熱病-6-

次の朝、ポロムはベッドの上で体を起して、しばらくの間ぼんやりとしていた。
あまり眠っていないせいで、少しだけ頭が痛い。
窓から差し込む朝の日差しは明るく、彼女の体を活発に動かそうと導いてくれる。
(当り前に、朝はくるものなんだわ)
あまりにも当り前のことを思いながら、ベッドから降りる。
ずっと、このまま一緒にいられたらいいのに。
そんな阿呆なことを、昨晩ちらりと思わなかったわけでもない。
自分が思ったその「このまま」には、カインがここにいることだけではなく、人をどこかおかしくさせる夜というものも含まれていたのかもしれない。
あまりに健全で、昨晩自分が口走ったことやしでかしたことが恥ずかしいと思える、そんな朝の日差し。
逆を言えば、太陽の光がそうでなければ、人間はいつまでも怠惰で快楽に溺れ、感情をさらけ出してしまう夜の時を過ごし続けることになるのだ、とポロムは初めて気づいた。
いつ、外に出ても良い格好をしよう、とポロムはクローゼットを開けた。
多くもない服をみつめて、彼女の手は止まる。
やはり、いつもほど無造作に服を選ぶことが出来ない。
(・・・柔らかい服が、いい)
昨晩カインに抱きしめられた感触を、ポロムは思い起こした。
あの近しい体温を感じるのは、形が可愛らしくても厚手のごわついた服では無理だと思う。
その思いに自分で気づいたポロムは、その場でぺたんと床に座り込んだ。
「・・・っ!」
怖い。
朝から、こんな風に彼のことを考えている自分が恥ずかしい。
そして、まだあの腕が欲しいと思っている自分を、どうしていいかわからない。
ポロムの年頃の女の子は、好きな男性と会う時にみな「可愛らしく見える服装」をしていくものだ。
自分が一番魅力的に見える服。
やり過ぎだと思われないけれど、いつもよりすこ少し特別な服。
カインに会いに行く時は、そうやって彼女も選んでいたはずだ。
(浅ましい・・・!)
それなのに、彼女は今、そう思うことが出来ない。
突然背中を押されて、腕を引っ張られて、階段を何段も転げ落ちたような錯覚。
背伸びをして引き上げられたのではない。これは、転落だ。
怖い。
自分が自分ではないものになったようだ。
ポロムは小さく「やだよぅ・・・」とつぶやいて、膝を抱えた。
こんなにも強烈に自分が変わっていく様に気付いたのは、彼女にとって初めてのことだ。
もう彼女は自分自身を奮い立たせることが難しく、しばらくの間どうしてかわからぬまま泣いていた。
泣いている間に、自分はこんなによく泣く女の子だっただろうか、と思って、それを考えることだけで、少しずつ落ち着いていく。
そんなポロムに、窓の外から鳥達のさえずりが少しずつ届く。
ひとしきり泣いた後で、ポロムは目をこすりながら立ち上がった。
夜がやがて朝になるように、当然のようにカインも目覚める。
それまでに彼女は朝食を作らなければいけないのだ。


鳥の干し肉からとった出汁で野菜をゆっくりと煮たスープに、雑穀類を混ぜて更に煮たもの。
あっさりと仕上げて、体調が悪くても飲めるようにとポロムは気遣った。
もしも、元気になっていたらそれだけでは足りないかもしれない。
旨みが少し残っている干し肉を野菜と一緒に細かく刻んで、蜜で味を調節した甘辛いソースを作る。
岩塩を両面に軽く擦りこんだだけの肉を蒸して、そのソースを瓶に入れて添えた。
作り置きをしている堅いパン。
それから、昨晩結局飲ませなかった薬草茶。
(肉が余ったらパンでも焼いて、野菜と挟もう)
それは、パロムが大好きなメニューだ。
用意した食卓を見渡すと、大して手のかかった料理がない、とポロムは思う。
スープはいつも出汁を常備しておくし、火の通りやすい野菜ばかりを使っているから時間もかからない。なんといっても煮るだけだ。
肉も同じく蒸すだけで、ソースに至っては混ぜるだけ。
(ちょっと、手を抜き過ぎたかしら)
しかし、朝っぱらから泣いたせいか、頭痛がなかなか取れない。昨晩切れ切れの妙な寝かたをしたせいか、体もなんだか硬くてだるい。
恋に恋している状態ならば「これも恋愛の痛みね」なんて阿呆なことでも思えるのだろうが、あいにくとポロムはそういう夢を見過ぎる少女ではない。
薬草茶を煮出していると、パロムの部屋の扉が開く音が聞こえた。
(落ち着け。落ち着け、私)
心の中で繰り返し「おはようございます、カインさん。調子はどうですか」と、彼にかける第一声を呟く。
その間も、動きを止めていては不自然かも、と、むしろそちらの方が不自然では?と思えるような、ぎくしゃくとした動きで棚のカップの位置を変える。
ポロムのそんな気持ちを知るはずもなく、のっそりと居間にやってきたカインは
「ポロム。おはよう。悪いが、かなり汗をかいたので着替えたい。昨日の俺の服は洗ってないだろう?悪いが、もう一着借りていいか」
なんて、予想も出来ない話題を開口一番ポロムにふった。
「あ、あ、おはようござい、ます」
それに慌てて、ポロムの挨拶もまた、ぎくしゃくとする。
そうだ。
確かに、昨日はカインが調子が悪くなったことに気を取られて、濡れてしまった彼の服は洗っていない。
干したといえば干したけれど、雨の中走ってはねあげた泥は完全には落ちていないし、体調が万全ではない人間に着せるような状態ではない。
それに気づいて、ポロムはかあーっと頬を赤くした。
迂闊だ、と自分のことを彼女は責める。
「あの、服なら、朝食の後で洗いますから・・・今日は、お天気良いですし・・・あ、そうじゃなくて、パロムの服・・・」
「クローゼットに入っているものは、使っていいか」
「あ、はい。大丈夫、です」
「わかった。着替えてくる」
そういうと、カインはくるりと背を向け、部屋へと戻る。
ポロムはそれをしばらく見送って、ぱたん、と彼が部屋の扉を閉めた音をかすかに聞くと、深く息を吐き出した。
あっさりと、朝の対面は終わった。
わずかな時間なのに、彼女の胸の鼓動は高まり、どっどっどっど、と体中にその振動を伝えるようだ。
おはようございます、と返すことが精一杯だった。
彼は普段と変わらぬ声音で、あっさりと話しかけ、あっさりと背を向ける。
なんだか拍子抜けだ、とポロムは思い、椅子に座った。
しばらく瞳を閉じて、自分の高鳴る鼓動に耳を、全身を傾ける。
いつも静かに動いているはずの心臓は、ポロムが思う「拍子抜け」に合わせてはくれず、簡単には収まらない。
どっどっどっ。
このまま続いたら、鼓動はさらに激しさを増し、息苦しくなって死んでしまうかもしれない。
今まで味わったことがない不思議な恐怖感に苛まされて、ポロムは深呼吸を何度も繰り返した。
「すまんな、待たせたか」
そういってカインが戻ってくるのには、そう時間がかからなかった。
彼の顔色はよく、その声音も普段と変わらないようにポロムには見える。
何をどう思っているのかわからない、いつもの表情で。
テーブルの上に並んだ朝食を見て、そんな彼の頬がわずかに緩んだ。
いいえ、と答えようとしたポロムの言葉を遮るように
「朝から、これはうまそうだな」
とカインは小さく呟いてから、ポロムの許可を得ずに適当な椅子に腰を下ろした。
「いただいても、いいのかな?」
「あっ、はい、どうぞ!」
さすがにそれはポロムの許可を得てからカインはパンに手を伸ばした。
その前に、と喉を湿らせるために茶を飲む。
口をつけてからそれが薬草茶だと気づいたようで、少し彼は眉をひそめたが、何も言わずにパンに噛り付いた。
自分が片恋をしていた相手が、自分が作った朝食を、自分の斜め前で食べている。
それがあまりに現実味がなく思えて、ポロムは彼のその様子をしばらくじっと見ていた。
(やっぱりパロムの服では、肩幅が窮屈なんだわ)
昨晩彼に着替えてもらったシャツは、心持ちパロムが服の中で体をもてあましているシャツだった。そういえば、昨晩の彼はその服を着て何の違和感もなかった。
先ほど着替えてきたパロムのシャツは少しだけ窮屈なようで、パロムが着たときには見たことがない、ひきつれたような皺が布の上できしきしと言っているように見える。
男の人なのだ、とポロムはそのシャツのしわを見つめてから、テーブル下に目をやった。
そこには、パロムが着た時よりも余っていいない裾があるべき場所にある。
「なんだ。何が珍しい。この服が、そんなに似合わないか」
「あっ、いえ、あの、少し小さかったのかなって」
「そうだな。いや、むしろ、俺が着られる大きさがあることの方が驚いた。もう、パロムもそれだけ大きくなったということだろう?」
「・・・」
それは、パロムだけではなく、ポロムも大人に近づいてきたということだ。
カインは自分の発言の意味をわかっているのだろうか。
そうですね、とか、ええ、と、曖昧な笑みで濁しながら、ポロムも朝食に手をつけた。
好きな男性との食卓は、彼女にとっては心躍る時間にはならなかった。


最後の皿を棚にしまって、ポロムは改めて手を洗い、布巾で水気を拭いた。
結局あの後、彼らは特に話が弾むわけでもなく、黙々と食事をとっただけだった。
カインは最後に、「うまかった」と言ったけれど、ポロムの方は既に料理のことよりも気をとられていることがあったのだ。
それは、「どうしよう。これから、カインさんの服を洗って、でも、何を話して、昨日のことも、何をどう」という、まったくとりとめのない思い。
ぐるぐると、けれど相当にぼんやりと曖昧な問題に彼女は苛まされていた。
自分から何を言えばいいのだろう。自分は彼から何を言って欲しいのだろう。
それすら思いつかず、食事後にポロムは皿を片付けることに集中することで、自分の煩いから逃げようとした。
一方のカインは、ポロムが皿を片付けている間に、自分の服は自分で洗ってくる、と家の裏のある洗い場に向かった。
考えてみればパロムと違ってカインは長年一人で暮らしているのだし、洗い桶や板を提供して水桶の場所さえ教えれば、いくらでも自分のことは自分で出来るのだ。
たとえ、内容ががさつで手抜きで、ポロムが見たらがっかりするような適当さでも。
皿を洗って片付ける方が服を洗うよりは早く終わったようで、ポロムは一息つくと居間の椅子に座った。
なんだか、色々と考えることに疲れた。
どうして昨日カインはあんなことをしたんだろうか、とか、熱に浮かされていたのはカインではなくて自分だったのかもしれない、とか、一人で考えても意味がないこと、答えがわからないことに思いを巡らせることがいささか苦痛に思えてきたのだ。
そのぼんやりとした時間もそう長くは続かなかった。
ポロムの予想していたよりも遥かに短い時間でカインは服を洗ったのか、彼女が無防備な状態で彼は戻ってきた。
「カインさん」
早かったんですね、干すところはわかりましたか。
続けて言おうとした途端、自分を見下ろしているカインが眉をひそめたことに気づき、ポロムは言葉を飲み込んだ。
なんだろう。また私、何か余計なことを。
疑心暗鬼になって困惑しているポロムに、カインはわずかに心配そうな表情を見せる。
「・・・眠そうな顔だな。寝てないのか」
「え?ね、眠りました」
「じゃあ、泣いていたのか」
「え」
それは、確かだ。
カインのそこ言葉に驚いて、ポロムは自分の眼の下を押さえた。
どんな顔をしているんだろう。朝少し泣いただけで、まぶたが腫れていたのだろうか、目の下にこすった痕でもあるのだろうか。
どう答えて良いか困って、ポロムはカインを見上げた。
と、その途端、ぬっと彼の手が伸びてきて、ポロムの額に手のひらを押し当てられる。
「カインさん?」
「・・・熱」
「え」
「熱くないか、体。熱があるぞ?」
カインはその手を離してポロムの首筋にそっと当てる。
「!」
その刺激に体を震わすことをポロムが我慢を出来たのは、確かに熱があっていささかぼうっとしているからだろう。
カインはポロムの首元、脈打つ場所や、首の後ろ側が火照りすぎていないかと手を沿わせる。
「カインさん、あの」
うなじに手を差し込まれて、ポロムは慌ててカインの体を押した。いや、押したつもりだった。
彼女が思っているよりも彼女の力は弱弱しく、まるでカインが着ている服を触れているだけのような、まったく違う行為に変わってしまう。
(私、さっきまで、大鍋も持っていたのに)
その自分の力の入らない様子に、ポロムははっと驚いた。
「俺のは風邪じゃないから、うつしたわけではないんだろうが・・・昨日の雨のせいか」
「あの、カインさん、大丈夫です」
そう答えながら、ポロムは彼に言われたことで自分の不調を自覚した。
泣きすぎて頭が痛いのではない。
調子が悪いのだ。
そして、朝食前になかなか収まらなかった鼓動も、カインのせいだけではなかったのだろう。
体が、いつもと違う。だから、余計に抑えられない。
「一度横になるといい。朝食を作るのに、気を張ってくれたんだろう?ありがとう」
そのカインの言葉は、一見配慮があるように思えるけれど、ポロムにとってはそうではない。
カインのために朝食を作ることを、ポロムがどれだけ意識していたのか。
それすら彼が見透かしていたのではないか、と思える言い回しだったからだ。
「大丈夫です。カインさんのお見送りをしたら・・・その後で横になりますから・・・」
「強情だな」
「・・・きゃ!」
突然カインはがたん、と椅子を乱暴に引く。ポロムは驚いて反射的に立ち上がった。
それを強引に両腕で抱き上げるカイン。
カインはどうかはわからないが、ポロムの方はその「お姫様だっこ」を人にされた記憶なぞないし、して欲しいと想像したことすらない。
ひたすらに恥ずかしい。
いくら好きな相手でもそんな突然のシチュエーションに手放しで喜べるポロムではなかった。
「カインさん!大丈夫です、一人で、歩けます!」
「うるさい」
「だって、私、だいじょう・・・あれ?」
かくん。
強情に言い張ったものの、体がついていかない。
カインの腕の中で、突然ポロムの顔は首の力が抜けたようにのけぞった。
そのことに彼女自身が驚いて、目をしばたかせた。
「あれ?私・・・」
「みろ。昨日の俺より余程おかしいだろうが」
そう言われては、最早ポロムには反論の余地がない。
カインは断りもなくポロムの部屋の扉を開けてずかずかと入り、ゆっくりポロムをベッドに横たえた。
「私、大丈夫ですから、カインさ・・・」
慌てて上半身を起こそうとして、ポロムは眩暈に襲われた。
急に激しく動いたせいか、ぐらぐらと頭の奥で何かが回っているような感触がする。
言葉を続けることが出来ず、そのままポロムは起こそうとした体をベッドに預けた。
「このままでいいか。着替えるか」
「え」
「この服のまま寝ても大丈夫か?」
柔らかい服を選んだから、大丈夫だ。ポロムは瞬時にそう思ったが、少しだけ遅れて意地悪な疑問がわきあがる。
「着替えるって・・・いったら・・・出て行ってくれるんですよね?」
「・・・見られたくないか」
「当り前っ・・・です」
「そうか。俺は、別に着替えを手伝ってもいいが」
話がおかしい。
自覚したと同時にどんどんひどくなる頭痛と体のだるさと戦いながら、ポロムはそれだけは理解した。
「そりゃあ、そうですよね・・・カインさんにとっては・・・子供の着替えと、同じ、でしょうから・・・」
搾り出すようにそう言うと、ポロムは仰向けのまま自分の顔を抱きかかえるように両腕で覆った。
頭が痛いから少し抑えていたい。それに、こんなときの顔を見せたくない。
まるでカインを拒絶するかのようなその様子を彼がどう思ってみているのかは、ポロムはまったく意に介さない。
いや、そこまではもう気が回らないのだ。
そんな彼女の耳に、小さなため息と共に彼の言葉が届いた。
「子供なら、聞かずに着替えさせている」
そういうと彼はそっとポロムが履いていたサンダルを脱がせ、部屋を出て行こうとした。
部屋の中には外の日差しが窓から差し込んでおり、彼が洗ったシャツ類はすぐに乾くように見える。
ありがたい反面、それはポロムの休息を遮るものだ。
それに気づいて、カインはカーテンを閉めた。
ちらりとベッドの上のポロムを見ると、彼女はまるで昨日の彼のように既に眠りに落ちてしまっていた。


それから、何刻たった頃だろうか。
扉が開く音をうっすらと聞き、ポロムはぼんやりと目覚めた。
「あ・・・」
「起こしてしまったか」
それがカインの声だとわかるまで、少しばかり時間がかかる。
ようやく頭が動き出してそれを理解した時、ポロムは「ああ、どうしよう」と己を責めた。
カインに迷惑をかけてしまった。彼の気をひこうとしたのでは、と勘ぐられたら嫌だ。いや、それ以前に自分の寝顔を見られたのかと思えば、それだけで布団から顔を出したくなくなる。
それらの感情を起きぬけでどうにか抑えこみ、冷静な言葉を返すのには相当気力が必要とされた。
「大丈夫です・・・そう長くも、寝ていられないですし・・・」
(なんかもう、たった一晩で、何もかも見られてしまったような、そんな気がする)
色々順番が違う、という気持ちを抱きながらも、目覚めた時に好きな男がそこにいる幸せと恥ずかしさと申し訳なさを感じて、ポロムはすぐに体を起こすことが出来なかった。
なんとなく、布団の中にいる間は何かが許されるのではないかと思い、逃げ場のように身を縮こまらせた。
「ちょっと待っていろ」
そういってカインはなにやら果物をむき始めた。部屋に広がる新鮮な果実の芳香が、横たわったままのポロムの鼻をくすぐる。
酸味と甘味の混じったその匂いに刺激され、唾液が口内に少したまる。
しかし、それを食べたいと思うよりも先に、ポロムは疑問点に気持ちが逸れた。
「カインさん・・・その果物は・・・?私、買ってきていました・・・?」
「今日、何か会合があっただろう」
カインのその言葉に、ポロムは一気に意識が覚醒したようで、はっと瞳を見開いた。
「そ、う、だわ・・・私ったら・・・!!」
「ポロムが無断欠席をすることは珍しいから、何かあったのか、と女の子が一人これを持って様子を見に来た」
「え」
「髪が長くて・・・えーと」
たどたどしくカインが説明すると、ポロムはそれがジーナであることにすぐに気づく。
それに、ポロムが無断欠席をしたことで体調不良じゃないかと気遣い、果物を持ってきてくれるあたりも彼女らしいと思う。
「明日は大丈夫かと聞かれたので、大丈夫だと答えておいた」
勝手な話だ、とポロムは少し思った。
が、そんなことよりも、自分の家にカインがいることを人に見られた気恥ずかしさ、それもきっと勘の良いジーナならば何かを察するだろうという思い。
それらを「どうしよう」と繰り返し思い浮かべ、けれど、何の解決策も思いつかぬまま、目の前に皿が差し出された。
「起きられるか」
「・・・はい」
上半身をゆっくり起こして、カインから皿を受け取る。彼は切れ端をつまんで口に入れ、かすかに頬を動かしながら皮を持って出て行った。
裏庭で肥料にすることを何故か知っているようで、遠くで外に出る扉の開閉の音がした。
(カインさん、いてくださったんだわ)
ポロムは果物に口をつけると、一口一口かみしめて、そんなことを思う。
目覚めたら、いなくなっているかも。
そんなことすら考えられずに眠ってしまったが、彼がいてくれたことがこんなに嬉しいとは。
(いつもは・・・パロムがいて・・・でも、パロムは何も出来なくて、私が具合が悪くてもあれやってこれやって、って言わないといけなくて)
そのあたりはさすがにカインも無駄に年をとっていない、ということなのだろう。
果物はみずみずしく、さわやかな甘さが口の中に広がる。
すっきりとした味わいを堪能すると、実は案外と体調が悪くないことにポロムは気づいた。
「これは、うまいな」
そう言いながら戻ってきたカインは、まだ皿の上に残っている果物に、何の遠慮もなく手を伸ばしてもうひとつ口に入れる。
ポロムももうひとつ口に入れてから、ベッドの近くに置いてある小さなローテーブルに皿を置いた。
「ごちそうさまでした・・・カインさん、あの、ジーナは・・・・来てくれた人は、ほかに何か言ってませんでした?」
「ああ、明日も調子が悪ければ無理するなと伝えてくれと」
「そうですか」
「怪我でもしたのか、風邪なのか、と心配していた。だから」
「え?」
だから?
ポロムは怪訝そうに眉根を潜める。
「知恵熱みたいなものだと言っておいた」
「!」
どうして、そんなことを、と言おうとしたポロムの様子を気にもせず、カインは言葉を続けた。
「そうしたら、ポロムほど才能がある者ならそういうこともあるかもしれない、と彼女は言っていたぞ」
「なっ・・・」
どういう意味なのかと問い詰めようとしたけれど、うまく言葉にならない。
かあっと頬が紅潮して感情をぶつけたくもなったが、それがカインに対するものなのか、ジーナに対するものなのか、果ては、「知恵熱をだすような人間」と思われている自分への憤りなのかもわからず、うまい八つ当たりが出来ないままポロムは息を吸い込み、吐き出す先が見つからずにぐっと飲み込む。
「それを聞くまで忘れていた。ポロムは、その、ミシディアの魔法使いの中では、天才少女、みたいな、そういうものだったな」
「・・・そういう、わけでは」
「なのに、俺なんぞに会いに来たりして、馬鹿だな」
そういって、カインはポロムの頭に手を伸ばして、軽く撫でた。
思いもよらないその行動にポロムは驚き、目を伏せて息を整える。
馬鹿だな、と告げた彼の声音が、今までポロムが聞いたことがないほどの優しい声音だったことに、彼女はもう気づいていた。
もしかするとそれは、今まで気づいていなかっただけなのかもしれない。
彼から与えられた言葉の温かさに動揺している自分への戸惑い。
それと同時に、体を少しでも動かしたら自分に触れている彼の手が離れるのではないかと思えて、ポロムは体を強張らせて不自然な呼吸を繰り返した。
一息。もう一息。三回吸って吐けば、カインの手はポロムから離れた。
触れられていた髪の部分がまるで意思を持っているように、名残惜しんでしるようにすら感じる。
「調子は、まだ悪いのか」
何も言わずに目を伏せているポロムを心配して、カインが声をかけた。
けれど、ポロムはそれに答えることが出来ず、唇をかみ締める。
体が、熱くなる。
つきん、と目の奥、後頭部に軽い痛みを覚える。
(ああ、頭が、少し痛い)
それがどうしてなのか、すぐに彼女にはわかった。
やはり、泣くと頭は痛くなるものなのだ。
「ポロム」
「お願いです。カインさん」
「うん」
「何もかも、なかったことにしても、私、我慢出来ますから。でも、私が、カインさんのことを思ってることを・・・子供の勘違いだとか・・・すぐ醒める熱病のようなものだと・・・そんな風に軽んじないでください」
何度泣くつもりなのか、と自分でも思う。
けれど、自分がこれだけは言いたい、というその訴えを頭の中で反芻した瞬間、泣けてきてどうにも抑えられなくなったのだ。
じわりと目の端に浮かぶ涙の熱さを感じてポロムは、「何年分泣くのかしら、私は」と自虐的に思い浮かべた。
「まったく、ポロムは、馬鹿だな」
そんな彼女の様子をみながら、カインは呆れた風でもなくため息をついた。
「大人でも、勘違いはするし、すぐ醒めるような感情に振り回されることもあるもんだ」
「そうなんでしょうか」
「ああ。それを軽んじることが出来る人間は、それを体感したことがない人間だけだ」
それは、カインは体感したことがある、ということなのだろうか。
ポロムは、泣きはらした瞳でカインを見上げる。わずかの間、その視線を真っ向から受け止めたカインは、軽く肩をすくめながら
「だから、誘うなというのに」
と言って、少しばかり乱暴にポロムの頭を撫でた。
「勘違いや、熱病なら、すぐ楽になるはずだったんだ」
俺も。
彼が口に出さないその言葉が聞こえたようで、ポロムは目を軽く見開いた。
どうしたんだろう。
今まで気づかなかった彼の声音に気づき、今まで察することが出来なかった彼の思いに気づいている、そんな錯覚が彼女の中に生まれる。
「カインさん」
「なんだ」
「やっぱりこれ、知恵熱かもしれません。何か・・・今までよくわからなかったことが、少しわかるような・・・ううん、気のせいでしょうか」
カインはまじまじとそんなポロムを見て、いささか呆れたように肩をすくめた。
「知恵熱なんぞは、ただの迷信みたいなものだ」
「でも、なんか、えっと」
「昨日までより、何か違うとポロムが思うのは」
そこまで言って、カインは言葉を飲み込んだ。
言葉の続きを待ったポロムは、そのまま黙り込んでしまうカインに、不平を訴える。
「何ですか。気になります。教えてください」
「・・・わからなかったことが、少しわかるんだろう?」
「知りたいことが全部わかるわけじゃないですもの」
カインは、首をわずかにかしげて目を伏せて息を深く吐いた。
その様子をポロムは静かに見上げている。
「体調は、どうだ。熱は」
「私、どれくらい眠っていましたか?」
「俺の腹が減ってから、二刻ほどだな。パンだけもらった」
「え、じゃあ」
「もう二刻ほど待てば、日が沈むだろう」
ポロムは彼のその言葉に驚いて、息を呑んだ。
すると、体調を聞いたのにそれに答えないポロムに少しばかりカインは苛立ったのか、熱を計ろうと手を伸ばしてきた。
ポロムは少しだけ体を引いて、それを拒否する。
彼女のその様子に驚いて、カインは怪訝そうな表情を見せた。
「あと二刻も私が眠っていたら、カインさんはお帰りになりましたか」
「・・・ん?」
「私が、まだ体調が優れないといったら、もう少しいていただけるんですか」
「そんな駆け引きをしても、いずれは俺は山に帰る」
カインのその残酷な言葉に、ポロムの体は強張った。そんなことはわかっているのだ。わかっていて、その時間を少しでも引き延ばしたくて。
引き延ばしたい。いや、それもまた違う。
彼に、気に留めていて欲しいのだ。それが、本音だ。
と、カインはベッドの縁に腰をかけて、ポロムの顔を覗き込んだ。
「俺が聞きたいのは、そんなことじゃない。それは、まだわからないか」
「ごめんなさい・・・カインさんは、私の体調を心配してくださっているのに・・・私・・・」
「それも違う。違う、と言い切るのも語弊があるが」
「え」
「キスをしてもいいのか、という意味だ」
カインのその言葉にポロムは驚いて、口を半開きにして彼を見た。
その恥ずかしい言葉に彼はまったく照れてもいないようで、ポロムからの返事を待っているのか、彼女の視線を真っ向から受け止める。
「・・・っ・・・」
彼は、昨晩のことを、なかったことにはしないのだ。
そして、今でももう一度、あの口付けを与えようとしているのだ。
そう思えば、ポロムは再びの恐れと、けれど新たな安堵の気持ちでないまぜになって、頭痛の元になる涙をまた両眼に溢れさせた。
カインは彼女のそんな様子を見て「よく泣くな。どうした」と言って、彼女の頬を両手で覆った。
いつもは、手甲をつけている彼の素手。
その大きな手のひらにすっぽりとポロムの顔は収まり、涙もまた彼の手に伝わっていく。
「ごめ・・・ごめんなさい、カインさん」
「いい。悪かった。嫌だったか」
「そうじゃありません。あのっ、そうじゃないから・・・私、泣き止みますから・・・体調も、そう、悪くないですから・・・だから」
「うん」
「キスして、それから、もう少し一緒にいてくださいっ・・・」
そういって、自分の頬を覆っているカインの手をそっととって、ポロムは上半身を前のめりに折るように、毛布に突っ伏した。
言ってしまった。どうにも出来ずに出てしまったその言葉に、言ったポロム本人が戸惑って、どうしてよいのかわからない。
けれど、自分達には言葉が足りなすぎて、あまりに心許ない。
初めての深い恋がこんなにも難しいなんて。
相手が悪すぎる、とポロムはぎゅっと毛布を握り締めた。
とめどなく溢れる涙を毛布は吸い取らずに、彼女の長い髪を濡らし、頬全体を濡らし、鼻の頭も、唇も濡らしていく。
そんなポロムの頭に、またカインは手を置いた。
「俺がキスをしたくなるくらいにはポロムのことを思っていると、ようやく理解してくれたんだろう?それが、少しばかり、今日何かが違う、と思っている理由だろう」
「そう、でしょうか」
「ああ」
ぽんぽん、と軽く叩くだけで、カインはポロムを起こそうともしないし、泣くなとも声をかけない。
「俺も、今日は少し違うから、多分お前と一緒だ」
「・・・違う、んですか」
「煽られた俺でも許してくれるほど、お前が俺のことを好きだということが、痛いほどわかったからだ」
カインの声音は優しくて、まるで今までポロムが恋焦がれていた人物と同じなのかと疑うほどだ。
けれど、それはまったく嫌ではない。
ポロムは顔をあげようとした。
が、自分の顔がぐしゃぐしゃになっていることに気づいて、心のそこから失望する。
こんな顔を、カインに見せたくない。
すると、まるでそれを見透かしたようにカインは小さく笑いながら言った。
「大丈夫だと、昨日から言っているのに」
「・・・大丈夫じゃ、ありません・・・」
「ひどい顔になっていても、心配しなくていいのに」
「そんなの、女の子には無理です」
「大丈夫だ。早く、キスさせろ」
そういうと、カインはポロムの手首をつかんだ。
決して顔を無理やりあげさせないで、その細い手を引く。
「・・・っ、カインさんっ!」
また、昨晩のように。
それを思い出して、ポロムは焦って顔をあげた。
こんな、自分がベッドの上にいるような状態で、彼の唇がまた自分の指を、手を這うのは、たまったものではない。
涙でぐしゃぐしゃになっている顔を見られたくないのに、ひどい仕打ちだ、と抗議をしようとしたその時。
「ちゃんと、覚えているんだな。えらいな、ポロムは」
まるで子供をいなすようにカインはそう言って、涙に濡れたままのポロムの唇をついばんだ。
ほんの一瞬触れたかどうかもわからない、子供騙しに思える口付けにポロムは憤慨して、カインを突き飛ばしてベッドから降りる。
「か・・・顔を、洗ってきますからっ・・・見ないでください!」
「ああ」
「それから、えっと・・・えっと・・・」
「・・・夕食も、ご馳走になろうかな」
「・・・お夕食の、食材を買うのも、手伝ってくださいね!」
ポロムはそれだけ言い放って、部屋からばたばたと走り出た。
その足音を聞きながら、カインはくっ、と喉を鳴らして笑って、靴を履いたままベッドで大の字になる。
そして、彼にしては相当に稀な独り言を呟いた。
「・・・また、俺の方が知恵熱をだしそうだ」
何をしても、何をされても可愛いと思うなんて。
その言葉だけは、絶対に口には出すまいと誓いながら、カインは自分の額に手をあてて、平熱かどうかを確認した。
彼の手のひらに伝わった体温は、いつもより若干熱い。
多分、ポロムのそばにいる時には、自分はいつも少しばかり熱が出ているのだろう、と彼はどうしようもない阿呆なことを考えながら、彼女が戻ってくる足音を待ち続けるのだった。



Fin

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モドル