空に還る-6-

その夜は、長い夜だった。
ぼんやりとした意識の中、腹が痛い、とソニアは感じた。
この痛みは、初めてではないと思う。
(そういえば、月のものが来た時、いつも腹が痛かったな)
どれだけの間、月のものが来ていないのか、もはやソニアは数えてもいなかった。
シャロームに辿り着いた時は既に、いつもは始まっていてもおかしくない、月のものの周期だったのに、来ていないことに気付いていた。
オーロラが言うところによると、それは精神的なものと肉体的なもの両方が関わっているという。
シャロームにつくまでに、過度の運動に過度の空腹、様様な条件が重なって、ソニアはかなり痩せてしまっていた。
筋肉がついたと思う反面、相当脂肪が減ったことを、ソニア自身もよくわかっていた。
手までもが痩せたことに気付いた時は、さすがのソニアも愕然とした。
ふと見た自分の手が、明らかに細くなっており、見慣れたはずのものが、なんだかやけに余所余所しい―まるで、他人の手をもってきたような―ものに見えた。
体重が減ると、月のものが止まる場合があるとオーロラはソニアに教えていた。
彼女は彼女でソニアの身を気遣って、町から町へ移動した時に、ヘンドリクセンのようにあれこれと書物を探して知識をつけている。もちろん、ソニアはそんなことは知らず、「オーロラはなんでも知っているんだな」なんて呑気に構えているだけなのだが。
体重が減り、生命に関わる器官だけを生かすために、体が保身をするのだとオーロラはソニアに教えた。
しかし、毎日ある程度の食事をとり、与えられるエネルギーはそうそう不足しているとは思えない。
なのに、月のものがソニアには来ない。
そうであれば、精神的なものではないかとオーロラは指摘していた。
反乱軍リーダーとして、ソニアは精神的な圧迫を受けることが少なくない。
周囲からすればそうとは見えなくとも、知らず知らずそれを心の中に溜め込み、ストレスになっているのではないか。
そんなことを言われたが、だからといってどうすれば良いのかソニアにはわからない。
止まっていた方が、楽だぞ。
そう言うと、オーロラはまたソニアを怒る。
あれ以来、更に体が軽くなったようにソニアは感じていた。
年齢的に、もっと体が丸みを帯びてもいいはずだ。
それの証拠に、胸当てが最近きつくなってきたと思う。
けれど、バランスが悪い成長をしているのか、もともと薄い尻はいつまでも肉がつかないし、手を見れば相変わらず、自分のものとは思えない時もある。
カストラート海で別れたマーメイドのエリザベートがくれた、小さな真珠。
それを加工して作った、ソニアの指にぴったりだった指輪がするりと抜けてしまうほどなのだ。
なんといっても、何故か最近、あまり食べられない。
基本的に出されたものは残さず食べるけれど、時々吐き気をもよおすときもある。
それでも、吐いてしまえばけろっと治るから、とりたてて問題があるとも思えなかった。
と、突然、ソニアははっと瞳を開け、体を起こした。
それから、自分の太もものあたりをまさぐって、様子を確かめる。
月のものは、来ていない。
それに、安堵とも何ともいえない複雑な表情になって、ソニアは小さく溜息をついた。
「ソニア様?気付かれたのですか?」
ベッドの傍には、アイーシャが椅子を持ってきて、何かの書物を読んでいるようだった。
それにようやく気づいたソニアは、一瞬驚きで息を吸い込んだ。
「どうですか。お加減の方は・・・ソニア様?」
「ア・・・アイーシャか。驚いた」
「申し訳ありません。お加減はどうですか」
「体が熱い・・・あと、腹が、痛い」
「お腹。どの辺りでしょうか。上の方ですか、下の方ですか」
「ううん・・・下のほうというか・・・月のものが来た時みたいな痛みで」
「そろそろ、月のものが来る時期なのですか」
アイーシャの問いかけは、とても当たり前のものだった。
けれど、それに返答が出来ず、ソニアは困ったように眉根を寄せる。
まさか、洒落にもならない、とソニアは息を深くついた。
「いや・・・違うと、思う・・・」
なんとかその場しのぎのその答えを返して、ソニアはもう一度横たわった。
「長く寝ていたか、あたしは」
「ええ。そうですね。三刻ほど。もう、夜ですよ。お熱を計らせてくださいね」
そう言ってアイーシャは、横たわったソニアの額に手をあてた。
「・・・まだ、熱があるようですね。熱さましをお飲みになった方が良いでしょう。その前に、何か、召し上がりますか?」
「いや、腹は減ってない・・・」
そう言うと、ソニアは瞳を閉じた。
長く意識を保っていることが難しいように思える。
目を開けていると、世界がぐらりと揺れ、気持ちが悪い。
鼻が詰まっているようで、口で呼吸をしないと苦しく、喉に冷たい空気が入り込んでくる。それが不快で、布団の中に口元を入れた。
「もう少し寝る・・・」
「わかりました。誰かは必ず、おそばにいるようにしておりますから、起きた時に驚かないでくださいね」
「ん・・・」
弱弱しく返事をすると、ソニアは意識が遠のいていくのを自分で感じた。
まるで、落ちていくような、そんな感触。
けれど、今はアイーシャが傍にいてくれる。だから、安心だ。ソニアは何故かそう思った。
あの、追われて続けた日の、とある晩。
たった一人で熱に浮かされて、薄汚れた小屋の隅で丸まって寝ていた、あの寒さに比べれば。
火のはぜる温かな音、思いやってくれる人の言葉。
何もかもが優しくて。
泣けてきそうなほどに、ありがたいと思えた。




あの女だ

あの女が、預言の

あの女が帝国を滅ぼす凶星に

あの女を殺せ


遠くに聞こえる、男達の声。
それを聞いて、ようやく、帝国を滅ぼす力を自分が持っているせいで、こうやって狙われているのだということがわかった。
けれど、その時の自分は、まだ無力で。
まだ、無力?
では、今は?
そもそも「帝国を滅ぼす力」なんてものは、この世界にあるはずはない。
国を変えようとしている人々の力が、最終的に「そうなった」だけのものに違いないのだ。
では、何故自分だけが狙われて。
いや、違う。ミザールは、そうは言っていなかった。

嫌だ。帰りたい。

ソニアは、布団の中で身をよじった。

違う。帰る場所などない。

振り向けば、村の方角で煙があがっていて。

それでも、すべてが終われば、真実を見るために帰らなければいけない、と思う。
足がすくむとしても。

先のことをああだこうだと考えすぎることは、意味がないことかもしれない。
けれど、先のことを考えなければ、取り返しがつかなくなることもあるのだと、その身をもってソニアは知ってしまった。
もはや、あの日シャロームで受けた洗礼で得た力を、彼女の勝手で失ったりすることは出来ないのだろう。
あまりに、大きな力が動き出している。
進めば進むほど、それを目の当たりにし、立ちすくむ。
そうしたくなくとも、足が動かなくなってしまう。
後戻りをすることが出来ない場所まで来てしまったけれど、進むにはあまりにも不安が大きすぎて。
いつもいつも自分で自分を奮い立たせて来たけれど、それにも限界があるのだと、最近ソニアは気付いてしまった。
誰かの意思、何かの意思で自分が動かされているのだとしたら、それは、いつまでどこまで、自分を利用しようとしているのだろうか。
自分達が討つべき対象は、本当に帝国軍なのだろうか。
ラシュディという存在は、「帝国」と同義とは思えない。
そうだ。
帝国軍を討ち滅ぼすだけならば、それは、ただの下界のいさかいだ。
ソニアが力を得た目的は、自分を追い、家族を殺し、村を焼き払った帝国を討ち滅ぼし、ことの真相を知ることだった。
そのために、強くなりたいと願った。
それなのに、自分が託された力は。
自分が、投じられた戦いは。


「・・・ソニア」

誰かの声が聞こえる。
額に乗せられていた布を取られ、耳元で水音がする。
それから、濡れた布が再び額にのせられ、彼女の熱を冷ます役割を担う。

「まだ、熱いな・・・」

その囁きに反応して、ソニアはゆっくりと瞳を開けた。
「・・・ランスロットか・・・」
「起こしてしまったか・・・申し訳ない」
先ほどアイーシャが座っていた椅子に、今度はランスロットが座っている。それをソニアは確認して、小さく無理に笑顔を見せた。
室内は暗いが、ベッドと対角線上に小さな灯りが置いてあり、ランスロットが看病をするには問題がないほどの淡い光を作り出していた。
「いや、いい。今は、何時くらいだ?」
「夜半過ぎだ」
体を動かすと、額に乗せた布がずるりと落ちそうになる。それをランスロットは押さえ、ソニアが楽な体勢になるのを手伝った。
横向きになって膝を折って体を丸める。顔にかかる髪を、ランスロットは軽くよけてやった。それへは抵抗をせず、ソニアは素直に従うだけだ。
「・・・まさか、ランスロットがついていてくれるとは・・・」
「普段ならば、プリースト達に任せるところだが、公にしないためにはな・・・どんな調子かな。苦しいか」
「いや・・・大分、楽になった。熱っぽい感じはするが、それでも、下がったんじゃないかな」
「そうだな。それでも、まだ微熱は続いているようだ」
「うん・・・冷たいのが、気持ちいい」
「喉が、渇かないか?水がいいかな。それとも、温かい茶にした方が良いだろうか」
「温かい茶がいい・・・ランスロットは、父さんみたいだな」
「・・・はは。さすがに、ソニア殿くらいの年齢の子供がいる年ではないと思うが」
「病気の時だけ、急に優しくなるんだ。父さんは。あれがいいか、これがいいか、何か欲しいものはないかって」
そう言ってソニアは深く息を吐き、深く息を吸った。
ランスロットは苦笑を浮かべ
「わたしも、病気の時しか優しくないかな。それは、反省しよう。では、茶をいれてこよう」
そういいながら、立ち上がった。ふと見ると、ソニアは体を起こそうともぞもぞ動き出していた。それを手伝おうと手を伸ばす。
「・・・いや、違う・・・ランスロットは・・・」
ソニアは額に置いた布をとった。
それから、ランスロットの腕に体を預けながら布団から体を出して、ベッドの木枠にもたれかかろうとした。
と、その瞬間。
ずるり、と何かが。
体内から何かが排出される間隔に、ソニアはぞっと身を強張らせた。
「・・・ラ、ンスロット・・・」
「ん?どうした。気持ち悪いのか。それとも」
「・・・オーロラ・・・オーロラを、呼んでくれ」
「オーロラ?彼女は今は寝ているはずだ。それに、オーロラにはそなたが体調不良であることを教えていないぞ」
「ダメだ。オーロラじゃないと・・・オーロラにしか・・・ああ、あとは、カノープスか。いや、でも」
「一体・・・」
あまりの、突然のソニアの狼狽ぶりにランスロットは驚き、彼女の顔を覗き込んだ。
わずかな灯りによって見えるソニアの表情。
彼女は、よりいっそう顔を赤くして、眉根を寄せてランスロットに訴えるように言い続けた。
そんな彼女を見て、はっとランスロットは息を飲む。
「・・・ソニア・・・」
「頼む・・・今すぐ、オーロラを呼んでくれ・・・お願いだ・・・嫌だ・・・」
「アイーシャでは、駄目なのか」
ソニアの瞳にはじんわりと涙が浮かんでいた。いつもならば、そんな表情を見られたくないと顔をそむけるだろうに、そうすることも出来ず、ソニアは起き上がった上半身を縮こまらせて、わずかに震えるだけだ。
「頼む・・・後生だ・・・!」
「そこまで・・・」
うめくようにそう言い放った瞬間、瞳に浮かんでいた涙はぼろりとこぼれ、布団の上にぽとりと落ちた。
尋常ではないことが起きている。
そう直感して、ランスロットはそれ以上は何も言わずにソニアの傍を離れた。


寝ているオーロラを起こしてランスロットが事情を話すと、少しばかり間があったけれど、オーロラは表情を固くした。
それから、すぐにはその場を離れず、ランスロットを待たせて何かを用意したようだった。
オーロラは、女性兵士の着替え一着と布袋を持って、ランスロットとともにソニアの部屋に訪れた。
「申し訳ないのですが、少々2人にしていただけませんか。通路にいらしてはお寒いでしょうから、お部屋でお待ちしていただけると嬉しいのですけれど」
「どれくらい時間がかかるかな」
「・・・そうですね・・・ううん・・・」
「先ほど、ソニア殿は、茶を所望した。それをいれて持っていくぐらいでも、大丈夫だろうか」
「湯を沸かすところから始めていただければ、それぐらいでも」
ランスロットはそれ以上のことはオーロラには尋ねなかった。
自分がああだこうだと彼女に聞いている間、室内でソニアは先ほどのように泣きながら身を縮こまらせているかもしれない。
そう思うと、それどころではないと思える。
仕方なくランスロットはすべてをオーロラに委ね、厨房へと向かった。
厨房の横の小部屋は、火種を守る部屋になっていて見張り兵が常にいる。
そこから火種を分けてもらい、厨房へと持っていく。
夜の厨房は、空気が刺すように冷えていて、厚手の上着を着ているランスロットですら一気に体の筋肉が収縮するのを感じる。
かまどに火を移し、薪をくべてから、水が入った樽を開ける。
表面には氷が張っていたが、それは指でぱきぱきと割れる程度で済んでいた。
火種を守っていた兵士が、ランスロットの様子を伺いにきて「自分がやりましょうか」と声をかけてくれたが、彼は丁重にそれを断った。
何かをしていないと落ち着かない。
戦の中でもないのに、そんなことをランスロットは思った。
自分が知らない秘密を、ソニアとオーロラは共有している。
女同士の話なのだろうか。
いいや、途中でカノープスの名も出たではないか。
何が、彼女の身に起きているのだろうか。
そして、それは、自分には教えてもらえないことだったのか。
(まただ)
ランスロットは、また、自分だけが蚊帳の外に出されたような、そんな心持になって唇を噛み締めた。
大したことではない。
自分だって、ソニアには伝えない、ゼノビア人としてのあれこれの思惑があるのだし。
そういうことがあっても当たり前なのだ。
なのに。
(何故、こんなにも心が痛むのだろうか)
ソニアにそこまで深く、特別に信頼されたいと、そんなにも自分勝手に思っているのだろうか。
それは、確かにある。
カノープスより。オーロラより。
自分の方が、ソニアと長く共にいるのだし。
立場も近いと思えるし。
なのに、あまりにも今、彼女と自分の距離は遠くに思える。
それは、トリスタンの存在のせいだろうか。それとも。
かまどにかけた小さな鍋の中の湯が、こぽこぽと音をたてて沸き始める。
その音を聞きながら、ランスロットはかまどの中の火を見つめた。
(いつでも、彼女の力になりたいと思いながら・・・自分で、そう出来ない立場を選んでしまっているのだ。わたしは・・・)
それは、わかっていた。
いつの日か、その立場が顕著になって、彼女との間に更なる距離が出来てしまうことを、覚悟をしていたはずだった。
けれど、こんなに早くその日が来るとは思っていなかった。見通しが甘かったといわれればそれまでだし、覚悟が足りなかったと言われれば、それまでだ。
それでも。
(もう少しだけ・・・わがままとはわかっているのだけれど・・・)
もう少しだけ、彼女のために、何かが出来る自分でありたい。
ランスロットは深くそう思いながら、茶器の用意をした。


ノックをしても良いだろうか。
ランスロットは、少しばかり自分が緊張していることに気付いた。
ソニアとオーロラがなんらかのことをしているところに、茶を持ってくるだけで、こんなにも心許ない気分になるとは。
息を吸って。吐いて。
2人を、あまり驚かさないように、小さなノックで。
コンコン、と控えめな音を立てたつもりだった。
室内で、誰かがごそりと動く音。
ドアを開けたのは、予想通りオーロラだった。
「ありがとうございます。処置は、済みました」
処置。
その言葉に、ランスロットはぴくりと反応をする。
「ソニア様には、そのお茶を飲んでいただいて・・・それから、また、眠っていただいた方が良いと思います」
「そうか。それは・・・オーロラに頼んだ方がよさそうだな」
「ええ・・・ランスロット様。あの」
「うん?」
「隠し立てを、これ以上してもどうにもなりませんので・・・ソニア様がお休みになったら、お話が」
それには頷く以外ランスロットにはなす術がない。
しかし、具合の悪いソニアのもとに、誰かをつけていなければいけない。
あと一刻後にギルバルドと交代をする予定だったが、事情を話して起きてもらえたら、とひとまずそれをオーロラに説明をした。
それから、彼女に茶を手渡して、ランスロットはその場を離れた。


ギルバルドは、なんとはなしに深く眠ることが出来ず、予定より大幅に早く目覚めてしまった。
これは、ランスロットからすれば相当ありがたいことだったのだが、起きてしまった彼自身は「まいったな」と、わずかにけだるい体をもてあまし気味だった。
明け方起きる早朝番は、彼ぐらいの年齢になれば苦にならなずに起きられ、深夜番をするよりも余程楽だ。
しかし、あまりに早く起きてしまうのも、どうも年寄りくさいと彼は思う。
(しかも、こんな阿呆のように寒い場所で)
砦の中には、兵士全員の数のベッドはない。
よって、一室に毛皮を敷き詰めて―しかも、上等な毛皮ではないので、薄い部分と厚い部分の差がかなり大きいという問題がある―手に入った限りの毛布などをお互い重ねあって兵士達は眠っている。
部隊長クラスの人間はそれなりの部屋を与えられているけれど、むしろ、人の体温がない分、不意に目覚めた時はその方が室温が低いのではないかとすらギルバルドには思える。
魔獣は、他の獣の毛皮を着ている主を、あまり好ましく思わない。
よって、ギルバルドやガストンといった魔獣使い達は、毛皮そのものではなく、毛糸で編まれた服を身につけていた。
それらは、重い割には防寒の力が毛皮より低い。
何枚も服を重ねるのはギルバルドの性には合わない。しかし、そうとも言っていられない永久凍土の気候には、彼も辟易していた。
「ご苦労だな」
火種を見張っている兵士や、交代で外の様子を見張っている兵士達に、ギルバルドは声をかけていた。
「・・・おや?ゾック、お前は非番だっただろう?深夜番の時間まで、何故」
「・・・一度寝たのですが、起きてしまったので」
交代で外の様子を見張っている見張り台にいるゾックを見つけ、ギルバルドは声をかけた。
「そうか。寒さのせいか?」
「今は、寒さは堪えていないのですけれど。昼間、寒さにかこつけて、体をあまり動かさなかったせいかもしれません。もう少ししたら、白湯をいただいて、寝ようと思っています」
「そうすると良い。明日に疲れを残さないようにしないとな」
「はい」
めずらしいな、とギルバルドは心の中で呟いた。
寒さにかこつけて、体をあまり動かさなかった、か。ゾックのような生真面目な男でも、やはりこの気候で心が弱ったりもするものなのか。そんな風に彼は思った。
まあ、起きてしまったのは、自分も一緒なのだが・・・。
ぐるりと砦を回って、あちらこちらの兵士に声をかけたり、外の気温を確認して、魔獣達のことを考えたりと一通り暇つぶしらしきことを終えた。
ギルバルドは観念して、もう一度寝直そうかと、自分の部屋へ戻ろうとした。
と、ちょうどその時、自分の部屋の方向からランスロットが歩いてくる様子が見えた。
(なんだ。あやつは、ソニアの傍にいるはずだろうに)
その呟きが聞こえたわけではないだろうが、ちょうどその呟きと同時に、ランスロットはギルバルドに声をかけてきた。
「ギルバルド。部屋にいないから、どこにいったのかと」
「寝付かれず、目が覚めてしまってな」
「それは、ちょうどよかった、と言ってもいいやら」
「うん?」
ランスロットは誰も他にいない通路でも、そっと声をひそめた。
「申し訳ないのだが、少しばかり、今からソニア殿の傍についてくれないだろうか」
「何。お前は?」
「実は」
どう説明したら良いだろうか。
一瞬ランスロットは躊躇し、悩む表情を見せた。
そして、ひとまず「今は詳しくはいえないが」と前置きをして、ギルバルドにもう一度頼んだ。
それを聞き、ギルバルドは、これ以上聞いても無意味だとあっさりと考え、
「後から、出来る範囲での説明はしてくれるんだろうな?」
と一言念押しをしただけで、引き受けた。


本当ならば、この際、アイーシャ様やノルン様にも話をするべきだと思うのですが、とオーロラは前置きをして、ランスロットに話を切り出した。
今が夜でなければその2人を呼ぶところだが、アイーシャはランスロットと交代した後に眠りについたばかりだし、ノルンは早朝に起きる予定になっている。
それを無理に今起こすこともないだろう、ともオーロラはランスロットに告げた。ランスロットもそれには同意する。
寝ているところを無理に起こされ、オーロラ自身も辛いだろうに、彼女は気丈にも一言も泣き言を口に出さなかった。
「先ほど、ソニア様は、月のものが来た為・・・寝巻きと、シーツを汚されてしまいました。なので、殿方である、ランスロット様には、その旨を伝えることが出来なかったのです」
「・・・ああ、そういうことか。うん。女性であれば、それは、仕様がないことだな」
と、一瞬納得をしかけて、ランスロットは「うん?」と表情を曇らせた。
では。
オーロラでなければいけなかったのは何故だ。そして、カノープスの名が出たのは何故だ。
「オーロラ」
「・・・それは、もう、何ヶ月ぶりのことなのか・・・どれほどぶりのことなのかは、まったく、ソニア様ご自身、よくわかっておられません」
「何・・・?」
「反乱軍リーダーになる少し前から・・・月のものが、止まっていらっしゃるのだと・・・そうおっしゃっていました」
いまひとつ、それがどれほどの重大なことなのか、ランスロットは一瞬理解出来なかった。
そういうことがあるのか、という憮然とした気持ちと。
何故そうなってしまうのか。
それが続いたらどうなってしまうのか。
ソニアより、オーロラより、余程長く生きている彼でも、それらの知識は悲しいほどに乏しい。
「それは、何故だろう」
「わたしも、原因は特定は出来ませんが・・・シャロームの教会で、ソニア様は洗礼を受けたとおっしゃっていましたよね。そこに辿り着く前に、とても心に大きな傷を負ったり、圧迫され続けたり・・・尋常ではない、精神状態に陥ったのではないかと思われます。もちろん、予測に過ぎないのですけれど」
「それで・・・今、それが始まったということは、その、なんというか、精神的なものから・・・解放されたということだろうか」
「いえ・・・それはなんとも・・・ただ、少し前から、わたくし、個人的に心配していたのですが」
「何を?」
「ソニア様は、最近・・・なんというんでしょう。その・・・女性らしく、おなりになっていく反面、かなり、お痩せになって・・・普通、女性が・・・女性らしくなる時に、そういう、なんていうんでしょう。相反する状況には、なりづらいものなので・・・ええっと」
オーロラは言葉を選ぼうと慎重になっているけれど、話題が話題だけに、どうもいつものように歯切れがよくない。
ランスロットもランスロットで、そういった話題はあまり得意ではないため、オーロラになんといって気を楽にしてもらえば良いのか、うまいことが思いつかない。
「あけすけに申し上げますと。女性は、男性と違って、様様な体の部位が、丸みを帯びて、体重も増えやすくなります」
「・・・そうだな」
「ソニア様は、その前者の兆候があるにも関わらず、体重が減っているようにわたしには見えるのですが。とても・・・体が、そうなろうとしている方向と・・・精神的な何かが・・・まったくもって、アンバランスなのではないかと・・・」
「ふうむ・・・」
「わたくしは、医者ではありませんので・・・どなたか、優秀なお医者様に、一度見ていただくのが一番良いと思うのですが」
なんということだ、とランスロットは深い失望に陥った。
そんな重要な、反乱軍リーダーの体に関することを、黙っていられたとは。
オーロラに同意をする気持ちはあったけれど、それ以上に、一体全体何故こんなことになってしまったのか、という気持ちの方が、ランスロットの心を強く急かしていた。
「・・・このことを知っているのは、君とカノープスなのだな?」
カノープスの名が出たことに、オーロラははっとなった。
「ご存知なのですか」
「ソニア殿が、先ほど口を滑らせた」
「カノープスさんがお聞きになった時、ソニア様は、何も大きな問題だとは思っていらっしゃらなかったご様子です。むしろ、止まっている方が楽だとおっしゃっていました。女性として、あるまじき発言ですけれど」
「そうだな」
「黙っていたことは、申し訳ないと思う気持ちもありますが、ソニア様自らから口止めされておりましたので」
オーロラは言い訳をする人間ではない、とランスロットは思う。
その言葉は、ソニアがそう思っていたのだ、ということを伝えるためだけに、彼女の口から発せられたのだろう。
「で、今は、ソニア殿は落ち着いたのか」
「それが・・・随分と、取り乱しておいでで・・・恥ずかしい、とおっしゃっていました」
「恥ずかしい?」
「まあ、幼い少女が、初めて月のものが来た時に、そう思うことはありますけれど・・・あんなに、泣き止めないほど取り乱されるとは・・・」
そう言って、オーロラは、はっと自分が失言をしてしまったことに気付いた。
ランスロットは彼女の言葉をそれ以上追求しようとはしなかったけれど、唇を軽く噛み締めた。
何故だ。
一体、あの少女に何が今起きているのだ。
「嫌がるだろうが、医者に見てもらおう。いざとなったら、以前ムスペルムで見ていただいた名医のところにつれていっても良いだろう。あの方ならば、ソニア殿も心を開かれるかもしれない」
「・・・心を、開く」
オーロラは驚いて、ランスロットの言葉をそのまま返した。そして、厳しい表情で、まるで彼を糾弾するかのように問い掛ける。
「閉ざされていると、お思いですか」
「・・・ある部分は、とても閉ざされているとわたしは思うよ」
「・・・そう・・・かもしれませんね」
「けれども、多分・・・それは、閉ざしていなければ、反乱軍リーダーとして、ここまで来られなかったのではないかとわたしは感じる。勝手な解釈だけれど。しかし、いつまでも閉ざして、目を背けているわけにはいかないのかもしれない」
オーロラは無言でランスロットの言葉を聞いていた。
ランスロットは、オーロラに向かって話しているのではなく、まるで己に向かって呟くかのように続けた。
「いや、もしかすると、我々が・・・彼女に、目を背けさせていたのかもしれない。そして、それは、潮時なのかもしれない。だからこそ、彼女はあんなに頑なにミザールに会いたがっているのかもしれないし」
そう言うとランスロットは目を伏せた。
「不幸なことなのだな。あの年齢の女子が、自分の体の変化にあのように恐れおののくなど。それなのに、わたしは、何ひとつそれに気付いてやることが出来なかったのだ・・・」
「ランスロット様」
「うん」
「ソニア様は、本当は、誰にも・・・自分の体の変化なぞ、知られたくないのだと思います」
「何故だ」
「それは」
少しばかり躊躇して、オーロラは静かに告げた。
「本当は、あの方はとても女性らしくて・・・そうであればそうであるほど、知られたくないと思うものです。たとえ、どれほどの色香を持つ女性であろうと、自分の体の変化をあけすけに人に言える方は、むしろ男性的だとわたしは思うのです。ソニア様は、とても奥ゆかしくて、自分が女性になることすら恥ずかしがっていて、誰にも知られたくないと・・・いつまでも、少女のままでいたいと思っているのではないかとわたしは思うんです。だから、月のものが止まったことは人に言えても・・・また、女性としての機能が戻ったことには戸惑って、強く恥らっていらっしゃるのだと」
ランスロットは、少しばかりオーロラを見つめ、それから、落胆の溜息を深くついた。
「すまない。わたしは、無駄に年をとった阿呆のようだ。そなたが言うことが、あまりよく、理解が出来ない」
「男性には、難しいと思いますわ。それから、そのう・・・優越感などで言ってるわけではないとわかって欲しいのですが」
「うん」
「もしかすると、アイーシャ様や、ノルン様にも難しいかもしれませんね。たくさんの同年代の、あまりにも普通の村娘達の中で生活をして、やっと気付けたことなので」
そういえば。
ランスロットはオーロラをまじまじと見て思った。
この女性は、何の肩書きもなく、なにの特別なところもなく。
以前はヴァルキリーになるのに有望だと思っていたけれど、こうしてプリーストに昇格してからは、とてもひっそりとしており、目立たない。そんな彼女は、今は突出した戦闘能力はないけれど、とても気が利いて細やかで、生真面目だ。
彼女のことを、ランスロットは非常に高く評価している。彼女の優れているところは、生きていく上、生活していく上での能力の高さなのだと思える。
どこか世間と隔離されて育ったアイーシャや、若くして高い地位まで登りつめたノルンでは、わかりえないことを、この素朴なプリーストは彼女なりの目線で知っているのだろう。
それは、とても頼もしく、むしろ、今のソニアにとっての力になるのかもしれない。
(皮肉なものだ)
戦で頼れる者達が、生活面で頼れるとは限らない。
政治で頼れる者達が、すべての人々の心を理解できるとは限らない。
では、自分は。
何が出来るのか、と自問自答せずにはいられぬほど、ランスロットは、あまりに己の存在を心許なく思うのだった。



←Previous  Next→


モドル