空に還る-12-

何をミザールと話したのか、とか。どうだった、とか。
そういった問いかけは、一切ギルバルドからはなかった。
体調が優れない今、それを非常にありがたいと感じつつも、ソニアはバルハラ城から出てコカトリスに乗る前に――乗ってからでは大声で会話をしなければいけなくなり、それは今のソニアには難しいからだ――自分から一つだけギルバルドに告げた。
「ギルバルド」
「なんだ?」
「ミザールは、堕天使ではなかったよ」
腹痛をこらえて青ざめているソニアは、強張った表情でギルバルドを見上げた。
「は?」
そのソニアが言わんとしていることが、ギルバルドにはよくわからない。
肌を突き刺すような外気に晒されながら、ギルバルドはぽかんとソニアの顔を見るだけだ。
「ミザールを堕天使だと言っているのは、人間共と、事情を知らされていない天使だけなのだと思う」
「よくわからんが・・・そうなのか?」
ギルバルドの問いかけは、ランスロットに向けられたものだ。それへ、どう説明すれば良いものか、と困惑顔のランスロットは軽く頷くだけだ。
こんな時間が急いている時に、何故そんなことを、とギルバルドはソニアを見つめる。続く言葉があるのだとわかっているからだ。
「ミザール自身が、理不尽な処遇を受けているとわかって・・・それが、世の中なのかと思って、愕然とした。あたしは、あまり天界のこととか、そのう、自分が住まう場所ではない、なんだかよくわからない場所のことは・・・どうでも良いと思っていたけれど」
「ああ」
「シャングリラに、行かなくてはいけない。たとえ、ミザールがここで死んだとしても」
きっぱりと告げられた言葉。
それは、反乱軍がどうの、とか、帝国軍がどうの、とか、そういう理由ではないということがギルバルドに伝わる。
腹痛に顔を歪めながら、ソニアは腹を抑えて、一度前かがみになる。それから、ほんの5秒もしないうちに、また体を起こしてギルバルドを見た。
「そうか」
ソニアの言葉を受けて、コカトリスの手綱を握ったままギルバルドはぼそりと呟いた。
「ソニアが、ソニアとして、それを選んだならば、それが1番良いことだ」
「反乱軍リーダーという立場を利用していると思われるかもしれないけど」
「とりあえず、シャングリラまでは、反乱軍リーダーとして戦う心積もりが出来たということだな」
「ああ。あたしは、どうやら」
「うむ」
「天使の最後の思いを、天のなんとやらとか、その道理がわかる誰かに、伝えなければいけないようだから」
「そうか」
そのやり取りを聞いて、ランスロットは「さすがに、年の功だ」とギルバルドの合点の早さに感服した。
決してソニアは、ミザールと何を話して、自分が反乱軍リーダーになったいきさつにまつわる思惑がどうだとか、そんなことを口にはしない。皆が心配していた「ミザールと話し合ったらソニアは何をどうするつもりか」という点も、これっぽっちも明確にはしていない。
ただわかるのは、また、この小さな少女は何かを背負って。
その荷を余計なものとして放り投げることもせず、一つ一つ、それらの行き着く先を探そうとしているのだろうということ。
ミザールという堕天使が、何かをまたソニアに背負わせたのか、ソニア自らそれを見咎めて背負おうとしたのか、それはギルバルドにはわからない。
わからないが、ソニアはシャングリラに行くと心に決めた。
そして、ギルバルドは、そんな彼女にとって、自分が何か役立てばいいと、それ以上の追求は今はしない。
それだけが彼らの間にある気持ちだ。それ以上は意味がないようにランスロットには見える。
とてもお互いの立場を尊重し、お互いの距離感が保たれているその二人の様子からかもし出されている空気。
ランスロットは、それを心地よく思う反面、わずかに焦れた。自分の所在なさを感じ、自分がソニアにとって「何者でもない」存在のような気が一瞬したからだ。
ギルバルドは、自分と違う、とランスロットは思う。
この熟練のビーストマスターは、確固たる地位をソニアの心の中で占めているのだ、と深く心に感じ入った。それは、まだ自分が手にいれていないものだと彼は直感したのだ。
(もしも、ゼノビアが復興したら)
何故か、ふと予感がした。
(ギルバルドは、ゼノビア宮には仕えないのかもしれない)
漠然としたものだが、不思議と「何故そう思ったのか」を彼は自分の心に追求をする気にはなれなかった。
彼は、自分の物思いから脱出するため、場の空気を少し変える言葉を口にした。
「ソニア殿、コカトリスに乗れるだろうか?」
「ああ、大丈夫」
先ほどまで、自分の腕の中でぐったりとしていた少女は、無理に笑顔を見せた。
「無理な時は、無理と言う。信じてくれ」
「ああ、頼んだぞ」
「ギルバルド、行こう」
「ああ。じゃあ、ランスロット、くれぐれもソニアを良く見ておいてくれよ。俺は、さすがにそこまでは面倒は見られないからな」
「承知している。そのために、ここにいるのだし」
「確かに」
ランスロットは苦笑いをした。それを見て、ギルバルドも肩を竦めて見せる。
びゅう、と寒風が吹き、三人は一瞬体を丸めて強張らせた。


寒空に飛び上がったコカトリスは、ひたすらに飛び続けた。
あまり得意ではない寒冷地での飛行にコカトリスはかなり機嫌は悪い、とギルバルドは言っていたが、乗っているソニア達にそれをわからせない。それは、ギルバルドの手腕以外の何者でもない。彼は優れたビーストマスターだ、と再びソニアは思う。
バルハラに向かった時には風が剥き出しの顔に突き刺さり、それがあまりにも痛かったため、さすがに帰りは考えた。
ソニアは鼻から下を布でぐるぐると覆って、布の端を後頭部で結んでいる。布だけでは、吐いた息がすぐさま凍ってしまい、逆にいっそう寒くしてしまうため、布と布の間には薄くなめした革をはさんでいる。
自分の呼吸で湿った布は不快だが、耳まで覆うことで温かさは増している。
結び目が緩むことを恐れて顔をあまり動かさなくなるためいささか視界は狭くなるのだが、コカトリスの操縦はギルバルドに任せたし、周囲をうかがうことはランスロットに任せているから大丈夫だろうとソニアは判断した。
ソニアは、痛む腹を片手で抑えながらも、先ほどまでバルハラ城でミザールと話していたことをあれこれと思い出す。
多くのことを聞いたと思う。けれど、ソニアが聞きたかったことや、ソニアが明らかにすべきこと、すべてのことが集約した、手痛い言葉が1番役立った、とも思う。
それは、「被害者ぶるのをやめろ」という、いささか無情にも思える言葉だ。実際、それを言われた時、ソニアは少しばかりかっとなったし、ミザールに食って掛かりたくもなった。けれど、今思い返せば、それはとてもありがたい言葉だったのだと思える。
確かに、自分には多少そういうきらいがあるとソニア自身も感じていた。
とはいえ、それを皆に言えば、人々は多分「そうなっても仕方がない」と、そのことを受容してくれるのではないかと思う。
それは、とてもありがたい。ありがたいが、本当はそれではいけないのだろう。
もう少しだけ、自分に時間をあげよう、とソニアは思う。そう思い続けてここまで来たが、未だ道のりは遠く、自分にまだ時間は残されていると思える。
それに、今だからこそ、いざというときに反乱軍をトリスタンに委ねることだって出来るのだろうし。
反乱軍リーダーとして、選ばれた勇者として、人々に敬われ続けることは、正直気が重い。何をミザールに言われようが、それは簡単に変わるものでもない。
けれども、ギルバルドに告げたように、今の段階ではまだ反乱軍リーダーでいる道を選んだ。それは、その立場でなければ出来ないことをソニアがやろうと決めたからだ。
天の父とやらは、どこまでミザールの想いを知っているのか。それは、誰も知ることはない。
天使達が知るはずもない。
下界の人間が知るはずもない。
天空の三騎士だろうが、悪魔だろうが、なんだろうが、それは知ることではない。
けれど、もしかしたらソニアなら知ることが出来るかもしれない。
反乱軍の目的を見失うつもりはないけれど、未だ、ソニア達の旅に天界は付いて回るものらしい。
その繋がりがある以上、いつかそのチャンスが来るかもしれない。
死した人間の魂はどこに行くのか。
天に上るのか。
死した天使の魂はどこに行くのか。
やはり、天に上るというのか。
では、堕天使はどうなるのか。
天に背いた堕天使の魂は、天に上ることはないのだとミザールは言う。では、魔界へ、ガルフのような悪魔達がいるところへと落ちるというのか。
そうであれば、ミザールの魂は死しても、天に上ることはないのか。
「あたしが、この空の上へ、持っていくぞ、ミザール」
体全体に冷たい風をうけながら、ソニアはあごを軽くあげて更に上の空を見た。
どんよりと永久凍土を覆っている雲達は深く、ここだけがまるで蓋をされたかのような、陰鬱な光景だ。
いつも見ている青空は、素直に「綺麗だ」と思えるが、この息苦しい空に対しては、溜息をつく以外何も言葉は出ない。
もし、この地が毎日、雲が晴れた青く広い美しい空を見せたならば。
きっとミザールは帰りたくて帰りたくてしょうがなくなったのではないかと思う。
だからこそ、この地に彼女がいて、最後の場所に選んだことは、哀しいけれども納得が出来た。
ミザールはラシュディによりこの地に縛り付けられていたのではない。この地でなければ、もはやミザールは、堕天使としての立場すら貫けなかったのかもしれないではないか。
いや。
もしかして、そこまでラシュディはミザールのことを思って、ここに。
それは、誰も答えをくれない思い付きだ。
ラシュディがミザールのことをどう思っていたのかは、誰一人として今の時点では知ることが出来ないのだし。

――ざまあみろ――

――天使の道理を振りかざして、あたしの家族も、村人も、仲間も、誰も助けてくれなかった報いだ――

そう言って嘲笑うことが出来れば、どれほどソニアの気も楽になったことか。
(あたしは、どうも、そういうことは向いていないようだな)
ソニアは、顔を覆う布の下で、自嘲気味に歪んだ笑いを作る。
責めようと思っていた。くそったれ、と怒りに任せて物に当り散らしたあの日のように、もっともっとミザールに噛み付こうと思っていた。
けれど、悲しいかな、自分は反乱軍リーダーとして、少しばかり分別がつくようになってしまったようだ。
ウォーレンはきっと「良いことだ」と言うかもしれない。とはいえ、そのことでソニア自身は何かを鬱屈と溜め込みやすくなったのだが。


やがて死にゆくだろうミザールは、ソニアに一つ願い事をした。
ミザール自身は必要としていになかったこの会談を受容したのだから、一つくらいは願いを聞いてくれても良いのでは?という取引のように持ち掛けてきた願い事。
「わたしが抱えてしまった、人間の男に対する恋情という矛盾は、天使達には想像もつかないことだと思えます。そして、人間達からも理解されないことでしょう。魔界のものであれば、もってのほか」
「・・・ミザールが抱えた、矛盾」
「ユーシスには、このことは決して告げません。だから、あなたからも言わないでください。そして」
そうは言われたけれど、そもそもソニア自身、ユーシスに言いたいとはまったく思えなかった。
多分、ユーシスに告げてもユーシスはミザールの気持ちはわからないだろうし、いたずらに新天使長である彼女の心を揺らすことは、ミザールにとって本意ではないんじゃないかとソニアは思っていたからだ。
「そして?」
「出来うることならば、天空に上ることを許可された、選ばれしあなたに」
まっすぐにソニアを見つめるミザール。真っ向から強い視線を受けて、ソニアはわずかに目を細めた。
「・・・それ以上は、いい。重すぎる。言葉にしないでくれ。あたしが、持っていくよ、どこまで行けるかわからないけど、可能な限り」
切れ切れの言葉。
それは、力強い約束が出来ない、あまりにも保障がない話だった。
ミザールが陥ったこの遣る瀬無い状況の真実を、誰に問えば良いのかソニアにはわからない。わからないけれど、誰かにいつかミザールの想いを届けなければいけないとソニアは感じた。
本当のところ、ソニアには何の責任もない。
ただ律儀に、ミザールが申し出たように、これは取引なのだ、とソニアは自分に言い聞かせる。
「ソニア」
「ああ」
「本当にあなたは、選ばれた勇者としての素質を持ちすぎていて」
「・・・」
「息をすることすら、苦しくなることもあるでしょう」
その言葉にソニアははっとなった。
それが比喩であることはわかってはいるが、間違いないと思う。
「悩めること。探求すること。多くの事柄を一人の背に負うこと。力を正しく導こうとすること。それらのことは、勇者としてはとても大切な素質であり、反面、生きるためには困難を付加する素質でもあります」
「まったく・・・まったくだ」
「わたしは、あなたにまた一つ、荷を負わせたかもしれません。もしかして、会わなければ良かった、と後悔している?」
その言葉にソニアは静かに首を横にふる。
「その荷とやらは、あたしが下界のものだからこそ背負えるものだ」
「・・・確かにそうだわ」
「天のものには、背負えない。だから、あたしが、ミザールのためにそれを持っていく。ミザールは堕天使なんかじゃあない。だから、ミザールはそれを背負い続けることは出来ないだろう。天使だから」
「多くの矛盾を孕むことを、大層正しく言葉にする」
ソニアとミザールの問答を静かに聞いていたランスロットは、その場に自分の声を響かせることすら恐れるように、気を使った声音で話に加わった。
「天使であるからこそ、それを認めて、天の父に追求することをあなたは出来ない。かといって、堕天使という立場を甘受して身を置けば、それは堕天使の戯言として処理されてしまう。だから、あなたはどちらでもない存在であり続けるしかないと言われるか。わたしには、死という容易な選択をして、あなたが逃げようとしているようにしか見えない」
「聖騎士よ。哀しいことに、わたしは、どこまで行っても天使であり、天の道理に縛られて生きる者。そして、一度は天使長ともなった存在。それがどうして、こうして堕ちた挙句、天の父が定める天使の理を覆そうと出来るでしょうか。天使は、人間に対して恋情を抱くことはない。それは、真実なのです。真実でなければいけないのです。わたしがこうやって生き続けることは、天にとっては禁忌を破ったもの、禁忌の裏に隠された真実を知るものを野放しにすること。ラシュディへの恋情が消える日が来るとは、わたしには到底思えません・・・なぜならば」
ミザールは、広い室内の中心へと静かに歩いた。その姿をソニアとランスロットは目で追う。
カノジョがわざわざ移動をしたのは、会談も終わりに近付き、決してまみえない同士だという一線を引きたいという心の表れかもしれない。そうランスロットは思い、小さく息を吐いた。
そのとき、ミザールは足をぴたりと止めて、二人を振り返る。
「こんな、今のような状況ですら、わたしは、あの男を待ちわびているのだから」
振り向いたミザールは笑みをたたえ、まっすぐにソニアをみつめていた。
その笑みは、自嘲を含んだものでも、自虐の笑みでもないと、ソニアもランスロットも思う。
むしろ、その笑みは誇らしげにすら感じる。
「天使として存在」している間には知ることが出来なかった、下界の人間達だけが持つはずの恋情。それを知ることが出来、そして、そうとは決して言わないけれど、きっとそれはミザールにとっては価値のあるものだったのに違いない。
そのミザールの笑みは、至福の笑みだ。
痛ましいことにその至福は、ラシュディの描いた図の通りに死ぬことでもあり、そしてまた、天の父にこれ以上の疑いをかけず、その命を捨てることにもあるのだとミザールは言う。
そんなことは馬鹿げている。そう何度かソニアは言うが、目の前に静かに立っているミザールは、もはや何者にも動かされない、思いを貫き通す覚悟をしているようだった。
覚悟を決めた者の姿は、何か余計なものが削ぎ落とされて見える、とソニアは思った。
目を細めても、それが何なのか見えるわけはない。けれど、ミザールに付随して彼女を形成していた何かが、彼女の覚悟が深まる度にその体から削ぎ落とされて、澄んだ空気のように美しさを増していく、とソニアは感じる。
そこにいるミザールは、ソニアとランスロットが室内に現れた時の彼女ではない。
命を落とす覚悟は、本来どこかしら陰鬱な要素を含むもののはずだ。何かを貫きとおすため、自分の真理を守るための死であっても、その身に降りてくる死相というものは、見るものの眉を潜めさせるものだ。
「だというのに、この美しさはどうだ・・・」
ソニアは、ぽつりと呟く。
そのあまりの美しさと、あまりの心の静かさに、ソニアはそれ以上問答を続けることが出来ない。
この世界に生きることで揺れるはずの感情とか、欲望とか。
そういったものが、既にミザールから消えかかっている、とソニアは感じた。
その「感じ」は、昔の自分だったら、決して感じることがなかったものだということを、ソニアは気付いていないのだろうが。
「これほどの覚悟の前では、死にゆく運命をあたしが止めることは出来ない」
告げたその言葉は、ランスロットに放ったものだ。
ランスロットは、どうだ。出来るか。
言外の声に促され、ランスロットは「いや」と小さく答える。
「いかな形であれ、死すことで解決をするなど、わたしは認めたくはない。生きて罪を償うなり、天の父を苦しめようと、知ったその想いを打ち明ければ良いと思う。けれど」
まっすぐにミザールをみつめて、ランスロットは続けた。
「ここで我々が、何刻、何日と説得しようが、きっと、それは何ひとつ心を変えるためのきっかけにならないのだとは、感じる。そうだな・・・わたしが、口にして良いことかはわからぬが・・・ラシュディが、ミザールの心を変えるか、天の父という存在が、ミザールの心を変えるか、そのどちらかがない限りは」
それには、ミザールは微笑みを向けるだけで、何も言葉を返さない。ランスロットもまた、それ以上の言葉は持たない。
ソニアは、ミザールに背を向けて暖炉に両手をかざした。
それは、そろそろこの部屋を去る、という合図だった。


どれほど飛んだ頃だったか。
もはや、後ろを振り向いてもバルハラ城がどの位置にあるのかすら、まったく判断がつかなくなった頃。
「・・・ソニア!」
ランスロットが声を荒げた。
びゅうびゅうと吹きすさぶ冷たい風の音とコカトリスのはばたきの音に紛れて、その声はかなり遠くから聞こえるようにソニアには思えた。
「光が!」
ソニアは、ランスロットが後ろを振り返って指差す姿を確認した。そして、慌てて振り返る。
「・・・あれは・・・なんだ・・・?」
目を凝らさなければ確認が出来ないほど、あまりに遠くで。
白い光が天に向かって何本も伸びている。そして、その中に、更にきらきらと何か無数のものが輝いている、見たことのない光景がそこにはあった。
この永久凍土の空を飛んでいるソニア達には、自分の周りの空気は全て「白い」ような気がしていたのだけれど、そうではないのだと認識させるような「白い光」達。ランスロットはソニアに叫んだ。
「天使達の、バニッシュの魔法の光に似ている!」
「でも。バニッシュではない!」
「そのようだ」
ならば、それは。
未だ自分達は見たことはないけれど、高位の天使だけが行使できるという神聖魔法ジハドの光ではないのか、と思う。
こんなに、遠くに離れてそれが見えるわけがない。
そう思ってはいるけれど、不思議とソニアは「あれば、ミザールのジハドだ」と確信した。そして、それは、多分彼女が唱えた最後の魔法ではないかと。
「光っているのは!」
ギルバルドは後ろをほんのわずか、ちらりと振り返っただけだった。けれど、彼はその一瞬で、何が起きているのかを察知したようだ。
「多分、雪の、結晶達だ!雪の結晶は太陽の光を浴びれば輝くが、ここには、太陽はない。風を切り裂いて空へ上昇してゆく魔法の光に照らされ、輝いているのだろう!」
その言葉を聞き、もう一度ソニアは瞳をこらした。
けれど、彼らがそのやりとりをしている間に、既にその美しい輝きも白い光も消えてしまっていた。
残るのは、薄暗く、何の変わり映えもしない永久凍土の空だけだ。
「トリスタン皇子達が、たいした怪我もなければ良いのだけれどね」
そうソニアは言うけれど、本当はそんなことを言いたいわけではない。ランスロットはそれをどう受け止めたかはわからないが、「まったくだ」とだけ返事をした。
多分、もう、ミザールはこの世界に生きてはいないだろう、とソニアは思う。
最後の彼女の魔法は、この冷たい永久凍土の空気を引き裂いて、空へ登っていった。あの光が還る場所は、この薄暗い空を切り裂いた更に上空。
彼女が放った光は空へ還ることが出来たかもしれないが、その魂も想いも、未だあるべき場所に還ることは出来ていないのだ。
ソニアは下唇を噛み締めた。


彼らはなんとか最速と思えるスピードで、ウィルクスランド砦に戻ることが出来た。
到着直後、冷え切った体を温めながら、ソニアは手早くシャングリラ行きの部隊長を集め、一刻半後にウィルクスランド砦を立つことを告げた。その時刻までには、トリスタン達がバルハラ城を落とした連絡が入るだろうと思えたからだ。
そうなると、かなり夜に近い時間になってしまうが、ウィルクスランドは永久凍土の入り口とも言える場所だけに、少し離れただけでも野営が可能な地域に入ることが出来る。一刻半後出発の伝令を出した直後に、すぐに斥候役達は野営地を確保して、出発が夜近くでも何も困らないように手配してくれていた。
また、シャングリラには行かず、トリスタン達の帰りを待つ残りの兵士達に対しても気を回し、あれこれと指示を出した。
ようやくそれらが一段落したのは、砦に戻ってきてから半刻になろうという頃で、ソニアはぐったりと暖炉の前でカウチに横たわって休むしか出来なかった。
もちろん、ぐったりしているのはソニアだけではなく、ランスロットもギルバルドも疲労に勝てず、出発まで仮眠で体を少しでも休めようとしていた。
ウォーレンがいてくれたよかった、とソニアは深く溜息をつく。
彼がいてくれなければ、ここで自分とランスロットの両方が休むことなぞ、きっと出来なかっただろうから。
それを思えば、出撃しないウォーレンにあれこれと言ったけれど、あの老人は正しかったということだろう。
「なんだ、もー・・・月のものって、こんなにずっとずっと腹が痛いものだったっけか?」
思い出そうとしても、なんだかソニアの記憶はもやがかかったように不明瞭だ。父親達とあちこちに仕事に行っていた頃のことを、記憶の引出しから簡単に引き出すことが出来ない。
体調がよくないためなのか、それとも、本当にこうやって過去のことを忘れていくものなのか、とソニアは心をちりちりと痛めつつ、それ以上過去を思い出そうとすることを止めた。
そうすると、やはり思い出すのは再びミザールのこと。
ミザールとの問答で、自分の心のあり方、今後の身の振り方をソニアは考えさせられた。
それは、今悶々と考え続けていても答えが出ないことだ。
とりあえず、シャングリラに行って、それからだ。そうソニアは自分に言い聞かせた。
コカトリスに乗っている間にも、何度も何度も「でも」だとか「そう思っても」だとか、繰り返し考え続けたけれど、何一つソニアの思いは前進せず、堂々巡りだったからだ。
(そういえば、ノルンが言っていたこととは、少し違ったかもしれないな)
ソニアはふとそんなことを思いついた。
ノルンは、ラシュディへの気持ちが叶わなくとも、ただ、彼の役に立てればよいとミザールが思っていたのでは、と言っていた。
今、こうして様様な真実がわかってから、ノルンが言っていたその感情について考えると、なんとそれは女性的で、一途な思いなのだろうかとソニアは感じる。
いや。
確かに、ミザールはラシュディの役に立とうと思ってキャターズアイを手にしたわけでも、ラシュディに渡したわけでもなかった。
では、何故、堕天使と呼ばれながらもまだ尚、ラシュディの庇護下にいたのだろうか。
それは、愛情だけなのだろうか?
いくら、天使としての契約があるからといえ、あんな寂しい土地に一人置き去りにされて、それを受けいれたのは何故か。
確かにあの地は、ミザールに空を思い出させずに済む場所で、下界で唯一彼女が生きられる場所だったのかもしれない。
それでも、多分それは後付けのことだ。
ラシュディに「ここに留まるように」と言われ、それを受容したミザールの心はどこにあったというのだろう。
それを考えれば、やはり彼女の想いは深く、叶わなくとも、傍にいたいと思っていたのだろうということがわかる。
あの室内で、まだ彼女は待ち続けているのだと言っていた。
たとえ、叶わないとわかっていても。
「・・・っ・・・」
それは、同じではないか。
ソニアは瞳を閉じて、腹を抑えた。それは、腹痛を耐えるためではない。
風邪で倒れる前に直視してしまった、ソニアへの感情を抑えられなかったゾックの瞳を思い出し、彼女はいたたまれない心持ちになった。
ゾックも、ミザールも、とても静かだとソニアは思う。そして、同じ何かを持っているのだと深く思った。
それは、何かしらの覚悟を決めた人間だけが持ちうるもので、目には見えないけれど感じられるものだ。あえて言葉にするならば、それは、彼らが身にまとう空気、としか表現が出来ないかもしれない。
「ラシュディの傍にいたかったからか」
その思いを貫こうとすれば、ミザールはラシュディの言うがまま永久凍土にいるしかなかったのだろうし、それがノルンの言うところの、唯一「彼の役に立つ」ことだったのかもしれない。
それが、ミザールの本心からのものだったのか、それとも最後まで「堕天使という立場」を貫くために彼女が演じたことだったのかは、ソニアにはわからないし、聞いてはいけないことだったのだろうと思える。
どちらにせよ、そんな愛の形など、ソニアは未だかつて見たことがない。けれども、もはや「よくわからない」とは言えない。
それに、とてもよく似た恋情を抱えた男が、自分を見ていたのだから。

――もしも、あなたが反乱軍リーダーでなくなった時に。わたしで、何か力になれるならば、迷わず呼んでください。いつでも、あなたのために出来る限りの力を尽くします――

そんな、静かに息を殺して待ち続けるような、恋情。
まったく攻撃的な言葉ではないのに、それはソニアの心を揺らし、否が応でも彼の強い意志を感じ取らせる。
と、その時、ノックの音が響いた。
遠慮のない、どことなく陽気なリズムに聞こえるそのノックの主は、スルストだった。
「ソ〜ニア〜。いらっしゃいマスカー?」
少し調子が外れた声で室外から声をかけられ、ソニアは苦笑をしながら返事をした。
「いますよ。どうぞ」
「失礼シマース!」
ガチャ、と扉を開けて、スルストは姿を現した。
彼がソニアにあてがわれた部屋に直接足を運ぶなぞ、なかなかに珍しいことだ。
ソニアは、カウチから少し体を起こしたけれど、その瞬間、体内から何かがどろりと出てくる感触に襲われ、しょうがなく再び体を斜めにした。体を起こそうと力を入れたり、入れた力をふっと抜いたり、そういう時に出血や、何かしらの排出が多くされる気がする。
それが全部出て終われば月のものの終わりと知っているが、少なくとも、誰かと話をしている間にそれが行われるのは不快だとソニアは思う。
「スルスト様」
「ちょっと、お話をしようと思うのデスガ、良いデスカー?」
「はい。ちょっと調子悪いんで、こんな恰好ですみません」
「イエイエ、シャングリラに行くのに、体調は整えないといけませんカラネ!楽にして下サーイ」
スルストはひとまずカウチに近寄って軽くソニアに一礼をした。それから、ソニアの予想外の言葉をさらっと口にした。
「ミザールサンは、お元気デシタカー?」
なんと阿呆な質問だ、とソニアはぽかんと口を開けた。
ミザールは元気かと?
この地を死に場所と選んだ者に対して、元気かと?
ある意味では、元気だった。確かに。しかし、スルストのその呑気な質問は、不謹慎にすら思える。
「スルスト様、いくらなんでもそれは・・・」
「天使長に、相応しい天使のままデシタカー?」
ソニアは言葉を止め、立って彼女を見下ろしているスルストを見上げた。
あまりにもせつない言葉だ、とソニアは唇を噛み締める。
「OH!そんな顔をしないでくだサーイ。仕様がないことなのデスヨ。ただワタシは」
ぺらぺらといつもの調子で喋りながら、スルストはカウチの傍に椅子をひっぱってきてどっかりと座った。
「本当の天使長は、今ですらミザールサンではないかと思ったのでネ。そのままのカノジョと、ソニアが会えたならば良かったと思ったんデスヨ」
「・・・確かに、あれは、ユーシスより余程天使長に相応しい天使でしたね」
ソニアは眉間にしわを寄せて答える。
何が「天使長に相応しい」のか、具体的にソニアは知らない。けれど、多分同じ問答をユーシスとすることになれば、ユーシスは悲しげな表情で「わたしも、よくはわからないのですが」と逃げ場を作りながらの答えばかりを紡ぎだすに違いない。
あのミザールの潔い、毅然とした、凛とした佇まい。
それは、なかなかのものだったのではないかとソニアは思う。
そういう意味ではフェンリルだって相当なものではあるが、人間くささを強く感じる分、ミザールとは一線を画す。
「・・・で?何の御用でいらしたんですか?」
「ああ、そうそう。ミザールサンのことではなくて」
「え」
「ランスロットサンから話を聞いて、ここに来たんデース!」
「ランスロットに?」
「ソニアの、体の案配がよろしくないと聞きマシタ。それで、もしもならば、一度ムスペルムのあの医師の元へ連れて行ったほうがいいんじゃないかとランスロットサンは言ってましたヨ。シャングリラに行く前に寄った方がいい状態なのか、ソニア自身に聞いてみようと思って、ここに来マシタ〜」
「ええええ??そんな、大した話じゃないのに」
まったく、ランスロットはそんなに大事にするつもりなのか・・・ソニアはそう思って顔をしかめた。
「大した話でショウ?こんな風に、カウチに今までソニアがぐったりしてるなんて、見たことないデース。しかも、最近、妙に痩せましたネ?」
「え?あ、はい。多少。でも、なんか・・・そのう、胸はでかくなったんですよね。なんかヘンテコな感じで」
「多少じゃありまセーン。みなさんはずっとソニアを見ているから気付かないかもしれませんが、ワタシは知っていますヨ!」
「え?え?」
「何故なら、ワタシは!」
スルストは大仰に両手を広げて見せた。
「眠りの周期に入ると、長い時間ソニアの姿を見ないでグーグー寝てますからネ!みなさんよりも、久しぶりにいつもソニアを見るのデース!」
「・・・あんま、威張れないですよ、それ」
「だから、尚のこと、ソニアの変化はわかるんデスヨ?それじゃなくとも、ご婦人のちょっとした変化は、ワタシの心を揺さぶるものですからネ!」
「はあ」
気のない返事をしたソニアは、窓枠がガタガタと音を立てていることに気付いた。
隙間風が入ってくると寒いため、窓という窓は二重になっているし、内側には厚手の布でカーテンも二重になっている。
おかげで室内は常にうす暗く――といっても、永久凍土の空自体が暗いし、今は夜に近い夕方なのだから尚更だが――外の様子がよくわからない。
「目覚めればすぐに、ソニアの顔を見たいデスシ」
「はあ、どうも」
「そうそう、言い忘れてマシタ。今日のソニアの服は、とてもキュートネ。そんな風なスカートっぽい服装も、とっても可愛いデスヨ〜。どういった心境の変化デスカ?誰か、好きな男でも出来たんデスカ?」
「そっ、そっ、そういうことじゃないですっ」
ソニアは、かあっと赤面した。
好きな男は以前からずっといる。
今はどちらかというと、逆にソニアを好いている男の存在を知ってしまった、という状態だ。
なんとなくそれを知っているのにあえて言わないのではないか、なんて多少スルストを疑い、用心深くソニアは言葉を選ぶ。
「違いますよ・・・男の人のこととは、全然関係ないです・・・多分・・・」
多分、は余計だ。
そうソニアは心の中で思うけれど、出てしまった言葉は取り返しがつかない。
どこかで、好きとか嫌いとか、そういう男女の間の事柄が発生したために、月のものが再発したのではないかという思いがソニアにはあった。それはあまりに単純すぎる話なので「まさかな」とも思うし、逆に、そうだとしたらあまりに恥ずかしいことのような気がする。
女の子の体が大人になる準備をし始めた頃、月のものは始まるのだとソニアは知っている。
であれば、止まっていたそれが再開したということは、何かしらの刺激が心や体にあったのではないかと思う。
その刺激が、ゾックのことだとしたら、なんと照れくさく、そして、あまりに自分は単純なのか。
そういう気持ちがいささかあったため、自信なく「多分」と付け加えてしまったのだ。
が、スルストの方はその言葉に特にひっかかりを感じたわけではなさそうだった。
「月のものに、煩わされているんです。それで、ちょっと服に気を使わなきゃいけなくて。だから、調子悪いってのも・・・久しぶりだからなのか、やたらしんどくて。実はずっと止まっていたので」
「OH!ナールホド!薬の副作用が終わったのデスネー?」
「・・・は??」
スルストは満面の笑みで言うが、ソニアにはその言葉の意味がまったくわからない。
「なに・・・薬?副作用?意味が、わからないんですけど」
「ムスペルムで、ソニアは右腕を傷めましたヨネ?その時、塗り薬を使ったデショウ」
「はい。あれだ。えと、ハイランドの国税くらいの、高価なものっていう」
「ソウソウ。アレの副作用デスヨ」
「え」
「人間の骨再生を促進する成分は、女性の場合は月のものを司る、女性特有の体内物質にあるんデスヨ」
「??よく、わからないんですけど」
「あの薬は、塗った患部に染み込んでデスネ。一時的に、その体内物質の成分をその場所に凝縮して届け、通常以上に促進させる役割を持つのデース」
更に、意味がわからない、とソニアは頭を抱える。
「月のものが始まると、女の子は胸が大きくなり、体に丸みを帯びますヨネ?」
「はあ、そう・・・なのかな?」
「それは、その体内物質による働きなのデスガ、ソニアの場合は薬を塗っていたので、その間、骨再生を促進するためだけに、その体内物質が働くようにと歪んだ命令がされていたわけデス」
余計に、意味がわからない。
意味がわからないうえに、腹が痛い。ソニアは「うう」とうめき声をあげて、腹部を抑えた。
「月のものを司るその成分は、いくつもの役割を持ってイマース。それを、単一の役割に絞り、その他の成分すらもそのひとつの役割を担うように変化させる薬なのデス。そして、どの種類の役割にするのかは・・・天界の医師が、薬に対して教え込むのデス。まあ、魔法みたいなモノですかネー」
よくわからないなりに、ソニアは必死に考えた。スルストはぺらぺらと、自分のペースで話を続ける。
「そして、あの薬はデスネ、長時間塗り続けると、塗らなくなった後もいくらかの期間影響が出るほどの強いものデース。そうじゃなきゃ、ソニアの右腕はあんな短期間で治るものではアリマセーン。デスガ、その影響から、副作用から解放されたんデスネ!だから、最近ソニアは胸がこう・・・ちょっと、女性らしい感じになってきたんデスネ。ウンウン。本来、あるべき姿に体が修正しているのデショウネ〜。突然のことなので、体が驚いて、痩せちゃったくせに、胸は育ってしまったのデショウ」
「・・・ってことは、たまたまその、薬の影響が終わったから、月のものが始まったってことですか?」
「デショウ」
「・・・なーーーんだ!悩んで損した!あたしはてっきり」
「てっきり?」
てっきり、ゾックを意識しちゃったりなんかしちゃって、なんか自分の中の女の子っぽいところがどーのこーの。
そんなことは、口が裂けても言えるわけがない。
ソニアは苦笑をして、誤魔化した。
「でも、スルスト様。あたしは、ムスペルムに行った時点で、月のものがずっと止まっていたんです。その・・・シャロームで・・・ミザールの洗礼を受ける前には、既に・・・追っ手への恐怖なのか、なんなのか、ずっと」
その時、ばたばたと慌しい足音が聞こえ、けたたましいノックの音が響いた。
「誰だ」
「キャスパーです!」
「入れ」
「はっ!」
バタン、とけたたましい音をたてて、バルタンのキャスパーが転がるように室内に入ってきた。
肩で息をして、頬を紅潮させている。
髪にも肩にもあちこちに、白い雪をつけたままで、今まさに外から帰ってきた、という様子なのがわかる。
それを見てソニアは、「キャスパー、雪が降っていたのか?」と聞いたが、そうではないようだった。雪ではなく強風のため、木々に積もっていた雪が塊のまま飛んできては体に当たっていたのだという。
「トリスタン皇子率いる部隊が、バ、バルハラ城を落し、永久凍土の政権を、得たとの報告がありましたっ!反乱軍死傷者は・・・」
ソニアとスルストは、キャスパーの報告が全て終わるまで、何も言わずに静かに聞いていた。
寒さだけではなく余程慌てていたのも手伝ってか、キャスパーは時々呂律が回らなくなり、何度か言い直しをしていた。
コカトリスに乗っていた時に見たジハド。
あれがミザールの最後の魔法なのであれば、いささかバルハラ陥落の報が遅い、とソニアは思っていた。
が、なるほど、自分達が砦に戻った後から、どうやら風が強くなってきたらしい。それでは、確かに連絡役も困ったことだろう。
「わかった。キャスパー。申し訳ないが、ウォーレンにそれを伝えてきて、それから、ここに来るように言ってくれるか?後は、ゆっくり休むといい」
「はいっ!」
大きい声で返事をして、キャスパーはそのまま、ばたばたとまた部屋の外に出ていってしまった。いつもはおっとりと見えるキャスパーにしては、なかなか珍しいことだ。
何をそんなに慌てて・・・とも思うが、寒い中伝令役になった人間は、それは出来るだけ早く勤めを終えて、暖炉の前で丸くなりたいに違いない。特に、有翼人達はその体の構造上、どうしても翼の付け根から衣類に雪が入り込んでしまうだろうし。
キャスパーが消えた後、部屋の床に、彼の体から零れた雪の塊がいくらか落ちていることにソニアは気付いた。
ソニアはカウチから体を起こして、それに近付き、「よっこらしょ」と声を出しながら屈んだ。
「ソニア?何デスカー?」
「いえ」
小さな雪の塊を手ですくうと、じわりとそれはソニアの手の上で溶けていってしまう。が、ほんの一部の雪が、ソニアの肉眼でもわかるほど美しい形を彼女の手の上で見せ付けてくれる。
「・・・雪の結晶か」
ソニアは、不思議そうにスルストがみつめている視線に気付きながらも、ふと目を閉じた。
死して、全てが楽になるならば、それは少しばかり魅惑的だ。ミザールは多くのものを背負ったまま、命を絶つことを願っていた。
しかし、自分はそうはいかない、とソニアは思う。
「ソニア」
「はい?」
「何故、月のものが、ずっと止まっていたのか」
「え」
「それは、また後で、話シマショウネ。そうそう。シャングリラから帰ってきてから、デスネー」
「・・・え・・・」
スルストはそう言うと、ひらひらと手のひらをソニアに向けて振りながら、扉を開けた。
「今は、シャングリラ行きのことを、考えまショー!」
「ちょっと・・・スルスト様!」
ソニアの制止の声も空しく、スルストは軽く扉を開け、するりと部屋の外に出て行ってしまう。それは、ずるい。ここまで話しておいて。その、どの言葉もそれ以上声に出来ず、ソニアは呆気にとられながらスルストを見送るだけだった。
やがて、扉がぱたんと音をたてて閉まってから、ようやくソニアは荒々しく声をあげることが出来た。
「・・・ああ、もう!!」
何もかも、うまくいかない。落ち着かない自分の体と心に苛立つ。
がたがたとうるさい、風に叩き付けられている窓枠の音も、暖炉で火がはぜる音も、もう、うんざりだ。
早く。
早く、この場所から離れたい。
ソニアは、その場でぺたりと床に座り込んで目を伏せ、繰り返し繰り返し、ひたすらにそれを祈り続けた。



Fin

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