に、他の場所に口付けられた人が)

「警戒しなかったら・・・どうなるんですか・・・?」
「そうだな」
カインは呆れたように肩をすくめて
「俺が、パロムか長老に怒られることになるだろう」
「それは・・・」
「だから、まだ紅を差すこともない女に、手を出させるな」
手を出す?長老に怒られる?
ポロムは口を半開きにしたまま、まだぼんやりとカインを見上げている。
「お前は、大人はなんでも我慢が出来ると思っているのか?」
「いえ・・・そうは思ってない・・・です」
「そうだろう。俺も、そうだ。だから、雨を凌ぐのに・・・ここには来なかったのに」
そう言うと、カインは「悪かったな」とつぶやきながら、ポロムの体を両腕で起こした。
カインは、大人なのだ、とポロムは自分の腰をつかむ彼の腕を見ながら思う。
自分は、一瞬だけ混乱して、一瞬だけ舞い上がった。
警戒とは、どういう意味なのか。
その言葉が示す意味に気付いて、彼が何を言っているのか、と体中の血液が突然駆け巡るようにかあっと頭に血が上った。
それから、それは、自分を女性として見てくれて、少なからず「女として警戒すべきそういうこと」を欲されるぐらいには、自分は彼に好かれているのだ、と思った。
そして、舞い上がって、すぐにその気持ちは萎えた。
そうではない。
目の前にいる彼は子供ではないから、平気で人の心を踏みにじるように、容易に好奇心だけで女を抱いたりはしない。それは、ポロムが好奇心だけで彼にあの日触れたように。
けれども、大人だから。
だからきっと、自分に好意を持つ、叶うことのない感情を持つ自分のような子供相手でも、情けをかけることも出来れば、悪者を演じて突き放すことも出来るのだ。
「カインさん」
「ん?」
「私が、この前、寝ていたカインさんに触ったのは」
「・・・あぁ」
「カインさんに、触りたくなったからです」
「・・・」
「他の誰でもいいわけじゃ、ないんです」
抱き起したポロムからカインは手を放そうとしたが、ポロムは彼の左腕をつかんだ。
捲ったシャツから出ているむき出しの彼の腕に、ポロムの指が触れると、カインは眉をひそめた。
それは当然だ。
ポロムの指は未だ湿っており、そして、それは彼の蹂躙の跡なのだから。
「だからっ、私は、まだ子供かもしれませんが・・・って、いたたたたたた!!」
言葉を続けようとしたポロムの耳をカインは空いている右手で掴んでひっぱった。
「痛い痛い痛い!!何するんですか!」
「お前は、俺の話の何を聞いているんだ」
「何って、何って・・・」
ぽい、と簡単にポロムの耳を放して、カインは溜息をついた。
「子供のただの好奇心だと思っていれば、俺も、いや、ポロムもか。お互いの間に、それ以上何があるわけもない。だが、そうではないから、だから出来るだけ・・・深入りしないようにしていたのに、お前ときたら・・・まったく・・・」
そう言って、彼はそっと、ひっぱられて赤くなったポロムの耳にそっと触れた。謝りこそはしないが、やり過ぎた、とでも思っているもかもしれない。
「・・・っ・・・」
ひっぱられて少し熱を持ったはずの耳に触れるカインの指もまた、熱い。
ほんのわずか触れられただけなのに、まるでそこは彼が触れたことをポロムに忘れさせないように脈打っているように思える。
そんなところで、脈をうつわけがない。
ないけれど、ポロムは触れられた「そこ」に意識を集中した。
ポロムの耳に触れた彼の指先の感触をどうにかして記憶に残しておこうとするように、瞳はカインを映しつつも、手は彼の腕に触れつつも、ポロムの意識は解放された耳へと続いていた。
もう与えられていない刺激。それが残した余韻のような何かを必死にかき集めるように、ポロムは瞳を伏せた。
(・・・熱い)
耳元に詫びをいれるようにそっと触れたカインの手。そして、瞳を閉じれば、今自分が触れているカインの腕の感触を生々しく感じる。それらに共通してポロムが感じたのが、その言葉だ。
カインの腕に触れた指先、手のひらから、まるで熱が広がるようにポロムの体に熱さが広がっていく。
どうなるの。
指先に口づけられただけで、どうにかなってしまいそうで、泣きたくなったのに。
タオルを差し込まれたうなじ。
乱暴にひっぱられた耳。
そして、彼を誘った、甘い唇。
それらに彼の口づけを受けたら、もしかしたら死んでしまうのかもしれない。
ポロムは、現実的ではないけれど、あながち間違ってもいないことを思い浮かべた。
「雨の中」
ぽつり、ぽつり、と。
「お前が走ってきたとき」
頭上から与えられるカインの声は、まるで降りはじめの雨のようで、気をつけて耳を澄まさなければ気づけないほどくぐもっている。
「正直、来ないでくれ、と思った」
「・・・!」
「俺は、お前が思っているほど大人ではないから、我慢にも限界があれば、お前を守るためにお前にどこまでも嫌われて良いとか・・・そこまで、男らしい覚悟はない」
「・・・えーと・・・カインさん?」
少し、意味がわからない、とポロムは顔を上げた。
そこには、カインがいる。
それがとても当たり前のことなのに、怖い。怖くて、けれども嬉しい。
時間は自分がどう感じようが、どう願おうか、誰にも等しく流れて。
ここにカインがいる時間もそのうちに必ず終わってしまう。
そして、もしかしたらもう一生戻ってこないのかもしれない、という焦りが突然心の中に湧き上がる。
まだポロムは若く、人生において「二度とない」と感じることも、「最初で最後」と感じることも、今まで何もなかった。
これが、そうなのかはわからない。
わからないけれど、今を逃しては、もう二度とないのではないかという気持ちに圧されて、ポロムはカインの背へと腕を回した。
「ポロム?」
カインが声を出せば、彼の体から直接自分の耳へと震動で響くようだ。
ポロムは瞳をぎゅっと閉じた。
(怖い。逃げたい。どうしていいかわからない。カインさんの顔を見てるのも、もう、どうしようもなくて恥ずかしくて、出来ない。怖い。どうしよう。だけど)
だけど。
触れたカインの体は熱くて、まるでその熱が服を介して伝わって、ポロムの体に移るようで。
その熱にうかされたように、ポロムは小さく息を吐いた。
「何が、なんだか、もう、本当に・・・」
混乱したように、固いカインの胸元に頭を擦り付けながら、ポロムの口から一気に言葉が零れる。
「うまく、考えられない、です。私は、あまりっ・・・白魔法のこと以外は、利口じゃないみたいでっ・・・カインさんがおっしゃることどころか、自分がっ、自分がどうしたいのか、どうすればいいのか、全然わからなくてっ、もう嫌です!」
「ポロム」
その言葉達が体の中から迸るだけでは足りず、ポロムの両眼からはぼろぼろと涙が零れ、カインが着ているシャツの胸元を濡らす。
彼女の肩を覆ったタオルは、彼女の瞳を塞ぐほどは届かない。
ポロムの言葉と彼女の体そのものはどんどん熱を帯びてゆく。
それがあまりにも大きな感情の爆発だったのか、ポロムはちりちりと頭痛を感じた。声を出せば、余計に痛む。
けれど、それは彼女から次々に溢れてくる言葉達を引き止めることが出来ない。
「ただ、わたしはカインさんのことが好きで、会いたかったんです。それだけです。本当にそれだけで・・・」
「だから、お前は一体俺の話をどう聞いてるんだ!」
一向に話が通じないポロムについに焦れたカインは、ついにポロムの体を引き寄せて強く抱いた。
そのまま、言葉を発することなくカインはポロムの体を覆うように、背を丸めて彼女を抱き続ける。
驚きながらもポロムにはもう言葉がなく、室内には彼女のくぐもった嗚咽だけが響き、それは外で続く雨音に呼応しているようにまったくの自然な音にすら聞こえた。
どれだけの間、そうしていただろうか。
ポロムが冷静になって「どうしよう」と考えられるようになる前に、カインがポロムを呼んだ。その声はまるで囁くように掠れて、いつもの彼の声とはまったく違う色を帯びていた。
「ポロム」
「は、い」
「・・・本当に、すまない」
その言葉と共に、まだしゃくりあげているポロムの体を抱いていたカインの腕から、力がすっと抜けた。



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