空に還る-11-

冷え切っていた体にじわりじわりと体温が戻ってきて、ソニアの指先はいかにも血が通っているようにむずむずしてきた。
ふと、後頭部に手をやれば、暖炉からの熱気で髪が温められていることがわかる。そんな仕草を見せる間にも、ソニアは自分の心の整理をしていて、言葉ひとつを出すことすら出来ない。
ミザールは決して、話はそれで終わりか、などとソニアを急かさない。ランスロットも、ソニアにかける言葉をみつけることが出来ないようで、静かに彼女の様子をうかがっているだけだ。
室外からの音は未だ続き、バルハラ城の残兵が反乱軍と戦っている様子がうかがえる。そんな時に、敵将であるミザールが、こんな風にソニアと話をしていることが、今更ながらソニアにも不思議に思えた。
もうそろそろトリスタン達はバルハラに到着するだろう。きっと、城付近で残兵と戦いながらソニアとランスロットを待っているに違いない。だから、急がなければ。
わかっていても、ソニアもまた言葉を失っていた。
その横顔を見て、痛々しい、とランスロットは思う。
望んでもいないものに成ってしまったソニアは、そのことに対する憤りをミザールにここでぶつけたかったのだ。どれだけの問いかけを、罵りを考えてこの場に来たのかは、自分でもあまり把握していないのかもしれないけれど。
ところが、望んでいなくても「成ってしまった」のは、自分が選んだ道の結果だとミザールは言う。
以前、まだ反乱軍リーダーになって間もない頃。ソニアは、何度も何度も、「反乱軍リーダーを辞める!」とぶつくさランスロットに文句を言っていた。その時の彼女は本当に、心からそう思っていたとランスロットも知っている。
反乱軍リーダーなんてものは辞めて、一人で戦おうと。
ゼノビアを復興させたかったわけではないし、政治の一端を担おうとしていたわけでもない。
人々を救いたいだとか、帝国の圧政を許せないとか、そういったことは二の次だった。
たとえ、一人で戦うことが愚かだといわれようと、その方が余程身軽で、面倒なことが少ない、と。
しかし、あのまま素直に辞めていたら。
そうしたら、ラシュディだとか、魔界の悪魔だとか。生命体を作り出す秘術だとか、カオスゲートだとか。そんなものとは無縁のままだったのだろうか。
いいや、わかっている。もし、そうだとすれば、それはソニアが自分の志をもまた果たせないことになるのだろう。
自分の目的を達成しようとすれば、自ずとついて回ってしまっただろう厄介ごと。
それを、不承不承彼女は背負っただけだ。
そこには、ミザールの介入も、天の神の策略も何もないのだ。
自分の首を絞めたのは、自分自身。反乱軍という大きな組織でしか為しえないであろう、それほどに大きな物に繋がり逝く、ソニアの志だ。それらが、作為に満ちていると感じているうちは、まだよかった、とソニアは思わずにはいられないことだろう。
ぽつりとソニアは、くぐもった声で言った。
「もし、あたしがここで」
「ええ」
「ラシュディのことなんか、どうでもいい、天空のことも、ゼノビアのことも、何もかももうどうでもいい。私怨ももはや薄れ、面倒なことはしないで生きていきたいと思っても・・・あたしの力は、あたしのものだし、ここまで倒してきた敵兵を生き返らせることだって出来やしない。ただ、何も為せずに一人で生きるか、為そうとして皆と進むか、そのどちらかしか選ぶ道はないんだろうな」
「そうですね」
「でも、あたしは、もう戻れない」
ソニアのその言葉には、熱い決意はこもっていない。
淡々と紡ぎだされた言葉達は、ただの現実を声として発されているだけに過ぎない。
それから、またしばしの沈黙。
多分、ソニアは今何かと戦っているのだろう、とランスロットは思う。
幾度となく繰り返された、彼女の心の中の葛藤に対して、きっと今日は一石を投じられると思って来たに違いない。けれど、ミザールからの言葉で得られたそれは、あまりにも予想と大きく外れた一石だった。
答えが出ないとわかりつつも、とめどなく続く葛藤。それに対して、自分の心と折り合いをつけるのはとても難しい。
ランスロットの年齢でもそう思えるのだから、いくら柔軟な若さのあるソニアであろうと、その未熟な心で対応することは時間がかかるのだろう。
少し、待って、とか。
そういう言葉を発することが出来ないほどの物思い。
軍議の時に感じることもあるが、ソニアほどの年齢の者が、こんなにも長い時間集中をして、何かを考えていることをランスロットはあまり見たことがない。ヘンドリクセンのように、研究者肌だったりすればまた別だと思えるが。
その彼女が、こんな風にここに居ながらにして心が在らずの状態を見ると、時々ランスロットの心は痛む。
静かに傍らで息を潜めるしか出来ないことはわかっていても、ソニアが負っている荷の大きさに理不尽さを感じ、その荷をどうにかしてわけられないかと、ランスロットも考える。
考えて、考えて、そして。いつも、彼は何も出来ないということを思い知って、落胆する。
むしろ、その落胆をソニアに気付かせないようにする、ということが、自分に出来ることなのではないかとすら思え、不甲斐なさに自らを責めるばかりだ。
ぴくり、とソニアが動いた。
何かを決意したような、表情。
その表情は、今まで何度かランスロットは見てきたことがあったし、ソニア以外でも「その時」を持つ若者達を、今まで何人も出会ってきたと思っている。
「ミザール」
「なんですか」
呼びかけからわずかな間を空けてから、ソニアは問い掛けた。
「・・・ミザールは、ラシュディを、愛しているのか」
いささかそれは唐突な問いだ。
しかし、ソニアはそれについて何の前置きもしなかったし、ミザールを見つめるその瞳は真剣そのものだ。「何を急に」と言葉にしようとしたミザールは、ソニアからの強い視線に何かを感じ取ったらしく、口を閉ざした。
「・・・」
ソニアの問いは、穏やかだけれど、ミザールの沈黙を許さないように続く。
「キャターズアイとかいう石を渡したのは、本当に、愛していたからか」
「・・・」
「天使は、人間同士みたいに・・・人を愛することが出来るのか。男女のように、唯一の相手として、誰かを選ぶことが出来るのか」
「いいえ、天使が人間に感じる感情は、人間界における男女のそれには繋がりません。何より、誰かひとつの固体を選ぶことなど」
三つ目の質問には、きっぱりとミザールは返答をした。
その言葉にランスロットは驚き、左眉だけをぴくりと動かした。
「出来ません。ええ。それだけは、決して間違いのないことです」
「では、何故」
「簡単なことです」
ソニアとランスロットは、唇を引き結び、ミザールの言葉を待った。
彼女は、美しい面を曇らせ、まるで屈辱に震えるような苦々しい声音で答える。
「ラシュディは、人間でありながら、もはや魔界に足を踏み入れた忌々しい者だからです」
「それは・・・では、ミザールは、やはりラシュディを」
愛していたのだな。
そう言おうとしてソニアは黙った。
過去を表す言葉にするべきなのか、今もなお続いている愛情を問うべきか悩んだからだ。
しかし、言葉が途切れても、ミザールはソニアが言おうとしたことを正しく理解していた。悲しげに眉を寄せ、自嘲気味の笑みを浮かべてミザールはソニアに語りかける。
「天使は、魔界の者も愛することはありません。けれども」
「うん」
「あの男は、もはや、人にあらず、魔の者にあらず。聖剣なしに、人間がカオスゲートを開いて天界に行くことが出来るはずもなし。かといって、ガルフのように、魔界と近い場所でエネルギーを吸収することも出来ぬ者」
「随分と、あたし達が辿った道に詳しいな、さっきから」
ミザールはそれへは苦笑を見せた。
「残念ながら・・・それらは、ラシュディから聞いた話です」
「なんだって。じゃあ、アンタンジルであたし達がガルフと戦った頃は、ミザールはまだラシュディと一緒にいたのか?」
「いいえ」
「うん?」
「一緒にはいません。既にその頃、この永久凍土で一人でいましたから。ただ、あの男は移し身を時折飛ばす術を使うので、気まぐれでユーシスのことを・・・反乱軍に加わったとか、そういうことを話に来ただけです」
「移し身」
「そこにいなくとも、あの男はこの場に姿を現し、わたしと会話をすることが出来る。そういう力すら持っているのです」
「すごいな」
素直に感嘆の声をあげるソニア。
そのまま黙り込むミザールから視線を外して、ソニアは何度か前髪をかきあげた。
それから、小さな溜息をついて
「ミザールが言うように、ラシュディは、あれでもこれでもないものかもしれない。だからといって、ミザールもまた、天使でも、堕天使でもない、何でもないものにならなくともいいだろう・・・」
「不思議なことを言うのですね」
「ラシュディにキャターズアイを渡せば、どうなるのか・・・それを知らずに渡したのか。そんなわけはないよな。その、キャターズアイとかいう魔力を持った石を欲する人間がどんな人間だろうが、それは人が持つべき力じゃないんだろうから、ラシュディが騙そうが騙すまいが、天使長であれば人間に渡すわけがない」
なのに、渡してしまった。
人間の噂は、あくまでも人間の道理で判断をしたものばかりが残るのだろうとソニアは思う。
とても簡単に「天使長ミザールがラシュディを愛してしまい、キャターズアイを渡してしまった」と、人々は噂をする。
愛していたから、愛した男が欲した物を、禁を破って渡してしまう。
それは、とても人間的で、愚かだけれどわかりやすい話だ。
けれども、一方で、そうであればそうであるほど納得が出来ないとソニアは思っていたし、ユーシスだって信じられないのではないかと思う。
ミザールから話を聞いたからといって、どうなるものでもない。それもわかっている。
けれど、ソニアは時間がない中でも、ミザールの真実を知りたいと欲した。
「天空の三騎士は、チャームの魔法にかかったと聞きました」
「うん」
「けれど、わたしは、そんなものにはかかっていません」
やはりそうか、と思いつつ、ソニアは唇を噛んでミザールを見た。
むしろ、チャームの魔法にかかったのであれば。そうであれば、どれほどにミザールの立場は楽なものだったのか。そう思えば、ミザールの唇から吐き出されるその物語は、いっそうつらいものになるのだと、そう予感したからだ。
「わたしは、何かに魅入られてしまったかのように、ありもしない妄想にかきたてられ、自らキャターズアイを天界から持ち出し・・・結果的には、あの男に渡してしまった」
「ありもしない?」
「天使が一人の人間に対して、恋情などを抱くことなど、ありません。それでは、わたしのあの感情は何だったのか。今でこそ、あの男がどういう存在なのかを知っていますが、当時のわたしは、あの男をただの人間だと思っていたのです」
話がおかしい、とソニアもランスロットも思う。
人間への恋情を抱くことなどないのに、ミザールは恋情を抱いた相手――ラシュディ――のことは「普通の人間」だと思っていたのだという。
「けれども・・・先ほども申し上げた通り、あのような感情を、天使長であるわたしが一人の人間に持つべきではないし、それは有り得ないこと。であれば、もしかしたらあの男は、人間でありながら何か特別な存在なのではないかと思い・・・そう思うことで、更にわたしの心は揺れ、早く、その正体を知りたいと狂おしく思いました。あの男に対してそこまでの感情を持ってしまったことが、わたしの一つ目の罪なのでしょう」
「・・・禍禍しさとか、なんていうんだ。嫌な、その、悪意とか、そういった匂いはしなかったのか、ラシュディに対して」
「感じなかったわけではありません。それでも、耐えられないほどに・・・わたしは、あの男の本当の姿を知りたかったのです。そして、キャターズアイをあの男に直接渡さずとも、わたしがその力を借りれば、それを暴けるのではないかと」
ミザールは毅然と言い放った。
彼女は、決して言い訳じみた言い回しはしないけれど、本当ならばこれが彼女の弁護になるはずの言葉達だ。
ミザールは、恋に落ちた愚かな女のように、ラシュディに言われたからキャターズアイを渡したわけではなかったのだ。
あくまでも彼女は天使で。
天使である自分が恋に落ちてしまったラシュディという男が、一体何者なのか危惧して。
たとえ、それに恋情ゆえの心のもろさがあったとしても、その正体を暴こうとして。
天の父に告げることは出来なかった。それにはきっと理由があるのだろう。
天使長である自分が、人間に恋をするなどあってはいけないこと。
だから、そうではないということを、ただの人間ではないということを知ってから、その話をしたかったのだろうか。
それも、わからなくもない、とソニアは思う。
天使長である責任感が、間違った方向へと彼女の人生を導いてしまったのかもしれない。
けれど、目の前にいる美しい天使は、決してその言い訳をせず、決して己の無実を懇願せず、あるがままの姿で立っている。
どこまでがラシュディの策略だったのかはわからないけれど、それに対してすら、ミザールはいっさい恨み言も何も口にしないではないか。
毅然としたその佇まいに心を打たれたように、ソニアは息を飲んだ。
が、だからといって同情をし、哀れみの視線でミザールを見ることは、あまりに申し訳ないことだと思う。だからこそ、自分もまた毅然とあるべきだと考え、ソニアは問い掛けた。
「けれど、みすみすキャターズアイを渡してしまった」
それ以上の言葉をミザールは止め、ソニア達から視線を外した。また、ソニアも追求を止め、考え込む風に膝をかかえる。
「あたしは、ミザールのことはあんまり知らないんだけどさ・・・ミザールが言うように、ラシュディが普通の人間ではなくて、でももちろん悪魔でもなく・・・なにやら、ヘンテコな存在だから・・・だから、ミザールが惹かれたわけではないと思うな・・・」
「ソニア」
「人間だって、育った環境が違ったり、物事の考え方や道理が違う相手が山ほどいて・・・それでも、その相手に惹かれることがあるし・・・あたしは、カノープスが大好きで、そりゃあ、兄貴みたいにしか見てないけど、じゃあ、ホークマンとかレイブンを恋愛対象にこの先絶対みないかって言われれば・・・そういうことだって、あるような気がするし、それに、あれだ。なんだっけ、ランスロット。ほら、ギルバルドとカノープスの」
唐突だな、と思いつつも、ランスロットは返事をした。
「・・・ユーリア殿のことか」
「そうそう。あんまり詳しく知らないけど、恋仲かなんかなんだろ?カノープスの妹さんと、ギルは」
「わたしも、あまり存じ上げないし・・・本人がいないところで、そういうことを言うのは何かと思うが」
「ギルは怒らないよ。その、なんだ。そんな風に、種族とか寿命が違ったって、惹かれるもんは惹かれるんだからさ・・・ミザールが言った、ラシュディが人間だとか人間じゃないとか、違う存在だとか・・・そういうのは、言い訳のように聞こえる」
ミザールは苦笑を見せた。
「わたしを、慰めるつもりですか?それとも、責めるつもりなのですか?」
「違う。そういうことじゃなくて」
うまく言葉に出来ないもどかしさに、ソニアは小さくうめき声をあげ、眉根を寄せた。
「感情っていうものは・・・理屈じゃないんだろう?あたしも、よくわからないんだけど・・・だって、天使の誰もが・・・天使長ともなった天使が、堕天使になるはずがないと思っていたんじゃないか?それは、きっと、さっきのミザールのように、みんな自信を持って答えると思えるんだけどね・・・だけど、実際はどうだ」
実際はどうだ。恋に落ちるはずのない天使が、こうやって恋に落ちて、それによって過ちを犯してしまったではないか。
ミザールは険しい表情を見せ、瞳を細めてソニアを見る。
暖炉の中で、ぱちん、と大きな音をたてて火がはぜた。
「そうね」
ぽつり、と呟き。
「天使は、人間に対して恋情を抱かない」
まるで誰かに言い聞かせるような口調で、軽くあごをあげて上を見ながらミザールは言った。
「今思えば、それは、事実だとか規則だとか、そういうものではなくて・・・逆なのかもしれない」
ミザールは、まるで瞬きを忘れたように、硬質の材質が貼ってある天井をじっと見ている。何故そんなところを見ているのか、ソニアもランスロットもわからなかったけれど、上を見上げているミザールの首はあまりにも白く、美しいラインを描いている、と二人共同じことを思っていた。
「天使が、人間に対して恋情を抱くことは、禁忌なのかもしれない。けれど、禁忌というものがあれば、誰かは意識的に禁を破るもの。だから、禁忌を禁忌とせずに、ただ、存在しないものとして定めたのかもしれません」
誰が。
天の父が。
ミザールは瞳を閉じた。
と、たちまちその両眼から静かに涙が流れ出て、なめらかな頬を伝ってゆく。
それまで、畳まれていたミザールの背の翼は、ゆっくりと開かれる。現れた純白の大きな翼は、紛れもなく天使のそれであり、堕天使のものではない。
「ああ・・・」
溜息にも似た声が、ミザールから発された。


ばさり、と開いた自分の翼にひっぱられるような感職が背に伝わる。それはあまりにも久しぶりで、そう思うことが余計にミザールの胸を締め付けられるように感じた。

(こんな時になってようやく、心から思えるなんて。天に戻りたいと)

けれど、それは、許しを乞うためでも、自分の罪に対して償いをするためでもない。
ただ、知りたいと思っただけだ。
自分が堕ちてしまったきっかけをつくった、ラシュディへの恋情。
それは、「天使は一人の特定の人間を愛さない」はずの自分を襲った、それまで知ることがなかった、存在してはいけないはずの感情だ。
そう思ってきたけれど、もしかしたら。
それは、本当は、当たり前にあるもので、それがゆえに、「あるはずがない」ものとして仕立て上げられたのかもしれない。
たまたま、陥ってしまったのが自分だっただけで。そして、自分がたまたま天使長だっただけで。

(それならば、どれほどにこの恋は、低い確率で、そして、わたしにとって幸せなことだったのか)

胸の中にその思いが満ちてきて、感極まったように涙が溢れる。
もしも、自分がラシュディに恋に落ちなければ、きっとあの男は天空の三騎士と同じく、チャームの魔法を行使したに違いない。
その魔法にかかるかどうかはわからない。けれども、チャームの魔法に身も心も蝕まれたとしたら、何の意志もなくラシュディの思いのままの木偶になるだけで、それ以上の存在に自分はなれなかったに違いない。

(父よ。天の父よ。愚かなわたしではあるけれど、今までの生で知ることが出来なかった真実を、最後に知ることが出来たように思えるのです)

ミザールは泣きながら瞳を開けた。
その視線は強く天井を――いや、その天井を越えた、天を――見据える。
チャームの魔法ではなく、自分の意志で、あの男に恋に落ちてしまった。それはとても愚かで、責められても仕方がないことだとは思う。
けれど、もしも。
天使でも、人間に恋に落ちるのだと知っていれば。
そうすれば、あの自分の過ちは起こらなかったのではないかと感じてしまう。
あの禍禍しい男に、どんな過去があり、どんな野望があり、どんな力があろうと、もとはただの人間であり、その人間に恋に落ちただけだと思っていれば。
それならば、自分はキャターズアイの力を借りて、あの男の正体を暴こうなどと思わなかっただろうし、その挙句にキャターズアイをあの男の手に渡すこともなかったのではないか。
いや。
そうだとしたら、その時に、あの男はチャームの魔法を使って――。
堂々巡りのその思いに、終止符を打つように、ミザールは拳を握り締めた。

本当は、天に戻って天の父に問いただし、隠されていた天使の真実を妹達に告げたい。
けれど、それをしては、どこかに弊害が生まれることを天の父は知っているのに違いない。だからこそ、封じているのだろう。
苛まされる板ばさみの思いに、ミザールは心を震わせた。
ああ、願わくば。
誰か、わたしのほかに、人間に恋をしてしまう天使が現れたら。
天使の約束事に縛られず、その恋情をまっとうできますように。
己を疑わず、苦しまず、素直に受け入れることができますように。
そして、その相手が、心正しい人間でありますように。

ミザールは自ら知らずに握り締めた拳を開いた。そして、両腕を体の脇に開き、手のひらを上に向けた。
自分の全てを空に向けて、強く祈って、この地上にいても天の父に届きますように。
顔を上に向け、腕を開き、翼を開き、胸を開き。
もはや、戻ることはないと覚悟を決めた空へ、思いが届きますように。
この身は、戻らなくとも。
ミザールは、自分の体を構成している細胞の全てを天に向けてさらけ出すように、空へ空へと、ただそれだけを祈り続けた。
その、凝縮された思いは、自分の傍に二人の人間がいることも、奥の間にフィボルグを待たせたままでいることも、何もかもを無視して、ただただ彼女を祈りに集中させる。

(不謹慎と言われようと、この恋情は、わたしが、天使であったからこそ得られたもの)

両頬を伝う涙は、彼女の尖った顎にたどり着き、ぽたり、ぽたりと床へと散っていく。
自分の体から排出されたそれが、予想以上の熱さを持っていることにミザールはいささか驚き、どれほどに自分の体は人間と近いのだろうかと一瞬思い馳せた。

(もはや、何故自分があの男に堕ちたのか、何故あの存在に囚われてしまったのか、そんなことを考える必要もないほどに・・・あまりにも浅はかな恋情ではあれど、それを肯定出来るということは、なんという幸せか)

ソニアは、救いを求めてここに来た。
けれど、本当に救われているのは、自分ではないかとミザールには思えた。


目の前のミザールが何を思っているのか。それをソニアもランスロットも、どれだけ自分が理解できているのか知ることは出来ない。
ただ、漠然と、天使が空に祈っているのではないかと、それだけはうっすらと感じ取っていた。
「ランスロット。あれの、何が、堕天使だ」
ソニアは、問いかけとは言えない問いかけを口にした。けれども、それは別段ランスロットにどうしても答えて欲しい問いというわけではない。
「美しい翼だ。堕天使は、翼が黒く変色し、貧相なものになると聞いたことがあるが・・・」
「ミザールは堕天使じゃない。だって、あんなに綺麗じゃないか。綺麗過ぎて」
「・・・ソニア」
「泣けてくる」
そう言って、ソニアは唇を噛み締めた。
一体ミザールが何を今考えているのかは二人にはわからない。けれども、その様子を見てランスロットもまた感じるところがあったらしく、小さな溜息を漏らした。
「なんという美しさだ。天使が、空に祈っている。こんな祈りの姿は、見たことがない」
ランスロットの感嘆の声は、なかなか普段聞くことが出来ない声音だ。
そうさせてしまうほどに、目の前にいるミザールは、見たことがない美しい存在であり、神々しさを彼らに嫌というほどみせつけている。
「未だ、あのようにまっすぐな心で天に祈ることが出来るというのに、堕天使であるわけがない。間違いなくミザールは天使だ。そうであることを、天の父とやらも知っているだろうに。ミザールが戻ることを待っているだろうに」
もう一度、ミザールに投降を呼びかけよう、とソニアは思った。だが、ほぼ同時に「それでも、多分応じないのだろう」という気持ちが心の奥底にまとわりついて、一時も離れないことにも気付いていた。
と、その時、ミザールが翼を閉じた。
彼女はゆっくりと静かにあごをひき、腕を落とし、その場に立ち尽くす。
終わったのだ。彼女の、最後の祈りが。


それから、更に少しばかり時間が過ぎた頃――それは、いくらなんでも遅すぎる、と、ギルバルドがいささか焦りを感じ始めた頃でもあった――ミザールとの会見を終えた二人は部屋から出て行った。
確かに二人は通路に出たのだが、正確に言うと「ソニアを抱きかかえたランスロットが部屋から出た」という状況だ。
ミザールとの会談が終わる寸前から、ソニアは腹痛を訴えて姿勢を保てなくなっていた。あまり無理をさせるわけにもいかず、ソニアは最初嫌がっていたが、しょうがなくランスロットが彼女を抱きかかえたというわけだ。
通路全体を覆っている寒気が彼らを身震いさせ、また、どれほど暖炉で体を温めていたのかということを実感させる。
ランスロットはソニアを腕に抱きかかえ、武器を持つことが出来ない、不安が大きい状態だ。
部屋のすぐ外に誰か味方がいないだろうかと期待していたが、彼らの期待は裏切られた。
「すまない・・・ランスロット・・・」
ランスロットの腕の中で、眉根をしかめてソニアがうめき声をあげる。
「いい。腹痛には、体を折っている方が楽だろう?」
「うん。間違いない・・・」
ソニアは、ランスロットの腕の中で瞳を閉じた。それを見て、ランスロットは「なんという信頼か」と、ふと息苦しさを感じた。それは、喜ばしいことなのに、胸の奥が痛むように思える。
ソニアは、きっとどれほどに体調が悪くとも、心を許していない人間の腕の中で瞳を閉じることはないだろう。たとえ、偏頭痛に苛まされようと、目を開けていることがつらくとも。それを、ランスロットは知っている。たとえ、反乱軍の陣地で眠っていても、ソニアは誰かが近付けば即座に起きてしまうような、警戒心の強い獣と同じだ。
「行こう・・・ギルバルドを探さないと」
何かを言葉にしなければいけないような気持ちになり、ランスロットはソニアにそう言った。力なくソニアは返事をし、目を開けてランスロットを見上げた。
ランスロットは兜の面を下ろしているから、顔は見えない。それでも、ソニアは目を開けてランスロットを見るのだ。
そして、ソニアはランスロットの冷たい鎧の胸当てに、ことりと頭を当て、静かにまた瞳を閉じた。
武器を持てないこの状態で、敵兵に会う前に味方に会いたいものだ・・・そうランスロットは願いながら、歩き出した。
するとありがたいことに、ちょうどその時、前方の通路の角からギルバルドらしき姿がランスロットの視界に入った。
「ソニア!」
ギルバルドは、ランスロットがソニアを抱えていることに気付いて、血相を変えて駆け寄る。先の角までは結構な距離があるように見えたのだが、ギルバルドは珍しく全速力で走ってきたようだ。
「腹痛がひどいらしくてな」
と小声でランスロットが告げるまで、「どうした」とも「大丈夫か」とも言えないほど、ギルバルドは動揺していた。「そ、そうか」と返事をするギルバルドの様子は、慌てた自分を少しばかり恥じているようにもランスロットには見えた。
「すまない、ギルバルド・・・すぐ、出てくれるか・・・」
うめきながらもソニアは無理矢理笑顔を作った。その間にも、通路の角から、味方が何人も現れて近付いてくる。
ギルバルドの後ろに既にトリスタンがやってきていることに気付いて、ソニアは軽く手をあげて、トリスタンへと告げた。
「ミザールとの会見は終わりました。ミザールに投降の意志はない・・・後は、任せます。あたしは今から砦に戻って・・・シャングリラ行きの準備をすぐにします」
その言葉を聞いて、トリスタンは内心安堵の溜息をついた。
ミザールとの会見によって、何かソニアが考えて、シャングリラ行きを辞めたりとか究極の選択として反乱軍そのものを離脱するかも・・・その可能性はゼロではなかったからだ。が、今のソニアの言葉を聞けば、少なくともこのまま予定通りシャングリラに向かうことだけはわかる。ならば、このままソニアは今まで通り反乱軍を率いてくれるのだろう・・・そう解釈したからだ。
「うん、わかった。最善を尽くすよ・・・ユーシス殿、よろしいですか」
トリスタンから名を呼ばれたユーシスは、彼をちらりとも見ずに、ソニアの顔を覗き込んで、早口でまくし立てた。
「・・・ソニア、姉は、姉は、何か・・・何か、言っていましたか。わたしには、きっと告げないであろう、何か・・・真実を・・・」
「もし、ユーシスに告げないことなら」
ランスロットの腕の中で腹を抑え体を丸め、少しばかり苦しそうな顔をするソニア。ふー、と長く息を吐き出してから、ユーシスを見る。
「あたしが告げて良いことなのか・・・それは、判断が出来ない。ユーシスに対してミザールが何か伝えたいことが別にあるのかもしれないし。それを判断するのは・・・終わってからのことだと思う」
終わってからのこと。
ユーシスは眉根を潜めた。
それは、「ミザールを倒してからのこと」であり、つまりはミザールが死んでから、ということなのだろう。
ソニアが言わんとしていることを間違いなく感じ取り、ユーシスは落胆の表情を見せた。けれど、それに対して返す言葉はユーシスにはない。
「・・・そうですね。仕様のないことを言ってしまいました・・・申し訳ありません」
「ユーシス」
「はい」
「ミザールの覚悟は、とても強い。十分にわかっているつもりかもしれないが、ユーシスもそれは、心しておけ」
「・・・わかりました」
一瞬息を飲んで、それからユーシスはわずかに震える声で答えた。そして、自分の決心が鈍るのが怖くなったように、すぐさまその震える声でトリスタンを促した。
「トリスタン皇子、参りましょう」
唇を引き結び、トリスタンはユーシスを真正面から見た。一拍おいて、それから力強く頷き返す。
「じゃあ、ランスロット、ギルバルド、ソニア殿と・・・シャングリラに行く兵士達を頼むよ。僕達は僕達で、地上でしなければいけないことをするから、君たちも」
そのトリスタンの言葉に対して、ランスロットが
「かしこまりました」
と頭を下げれば、ギルバルドは
「ご武運を」
と言葉を添える。
ランスロットはソニアを抱いたまま、最後にトリスタン達に一礼をしてから門に向かって歩き出した。その後ろにはもちろんギルバルドがぴったりとついている。
「まずはここから出て、一度近くの村ででも休ませて貰った方が良いだろう。城内はどこかに残兵が隠れているやもしれぬし」
そうランスロットがギルバルドに言うと、腕の中のソニアは弱弱しい声で反対をした。
「駄目だ。一気に戻ってくれ。そんな時間は勿体無い」
「ソニア殿」
「砦に戻ってからでも休憩は出来る。もはや砦に向かう途中に敵兵に襲われることもないだろう。だから・・・」
ランスロットとギルバルドは、少しばかり歩みを遅くして、お互いの顔を見合わせた。無謀な言葉ではあるが、ソニアがいいたいことはわかる。
いつもならばソニアの体を気遣って、あれもこれも駄目だと言い出しそうな二人ではあるが、これについては少しばかり無理をさせた方が良いと思ったらしく、男二人はお互い目配せをして納得をした。
「ソニア、あまり無理をしすぎるな。何かあったら、必ずランスロットにすぐに言えよ。俺はコカトリスをなだめて飛ばすことに専念するからな。それには、後から俺を怒らせるようなことをしないと約束をしてくれないと、俺も気が散って困る」
「うん。ありがとう、ギル。約束する。無茶はしないから、すぐに砦に向かってくれ」
「うむ、承知したぞ」
そう言うと、ギルバルドはランスロットを追い越して、足早に先に進んでいった。コカトリスの出発準備をするつもりなのだろう。
ランスロットもまた、腕の中にいるソニアの様子を伺いながら、少しだけ歩調をあげて、それを追った。


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