熱病-5-

「ポロム、悪いが、少し休ませてもらえないか」
「・・・え?」
思いもよらないカインの言葉に、ポロムは眉根を寄せた。
「すまないが・・・」
つぶやくようにそう言ったカインは、壁に寄りかかった。
ポロムは、彼の様子を見てはっと息を呑む。その驚きのせいで、先ほどまでの涙が嘘のようにすっと引いていく。
どうして、気づかなかったんだろうか。
けだるそうな様子は、普段の彼とは確かに違う。
怒っているように眉間にしわを寄せて目をわずかに細めているけれど、それは不快な己の体調と戦っている表情なのだろう。
「カインさん、もしかして・・・どこか・・・」
「悪い。少し、眩暈が」
そういうと、彼は前髪をかきあげた。
「気のせいか、と思っていたが・・・不甲斐ない」
「あ、あ、少し、横になって、軽くお休みになられますか?パロムの部屋で申し訳ないんですが・・・こっち、です」
ポロムは慌ててカインの手をとった。
(・・・熱い)
そう思った瞬間、恥ずかしさでポロムの方がかあっと全身を熱くする。
(私、馬鹿だ。男性の方が体温が高いものだと思っていたから・・・ただ、カインさんに触れるのが嬉しくて、熱さに溺れて、恐れて、なのに勝手に高ぶって)
その彼の熱さは体調不良による熱だったのではないか、とポロムは愕然とした。
そして、そんなことすら気づかぬほど、自分は彼に体を触れられること、彼がそばにいること、ありとあらゆる彼からうける刺激に浮ついていたのだ。そう思うと、悔しさや恥ずかしさ、どうにもならない情けなさが心の中に広がり、それに耐えるようにポロムは唇を軽くかみ締めた。
ポロムはカインを軽く支えるように寄り添って、パロムの部屋のドアを開けた。
よかった。
パロムが長老と一緒に長期の旅に出ることになってから、いつ彼が戻ってきても良いように、「片付けてもパロムが怒らない」場所はそれなりには奇麗になっている。
来客がこの家に泊まることはほとんどないが、もしもの時には、パロムの部屋に置いてある、いつも彼がぐちゃぐちゃに荷物を散らかしている古いソファを使うことになっていた。
が、カインの身長では、そのソファは若干丈が足りていない気がする。
ソファではなく、ベッドに寝かせたほうが良いだろうとポロムは判断した。
(カバーを、替えて置いてよかったわ)
ポロムのそんな思惑に気づくはずもなく、カインは視界に入ったベッドに近づいて、どう、と勝手に倒れた。
足をもぞもぞと動かして履物を脱ぎ散らかしたと思うと、そのまま彼は動きを止めた。
彼は「眩暈」と言っていた。
であれば、きっと目を開けているのもけだるいぐらいだったのだろう。
ベッドの淵からはみ出ている足を、そっとポロムが動かしても彼からは何の応えもない。
あっさりと眠りについてしまったカインは、体の下に毛布を敷いてしまっている。
それをひっぱりだしてかけ直すことは、ポロムにはいささか困難に思えた。


カインが深い眠りに落ちて起きないことを確信したポロムは、来客用の肌掛けを物置からひっぱり出してパロムの部屋に戻ってきた。
足音をたてないように静かにカインに近づき、そっと布団をかける。
カインは深い眠りについているようで、ぴくりともしない。静かな寝息がポロムの耳に届くだけだ。
今はそっとしておくしかない。
それに申し訳ないとは思いつつ、カインと一緒にいる時間がおかげで長くなったのではないか、なんてことを考えてしまう。
(水分だけは、先に用意しておこう)
ポロムは居間に戻り、出しっぱなしのティーセットを横目でちらりと見ながら、水をピッチャーに注いだ。
そこには、カインが飲みかけのままで冷めてしまった茶が残っている。
「あ」
そういえば。
ポロムは水を入れたピッチャーをテーブルに置いて、カインが口をつけていたカップに手を伸ばす。
やましい気持ちではなく、彼が口をつけた部分とは反対の側にそっと口をつけ、一口飲んだ。
甘い。
蜜は下に沈みがちなものだが、入れた時にポロムはかなり丁寧に混ぜた。
カインはその直後に飲んでいたのだから、蜜がすべて底にたまっていたとは考えられない。
事実、時間が経ってから飲んだ今ですら、甘いのだから。
(・・・きっと、もう、調子が悪かったんだわ)
いつからなのかは、わからない。
自分が彼を我慢させてしまったのだろうか、と一瞬悲しくなったけれど、いや、それにしても調子が悪いのに人の髪を拭いている余裕が普通あるだろうか、と思い直した。
それはポロムの勝手な推測ではあったが、カインは自分の不調を完全に把握していなかったのではないかと思う。
カタン、とテーブルにカップを置いた音が響く。
ふと気付けば、雨音は静かに響きを下げ、優しく大地へと降り注いでいるようだ。
ポロムは、薬草を乾燥させてブレンドした茶葉の入ったガラス瓶を二つ、戸棚の上から取り出した。
熱冷ましの効果があるものと、疲労回復に良いもの。
白魔導士達の多くは、薬草について詳しい。
中には相当精通しているものもいる。
ポロムはそこまでは薬草に詳しくないけれど、旅に出る時やこういった天気の悪い時にすぐに飲めるよう、常備している。
カインが起きたらぬるい温度で飲ませようと思う。
(ずっとわたし、自分がしっかりしていると思っていた)
パロムと二人で暮らしていれば、パロムは自分の体調には相当無頓着で、「今日は寒いから」とポロムが外套を着ても「めんどくせー」と言い、「今日は雨が降りそうよ」と言っても「晴れてるから大丈夫だって」と、まったくいうことを聞かない。
そんな彼が「なんとなく調子が悪い」と言い出す前に、顔色をうかがって薬草茶を出すことがポロムの特技でもあったのだ。
けれど、それはパロムだからであり、常にポロムが「いつものポロム」として振舞える相手だからだ。
(あんな風に、私を抱きしめてくださったのも、熱のせいかしら)
そう思うことは悲しくもあり、けれど、少しだけ自分の逃げ道にもなった。
掴まれた手の熱さで痕が残るのではないかとすら思えた腕。
触れられて蹂躙された指、痛みよりも彼に触れられた刺激に心が震えた耳。
それから、抱きしめられたあの熱さがあまりにも衝撃的で。
自分の未成熟な恋というものが、もっともっと深い場所に突然落ちてしまったような錯覚に陥る。
熱のせいだ、と彼が言ってくれれば、自分はまだそこから逃げられるのではないかと漠然と彼女は思った。
けれども、その「逃げたい」は本意ではない。
不明瞭な思考のまま、ポロムはテーブルの上を片づけた。
自分の部屋に戻ってベッドに横たわりたい気がしたけれど、きっと今それをすれば眠ってしまう。
どんな寝姿になるのか、カインよりも先に目覚められるのか。
その自信がなくて、部屋でくつろぐことが出来ない。
「あ・・・」
カインが、持ってきてくれた問題の香油。
おおまかに片づけたテーブルの上にぽつんと残されたもうひとつのものは、蜂蜜。
出来るだけ音をたてないように、そっと自分の部屋に戻り、ポロムは手鏡を取ってきた。
(私でも、似合うだろうか。おかしくないだろうか)
カインが倒れている間にこんなことをしているのは、どこかしら不謹慎な気がする。
それでも誘惑に勝てなくて、ポロムは椅子に座ると、テーブルの上に置いた薬草茶の瓶にうまく手鏡をたてかけた。
蜜の蓋をあけ、香油の蓋をあけ。
念のために二つの小さなスプーンを並べて、ポロムは大実験を始める。
(容器にいれて、まぜるのかしら。でも、それじゃ無駄が多すぎるわ。唇の上でまぜるのもおかしいわよね)
どれくらいの量をすくえばいいのかはわからない。
だが、蜜はそう多すぎてもべとつくし、香油はそれよりもっともっと少ないだろうことは想像出来る。
悩んだ結果、スプーンの上で混ぜあわせることに決めた。
その場に立ち上る蜜の甘い香りと香油の花の香。
香りが控えめな練紅よりもそれはずっとずっとポロムの鼻孔をくすぐり、めまいがしそうだ、と思う。
鏡に映る、見なれた顔。
その唇の上に、恐る恐るスプーンの上で練ったものを乗せ、スプーンの背を滑らせた。
見たいのに、見たくない。
昔はパロムと似ていたのに、いつの間にか明らかに何もかもが変わってしまった自分の顔。
そこに蜜を乗せれば、もっと違う人間になってしまったような気がする。
こんなの、似合うわけない。
頭のどこかで自分を否定する声。をそむけたくなるほど、恥ずかしいと思う気持ち。
それを抑えるために、ポロムは自分に言い聞かせた。
(鏡に映っているのは、私ではない誰か。そう思えば、似合うのか、似合わないのか、冷静に見られるはずだわ)
他の女の子のように、もっとうかれて背伸びを出来ればよかった。
もっと簡単に「塗ったらかわいくなるんじゃないか」なんて思えればよかった。
それが出来ないのは、ずっとずっと背伸びを見透かされるのが怖かったからだ。
幼い頃を知っている人間に「昔はこんなに小さくて」とか「あの頃はパロムそっくりで」とか、幼少の話をされることは嫌だと思えていた。
それと同じで、カインもまた自分の幼少時代を知っており、口には出さなくとも時には脳裏に浮かべているのではないかと思う。
だから余計に、大人になっていく過程を見られるのが恥ずかしい。
背伸びをするのは子供の証拠だし、それを見られたくないと思うのも、たぶん子供の証なのだろう。
せめて、妹のように思われていれば。
妹というには、自分とカインの年齢が離れすぎていることをポロムは知っている。
現バロン国王のセシルにとっても、妹扱いされているのはもっと年齢が近いリディアという女の子だったし、パロムとポロムの存在は「近所の子供」とあまり変わらなかったのだと今はわかる。
近づくはずのない年齢差と、縮まるはずがないのに少しでも縮めたいと思う幼い自分。
鏡を覗いて、その「恥ずかしい自分」を直視をするのが怖い。
(これは、好奇心ではないわ)
あの日、カインの寝顔を覗いて、そっと指で彼に触れたそのこととは違う。
もっと冷静に、今の自分がどんな自分であるのかを知るための儀式のようなものだ。
それでも、鏡に映る自分が自分自身だと思うと、それだけで腰がひける。
(知らない誰か。私ではない、誰かだと思えば、見られるでしょ?)
勇気を振り絞って、彼女はそっともう一人の自分を見た。
今にも逃げ出しそうな臆病な表情で、眉を寄せてそこにいる少女。
「・・・あ・・・」
無意識に漏れる声。
ポロムが声をあげれば、鏡の中の少女もわずかに唇を開く。
動いたその唇はてかりのない、思いのほか上品な艶をまとっている。
ポロムは、動きを止めてじっと鏡を凝視した。
見たくない、目をそらしたい、と思っていたはずなのに、一度目を伏せてもう一度開けば、視線はつい鏡へを吸い寄せられる。
そこには。
生まれて初めて綺麗なネックレスを首にかけて喜んでいる子供ではなくて。
生まれて初めて可愛らしいドレスを着て喜んでいる子供でもなく。
それらは、何も「早い」と窘められることなぞありやしない。
女の子がきらきらしたものが好きなのは誰もが知っているし、ドレスだって幼い子供用のものがある。
でも、これは、違うのだ。
そういった、無邪気な安直な「可愛い!」「きれい!」といった少女たちの気持ちを満足させるものではない。
ポロムは立ち上がって、水を貯めている樽から水をすくう柄杓を手にした。
少し生ぬるい水を汲んで、柄杓から飲むように唇をつけると、その水で唇を洗う。
何度も何度も、蜜特有のねとつきを落とすため、女性らしい香りを落とすため、やわらかい唇を少し乱暴にこすった。
彼女は冷静に己の姿を見ようと試みて、そして、冷静ではいられなくなった。
鏡に映った、背伸びをした少女。
まだ早いと思っていた彼女の心とは裏腹に、艶めいた唇がよく似合っていた。
そのことに思いもよらないほどの衝撃を受けて、彼女は少しだけ混乱していたのだ。


静かにそっと雨はいつしか止み、とうに日も沈みきった静かな夜。
いつしかポロムはテーブルに突っ伏したまま寝入っていた。
一人で過ごす時間はあまりに長く感じ、繰り返し繰り返し思い出し続けたのは、カインにつかまれた腕の厚さ、彼の唇が触れた場所、抗いたくても抗いきれなかった衝撃的な体験、それらすべてのことばかりだった。
考えたくない、と思えば思うほどそれは彼女の脳裏をぐるぐる回り、目を閉じ、耳をふさぎ「何も考えない。何も考えない。何も考えない」と強く念じているうちに、いつしか彼女は眠ってしまったのだ。
ぎっ、ぎっ、と、夜の静けさの中にいるときだけ気づく、床がきしむ音。
それは、パロムが遊んで夜遅く帰ってくる時によく耳にする音だ。
眠りの中にかすかに響くその音。
ポロムは聞きなれたその音に気づき、うっすらと目を開けた。
「あ・・・」
一瞬、自分が今どこにいるのかがわからなくなり、戸惑うポロム。
いつもその音を聞くのは、自分が部屋にいるときで、扉の外の廊下をバツが悪そうにパロムが忍び足で歩いている時だ。
それが、今日は違う。
彼女は居間のテーブルに上半身を倒して寝ていて、椅子に座っていた。それは、普段ならば決してありえない状態だ。
まず、そのことを理解するのに、いくらか時間がかかった。
そして。
「すまない。起こしたか。いや、起こした方がよかったか」
「!」
それは、カインの声だ。
中途半端に寝てしまったため、尚のこと頭がうまく回らない。
声の主がカインであることは理解できたものの、どうしてカインがここにいて、自分が居間で寝ていたのか、それを思い出すのに少しばかり時間がかかった。
「あ、カインさん、おからだの、具合は」
ようやく思い出して慌てて問いかけると、カインはふっと口端を緩め――ようにポロムには感じられた――はっきりと答えた。
「朝まで、眠らせてもらう。そうすれば、もう問題はない。すまなかったな」
「いえ」
「喉が、乾いて」
そうだ。水を、用意して、それから。
ポロムは、水をいれたピッチャーをカインの枕元においてくるのを忘れていたことに気づいた。
テーブルに上にぽつんと置かれたピッチャーが、暗闇の中でうっすらと見える。
「これ、そのまま、部屋にもっていってください。朝まで、まだ喉が乾くかもしれませんし」
そういいながらポロムは立ち上がり、近くに置いてあったランプに手馴れたように手を伸ばした。
スイッチを何度かはじくと、ぱちんぱちんと小さな火花が散り、ようやく火が点く。
ぽうっとポロムの手元が明るくなり、居間全体が見えるように柔らかな光の恩恵を受ける。
「わかった。ありがとう」
カインは、口はしだけ軽くあげて微笑んだ。彼は、窓から見える月にちらりと目線を送った。
雨上がりの後、うっすらと靄のようなものが出ていたものの、月がある位置は確認が出来る。
「月がまだのぼりきっていない。ポロムも、部屋に戻って寝るといい。俺のことは、気にしないでくれ。少し、疲れていたんだ。そう大したことでもない」
「でも、熱が」
ポロムは背伸びを軽くして、カインの額に手を伸ばした。
パロムの調子が悪い時もそうやって熱を測っていたし、それは当たり前の行為だ。いや、当たり前の行為のはずだった。
彼女が額を求めて手を差し込んだことで、カインの前髪がはらりとポロムの手の甲に落ちてくる。
もう、カインが倒れる前のように、少しのことで過敏に反応をしておどおどはしない。けれど、彼女はたったそれだけの些細な刺激ですら、とても大切で名残惜しく思えて、すぐにその手を離すことが出来ない。
少しだけ汗ばんだカインの額。さらさらとポロムの手の甲をくすぐる金髪。
ポロムの手が近づいたせいで伏目がちになり、まつげによって隠されてしまう瞳。
明るいところではなく、こんな薄暗い中だからこそいっそう無遠慮に見ることを許されている。ポロムははっきりとそれを感じたわけではなかったけれど、それまでになくまじまじと彼を見つめた。
相手の体を思いやればそうすることは何も恥ずかしくなく、そして、とても自然な空間がそこにあり、「カインをみつめている」自分に殊更に反応する必要が彼女にはなかったのだ。
「まだ、熱が少し」
「微熱だ。続くかもしれんが、大丈夫だ。いつもより、睡眠時間を増やしてやれば、数日で治るだろう。たまに、あるんだ」
彼のその言葉を、ポロムは意外に思った。
たまに、ある。
その時、彼はきっといつも一人で、山の岩場にある住処で横になって過ごしているのだろうか。
そっと手を引きながら、ポロムはカインを見上げていた。
彼は、こんな状態の自分を人に見せたくないのかもしれない。
もしもそうならば、自分は申し訳ないことを重ね重ねしてしまっていたのかもしれない。
ポロムはうまく返事が出来ずに項垂れた。
それをどう思ったのか、カインは
「ポロムには申し訳ないが、助かった。雨が止まなければ宿屋に駆け込もうと思っていたし、宿屋の亭主の手を煩わせることになったかもしれないと思うと・・・感謝しなければいけない。悪かったな」
「・・・でも・・・カインさんはさっき・・・」
来ないでくれ、と思った。
そうポロムに彼は告げた。
カインの方も、自分がそう言ったことを覚えていたようで
「だから、悪かった。結局、俺はポロムに助けられたのだし」
そう言って、軽く首をかしげた。
まだ少しけだるげとは言え、カインの声音はしっかりしたものであったし、余裕が感じられた。
ポロムはそれに安堵する。
「グラスも、もらえるか」
「あ、そうですよね」
ピッチャーだけを用意していても。
ポロムは棚からグラスを取り出して彼に渡した。
と、余程喉が渇いていたのか、カインはすぐにピッチャーから水をグラスに注いで、一気にそれを飲み干す。テーブルにグラスを置いて、カインは「ふー」と小さく息を吐いた。
「水、もう少し足しましょうか」
「ありがとう」
遠慮なくあっさりとそう答えられるのが、心地良いとポロムは思う。
それは、自分がいつも何かにつけ遠慮がちだからなのかもしれない。
ポロムはピッチャーを受け取ると、水を蓄えている樽の方へ行き、柄杓で水を掬った。
「雨は、止んだようだな」
「そのようですね」
ポロムは水を追加したピッチャーをテーブルに置くと、部屋につくまでにこぼさないように、とコルク栓をはめた。
「今から寝ても、ゆっくりと眠れますわね。明日には元気になっていただけると嬉しいんですけれど」
「ああ。今でも、微熱が残るだけで、それ以外は問題はない。いくらか生活のリズムが狂っていたから、ちゃんと今晩眠ればそれも戻るだろう」
カインのその言葉に、ポロムはふっとあの日のことを思い出していた。
そうだ。
あの日、昼間なのにカインは住処の奥で眠っていたではないか。
そして、起きた彼は疲れていると。思ったより寝ていないと。
(きっとあの日は、夜眠っていなくて、あの時が寝始めだったんだ)
「あの・・・カインさん、もしかして、昨日は・・・夜、ちゃんとお休みに・・・」
「・・・あー・・・」
カインはぽそりと困ったような声を漏らした。
それは、自分の失言に気づいたからだろう。
「少なくとも、ポロムが気にすることではない」
ポロムの問いかけの真意に気づいた彼は、はっきりとそう言った。けれど、いくら彼が否定をしても、ポロムの気はすまない。
(カインさん、もしかして昼間寝るサイクルになっていたんだわ。もしかして今日だって・・・防具の手入れの後、眠るつもりだったのかもしれないし・・・それを)
それを自分が邪魔をした上、かんしゃくを起こしてミシディアに戻ったのをカインに追いかけさせてしまった。
きっと、そういうことなのだろう。
「大丈夫だ。先日、5日間ほど昼夜逆転させる仕事を請け負っていて、そのせいだ。若い頃はそんなものは一日二日で戻ったものだが、その後もポロム以外に、その仕事のことで山に会いに来るやつが何人かいて、な」
それで、睡眠を邪魔されて。
だから、ポロムだけのせいではない。
そういう意味だ。
申し訳ないという気持ちが顔に出ていたのだろうか。
淡い光に照らし出されたポロムの表情を見て、カインはどう思ったのか、もう一度
「大丈夫だ」
と言って、子供にするようにポロムの頭を軽く撫でた。
(大丈夫?私は、全然大丈夫じゃないのに)
大丈夫とは、どういうことだろうか。
決まっている。ポロムが心配しなくても、カインの体調はすぐによくなるということだ。
けれど、ポロムにとってはまったく「大丈夫」ではない。
そこに立っているカインは、まるで先ほどポロムの腕を掴んだその人とは思えなかったし、熱が下がればもうあの熱さも感じさせないのだろうし、もしかするとこの一晩のことはすべてなかったことになるのかもしれない。
そうだ。
このまま「おやすみなさい」と言って別れて、明日の朝になれば。
一晩世話になった、と一言告げるだけで、彼は何事もなかったように山に戻ってしまうかもしれない。
また、もとの間柄に戻って。
けれど、ポロムは決して「同じ」ポロムではない。
このままなかったことにして、以前と同じようにカインに接することが出来るならば、自分の中のカインへの思いは恋情ではない。
「あの・・・カインさん」
「うん」
もう眠らないと。
そう言おうとしたポロムの唇は一瞬動きを止めた。
その気持ちもないわけではない。
自分は、物わかりが言い頭の良い少女と言われて生きてきた。自分でも、そうであればいいと思っていた。
だから、本調子ではないカインにあれこれと思いをぶつけるのは、愚かなことだとわかっている。
今すぐ寝てもらった方がいい。それが正しいことだとはわかっている。
それでも。
「カインさんが寝ている間に・・・いただいた、あの香油を・・・使ってみました」
「うん?」
「カインさんに教えていただいたように、蜜に混ぜて」
ぽう、とやわらかな明かりに照らされた、カインの眉間に僅かにしわが寄る。
何を突然言い出すのか、といぶかしんでいるのだろうか。
早く寝たい、と彼は思っているのだろうか。
どちらでも構わない、とポロムは思う。
もし、何事もなかったような夜になるならば、ポロムは逃げることが出来るのだ。あの熱を帯びたカインの手から。そして、こうやってポロムがいつもならば考えられないようなわがままで、彼の時間を奪うことも、なかったことにされるのだ。
それならば、いっそのこと、と思う。
「似合わない・・・というわけではなかったのですけれど・・・」
「ああ」
「誰かに、その自分を見せるのは、恥ずかしいと思えて・・・それはやっぱり、私にはまだ早いっていうことなのかもしれません」
「・・・ポロムには、いらないのかもしれないな」
思いもよらないカインの言葉に、ポロムは眼を見開いた。
それは、少女から女性になる手前でくすぶっている彼女を否定する言葉なのだろうか。
「そんなものがなくても、えらい威力だ」
「え?」
「想像するだけで、煽られる。まいった」
カインの手が、すっと伸びて、ポロムの後頭部を支えた。
え、とポロムが声をあげた瞬間、カインの顔が近づく。
「!」
驚いて抗い、ポロムは反射的にカインの体を突き飛ばそうとした。が、それは叶わず、簡単にポロムは壁に背をおしつけられ、強引な口づけを受けた。
生まれて初めてのことに彼女は半ばパニックになり、苦しい呼吸の中、更に暴れようとした。
それはあまりに衝撃的で、女の子ならば誰もが一度は思い描くことがあるような、照れくささのある可愛らしいものでもなく、なまめかしいものでもない。
とにかくポロムは「キスされている」という驚きだけに支配され、その感触を味わうことも何も出来なかった。
「こら」
ふっとカインは唇を離し、たしなめるように言う。
突然口の中に戻ってくる部屋の空気をひんやりとポロムは感じ、わずかな時間のその口づけが、どれほど熱いものだったのか、ようやく気付いた。
「カ、イン、さん?」
「暴れると、噛むぞ。危ないだろう」
「かむ?」
この人は何を言っているんだろう。
ポロムが冷静に意味を把握出来ないうちに、カインは強引にもう一度唇を重ねてきた。
(あ)
水を飲んだばかりで少し湿り気の多いカインの舌が、ポロムの唇を割ってきた。
噛むって、舌のこと?
一瞬だけ気持ち悪い、と思ったけれど、それもすぐになくなる。
熱い。
眩暈がする。
ポロムは眼の端にわずかに涙を浮かべながら、カインのシャツにしがみついた。
熱くて、おかしくなりそうだ。
淡い灯りに頼るだけの薄暗闇の中、その熱に浮かされるのが不思議と気持ち良く思えてくる。
この中ではつややかな唇も、色めいた唇も意味を持たないのだろう。
(どうして大人は夜、想い人とこういうことをするのか、わかった気がする)
明るいうちは恥ずかしいから、ではない。
陽の射さない暗い場所でお互いに触れる方が、気持ちいいからだ。
そっと唇を離すと、カインはポロムを軽く抱きしめて、もう一度言った。
「大丈夫だ。ポロム」
「・・・本当ですか?」
「ああ」
大丈夫って、何が。
そう思い気持ちはどこかに消えてしまったように、ポロムはカインの腕に体を委ねた。
どっどっどっど、と鼓動が早く、それをカインに悟られるのが怖いと思う。
そんな思いの中ふっと脳裏をよぎるのは、ミシディアの同い年くらいの女の子達の声。

――いまどき、好きあってる男女が、体を重ねることぐらい普通よねえ――

――ねぇねぇ、カリーナってもうナルスとキスしたんだって?――

――アサドったらこの前スーザンの家に泊まったこと、男友達に自慢してるみたいよ――

あの子達は、どうしてそんなことを人に言うことが出来るのだろうか。
自分だったら、絶対に人には言わない。
この、わけのわからない熱に浮かされながらあっという間に奪われてしまった口付けは、簡単に「私、キスされちゃったんだ」なんて人に告げることが出来ないものだ。
「カインさん」
「うん」
「私は、カインさんを誘ってしまったんですか?」
「ポロムは、無自覚なのがたちが悪い」
そういって、カインはゆっくりとポロムの体から手を離した。
「ポロムは、理由を作っては俺に会いに来る。俺は、ただあそこにいれば、時々ポロムが来てくれる。それでよかったんだ」
「・・・」
「そうすれば、こんな風になることもなくて、そのうちポロムは年の近い、似合いの男性とでも良い仲になるだろうと、それを願っていた」
「え・・・」
「だが、そうなる前に」
ポロムは離れようとしたカインのシャツの袖を握ったまま、彼を見上げた。淡い灯りの中、カインの表情は容易に見て取れる。
自嘲気味な笑み。
ふっと軽くまばたきとともに口端が緩み、カインの目線がポロムに注がれた。
「お前に煽られて、このざまだ」
「・・・嫌だったんですか?私がカインさんのことを・・・その・・・想う、こととか」
「そんなことは、言っていない」
カインは、自分のシャツを離さないポロムの右手を、ぽんぽん、と軽く叩いた。
名残惜しそうにポロムの手はゆっくりと離れ、まばたきも忘れたように彼女はカインをみつめている。
「大丈夫だと、言っただろう。俺は、ずっとお前に会いに行くことはなかったけれど、だからといって逃げたことはなかったと思うが」
「・・・!・・・」
「明日起きても、さっさと帰らない。約束する。だから、今日はもう眠ろう」
カインは、自分の懸念をどこまでわかってくれているのだろうか。
ポロムは不安そうに「でも」と小さく呟いた。
「一人じゃ眠れない、というわけでもなかろう」
「・・・一人じゃ眠れないって言ったら・・・カインさんは・・・一緒に、寝て、くれるんですか」
「直球だな」
カインはさらに苦笑をみせ、ポロムの頭をもう一度なでた。
「怖くないのか。俺が」
「・・・はい」
それは、嘘だ。
この家に来てからのカインは、今までポロムが知るはずもなかった、そして想像すらしたことがなかった、強烈な「男」を感じさせ、彼女は追い詰められてしまった。
けれど、ポロムはその何もかも初めての刺激に戸惑いながらも、知らなかった彼を知ることが出来る誘惑に勝てないのだ。
いや、彼女が知らなかったカインだけではなく、彼女が知らなかった自分自身も。
ポロムは自分で具体的にはっきり思い描いていたわけではないけれど、今という機会にすがり付きたい気持ちになっていた。
彼女は本能的に感じ取っていたのだ。
夜は、人がおかしくなる。
明るい昼間では決してさらけ出すことが出来ない、自分や相手の中に潜む何かが外に出ようとするのだ。
それがこんなにも怖くて、けれども喩え様のない悦楽を伴うものだと、初めて知った。
抑えが利かないのはカインの方ではなくて自分の方なのかもしれない、とちらりとポロムは思う。
それを見透かしたようにカインは
「俺は、これ以上ここで二人でいるとお前を傷つけそうで、怖い。大人のくせに臆病だと笑われるかもしれないが、話は、明日にしよう。逃げないから。それに、きっとうまい朝食でも作ってくれるんだろう?楽しみにしているぞ」
「あ」
ポロムは小さく声をあげた。
初めての「夜の逢瀬」らしき時間にポロムは少し酔いしれていたが、カインの「朝食」というキーワードに彼女は即座に反応する。
それは、彼女をいつもとおりの、手際のよい、気がよく利くてきぱきとした少女に戻るのに、とても適切な言葉だったに違いない。
確かに、彼をこのまま家に泊めれば、次は朝食だ。
自炊は毎日やっていることで苦にはならないが、カインに食べさせる物、となったら話は別だろう。
一瞬のうちにポロムはそちらに気を取られ、普段の彼女らしい受け答えをするようになった。
「そう・・・そうですね。あの、カインさん、朝苦手な食べ物とか、あります?食欲は、おきそうですか?」
「ああ。風邪をひいているわけでもないし、作ってくれれば、なんでも食べるだろう」
「なんでも、といわれるのが一番困ります」
「じゃあ、困ってくれ」
そういうと、カインはピッチャーとグラスを手にして、あっさりと背を向けた。



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