果実

まぶしい日差しを浴びて、彼女は生まれて初めて食べる果実におそるおそる口に近づけた。
甘い香りの中にほのかな酸味を含むそれは、ゼノビアではあまりめずらしくはないものだし、ハイランド領に入ったこの地でも取れるのだから大陸全体に出回っているものなのだと思う。確かに多少は高値ではあるが、知らない人間がいるとは思ってもみなかった。
その皮の色は元来果実にはありえない色をしているため、それを知らない彼女の目を殊更にひきつけたのだと思う。
少し薄めの、少し陽に焼けて乾いた唇が動いて、一口目。
彼女の白い歯が、光の加減で淡い桜色がかった乳白色に見える薄皮を突き破って赤い果肉を削り取る。
じゅわっとあふれ飛んだ果汁が陽の光の中できらめいて、きゃ、と小さな声をあげてから、彼女は一瞬目をつぶった。
その愛くるしい表情を見ることが出来たわたしは、きっと幸せ者なのだろうと思う。
いつも彼女は気を張り詰めているのだろうと思う。その糸が緩む瞬間を見ることが出来る人間は少ない。
彼女はその強い意志で、張り詰めているということすら感じさせないようにしているのだろうが、長い間共に行軍を続けてきて、間近で彼女を見続けてきたわたしにはわかる。
「うっわ・・・」
彼女の小さい声が、うわずった調子で聞こえた。
「ど、どうですか?」
飛んだ赤い果汁がわずかに服を汚したようだったが、彼女はそれを気にも止めず目を輝かせた。
「ランスロット、おいしい!こ、こんなにおいしいもの食べたことない。・・・い、生きててよかったぁー」」
無邪気にそう言ってわたしに笑顔を向ける。手放しの賛辞だ。
それは、よかった。
音に出せないまま、曖昧にわたしは彼女に精一杯口端だけで微笑を返す。
多くの言葉を彼女に与えることは、わたしにはいつも難しい。
「おいしい。甘い。中は赤いのね、可愛いわ。これ、半分もって帰れるかな。リリーにも食べさせてあげたいな」
果汁がついてべとついているのであろう指先を折り曲げ、関節を使って顔にかかる赤い髪をよけて彼女はそう言った。
いつからだろうか。
いつも彼女はなんらかの恩恵を、自分以外の人間に与えようとしていることに気付いたのは。
リリーにあげたら喜ぶかしら。
カノープスに教えてあげなくっちゃ。
ギルバルドに見せてあげたいわね。
あまり自分の思いを口にすることがない彼女が唯一手放しでその気持ちを外側に向ける瞬間だと思う。
それは長所でもあり短所でもあるが、わたしには好ましく思える。
その果実の半分をリリーのためにもっていってあげたい、とわたしを見るその瞳を縁取る睫は長く、ぱちりと瞬きをするたびにその瞳以上に、髪以上に、睫の色が印象づけられる。
「ちょっと、持ち帰るのは難しいですね」
「そっか、じゃ、戦が終わったらリリーに買ってあげよう。えこひいきって怒られちゃうから、内緒にしたいんだけどね」
少しだけ照れくさそうに笑うその表情。
多少なりと、年齢相応にわたしに甘えてくれているのだろうか、なんて思ってしまう。
反乱軍リーダーという立場からはおよそ遠い、はにかんだ笑顔。
わたしは首を横にふる。
「気にっていただけたなら、よかった」
「ごめんなさいね、あまり詳しくなくて」
そう言ってまた恥ずかしそうに彼女は微笑んだ。
その笑顔につい安心したわたしは、無意識にシエラの頭に手をのばした。
目の前にいる彼女は、間違いなくただの若い少女に戻っていて。そのはにかんだ笑顔や、無邪気に喜ぶ姿。何もかも。
それを、わたしに見せてくれることが嬉しくて仕方がなかった。
まるで動物をなでるように、わたしは彼女の髪に手を。
「ランス」
さらりとした髪に触れたとき、咎めるような声と、上目遣いの、不機嫌なときに見せる表情。
「あ、こ、これは・・・失礼いたしました」
わたしは慌てて手をひいた。
自分でも何故そんな大胆なことを自分の手が行ったのかはわからなかった。ただ、それはわたしにとっては多分自然な動きだったのだろう。そう思うしかわたしは自分を納得させることが出来ない。
愛しいと思うものに触れることは、時折恐ろしいけれど、間違いなく今は恐れではなく喜びだったはずだ。
「・・・いいけど」
シエラはすぐに気にしないようにそう言って、歩き出した。
埃っぽい市場の中を歩く。残りの果実を口に運びながら、彼女は「あれは?」「あの赤いのは?」との店先に並んでいる果実達を指し示して聞いてくる。
彼女はとても聡明な女性だし、知識量も若さに似合わず相当なもので、わたしはいつもそれに驚かされてきた。その彼女がこの程度のどこにでもありそうな果物達を見て目を輝かせるなぞ、思ってもいなかった。
きっとわたしはぶしつけに彼女をみつめてしまったのだろう。その視線を感じ取ったようで、口を尖らせた。
「甘い物は、ごちそうだったから」
ぽつりと彼女はそう言って、でも、これは知ってるわ、といくつかの果実を指差した。
それらはとてもありふれた、山や林を歩くだけでみつけることが出来る、動物達が食べる小さなものや、同じく山に生る果物達だ。そうだ。それらは、あまり栄養がない土に育つ物達。
わたしは彼女の過去をあまり知らない。
彼女の生まれはこの大陸ではないらしい。
軍を率いる人間が志すものがわからなければ、率いられる人間との意思疎通が出来るわけがない。だから、わたしやウォーレンは彼女に何度も問いかけた。
何故、帝国を打ち倒そうとあなたは思ったのか。
しかし、彼女は答えない。答えなくとも、あなた達はついてくるでしょう、と涼しい顔をして沈黙を守る。不穏に思われることを防ぐために、ウォーレンが嘘でもいいから、とそれらしき「彼女の志」というものを、あとから仲間になった人々に吹聴しなければいけなかった。多分、彼女は誰に聞かれたとしても黙るだろうし、誰かが彼女の過去をこじあけようとすれば、いっそう心を閉ざすに違いない。
だから、わたしはあえて聞かない。連日の戦に疲れているだろう彼女の心を、興味本位で乱したくないと思う。
知らなくても良い。知りたければ、全てが終わってからで良い。そう、自分に言い聞かせてきた。
知っていることは。
この大陸の生まれではないこと。
この果実をあまり食べたことがないこと。
たったそれだけのことだ。
「戦が終わったら、また食べたいな。また買いにつれてってくれる?」
そう言って彼女は最後に指先を服の端でふいて、彼女はもう一度微笑んだ。わたしは、頷き返す。
「ありがと、ランスロット。ランスは優しいね」
結局、わたし達はその果実を戦の後に買うことはなかったし、彼女がリリーにその果実の存在を教えたのかだって、知る由もなかったけれど。

あの日、たった二人で市場を歩いたあの時間はまるで幻のようで、今となってはあまりに眩しすぎる思い出だ。
ゼテギネア帝国が作り上げた暗黒の時代の幕を閉じたシエラは、次代の幕開けに自分の手は必要がないと悟っていた。
トリスタン皇子は、彼女に新生ゼノビア国の将軍職を用意し、新都ゼノビアでの生活を与えようとしたが、彼女はそれを退けた。
彼女はゼノビアではないどこかで、自分の信じることのために生きることを選んだのだろう。
しかし、その行為は、少なくとも彼女がトリスタン皇子の部下にはならない、という事実を示すものだ。
彼女は決して自分が国を束ねる立場になりたいと思ってはいなかった。それは誰もが承知している。
けれど。
トリスタン皇子に命じられた通りに、わたしは宴の途中で彼女の元へ赴く。
こういった席で女性をエスコートするような、そんな身分もなければそんな教育もわたしは受けてはいない。
宴の始まりからぜノビアの楽器を持った10人ほどの楽団がゼノビアの曲を奏でていた。
懐かしい、遠い昔に聞いたことがある音楽だ。そのうち、踊りのための曲がこのフロアに鳴り響くはずだ。
しかし、わたしが彼女を誘うのは踊りではない。
ほとんどの人々は立食で、限られた高位の身分の者達だけが席を用意されている。
宴はたけなわとなり、席をあてがわれた人々もみな立食者の中に紛れて酒を浴びるように飲み、ゼノビアが生まれ変わったことを喜んでいる。
シエラは本来ならば多くの人々に囲まれて祝福されるべき人物だ。それを押し隠すように彼女は上座から動かない。
あくまでも彼女は今日の宴の主役をトリスタン皇子とラウニィー妃殿下候補に譲るつもりだったのだろう。
そのおかげで、下座に移動したトリスタン皇子達を皆が囲む。
あまり皇子達を良く思っていない者達ですら、目の前のめずらしいご馳走や上質の酒を堪能している。
ただ、シエラだけが。
まるでこの饗宴に、初めからいなかったかのように上座で静かに息を潜めているように見える。
何度かやってきたスルスト様やノルン殿になんと受け答えしたのか、軽く何かを断る素振りを見せて彼女はその場から動かない。わたしを待っているわけでもあるまいに。
わたしはこれから、新生ゼノビアのために彼女の命をこの手で絶たなければいけない。
何故こんなことになってしまったのかは、今となってはわからない。
皇子に忠誠を誓う人間ではないということと、皇子の敵であるということは同等の意味をもつわけではない。
それでも、頭で納得させるだけでは心の不安を誰もが消すことは出来なかった。
なんとなれば。いつだって、彼女はその気になれば、この新生ゼノビアを、あのエンドラを打ち滅ぼしたように倒すことが出来る力を持っているのだ。
そう。そんな人間が、皇子の配下にいることを自ら断った。
たったそれだけのことだ。彼女は敵になるわけではない。けれども、味方にもならない。それが、この狂った終焉の理由だ。

髪を結い上げて、うなじにわずかに落ちる赤い髪を残している彼女は、それまでわたしが見たことがない女性だった。
斜め後ろの出入り口から彼女の様子を覗いて、驚いた。
今まで気付かなかったほどに細い首筋。はっとするほどに女を感じさせる、それまで一度たりとみたことがない、紅を引いた唇。
口をつけたグラスに残した自分の赤い後を、細い指先でそっとぬぐう仕草。
彼女の前に並ぶ食器たちには、他に彼女が乱した後は何一つない。
円卓に並べられた数々の料理達。その中に、切り分けられた新鮮な果物を盛った大きなガラスの器があった。
スープも、肉料理も、魚料理も、野菜料理も、何も手をつけず、シルバーを一度も持たない彼女の手が、そっとその大きなガラスの器に近づく。
わたしは呼吸を止めた。
彼女は乳白色の薄皮を身に纏った果実に手を伸ばそうとしていた。
まばたきも止めて、彼女のその動きを一瞬たりとも見逃したくないと、何故かわたしはそう願った。
その時だった。
「わたしとラウニィーの舞を、みなさんにご披露したい!」
高らかにトリスタン皇子の声が響く。
それは、わたしの任務の開始合図の声だ。
その声を聞いてびくりとシエラは手をひき、そっと膝の上に行儀良く置いた。
わたしは、彼女のしなやかな手が果実を掴み、赤い紅を引いた美しい唇にそれを押し当てる姿を見ることは二度と出来なかった。
・・・ああ。
わたしは瞳を閉じた。心に走る動揺を抑えようと、呼吸を整える。
せめて、最後にその果実をあなたに味合わせてあげたかったのに。
あの日のように、あなたがただ無邪気に笑ってくれたならば。
新しい音楽が流れる。皇子とラウニィー様が舞い踊るための、ゼノビアの音楽が広間を満たしてゆく。
その音たちはわたしの鼓膜を震わせながら体の中に入って、どくん、どくんと不規則な鼓動を打ち鳴らして奇妙な音楽へと変化していく。
これは、呪われた音だ。
わたしは全身の力をふり絞って重々しい一歩を踏み出した。それには途方もない気力が必要とされたが、一度踏み出してしまえば決して止まることは許されない、罪に向かうはじめの一歩だ。
わたしは、いつもと歩調を変えぬように細心の注意をはらいつつ彼女に近づいていった。
「失礼いたします。シエラ殿、お話が」
「ランスロット?」
ねえ、あれ。あの日、あなたが買ってくれたやつ。
そんな柔な夢を一瞬足りと思い描いた自分の軟弱さに、わたしは後悔をした。
振り返った彼女はとても無表情で、何の心も動かされた様子は見えない。
あの夜、あなたから好意を打ち明けられたのに、それを受け入れられなかったわたし。
あなたではなく、ゼノビアへの忠誠を選んでここにこうしているわたし。
いつの時からあなたはわたしへの心を閉ざしてしまったのだろうか。
今のわたしには、あなたの心の動きが何一つ見えない。それは、なんと辛いことなのだろうか。
「何の用?」
冷たい音を発するために蠢く、その唇。
ただ、その唇の赤さがまるであの果肉のようだと思えて、それだけで胸の奥がやけに痛む。
肉なのか、骨なのか、皮膚なのか。
よじれるように、きしむようにわたしの胸の奥で訴えるその痛みは、何が何にもたらすものなのだろうか。
あなたの白い歯が乳白色の薄皮を突き破ったあの遠い日。
あなたは、とても可愛らしく微笑んだ。
わたしの剣は、今からこの美しい人の白い肌を赤く染めなければならない。
そのとき、わたしはどんな顔をしているのだろうか。

わたしは彼女のことを何も知らない。
知っていることは。
この大陸の生まれではないこと。
あの果実をあまり食べたことがないこと。
本当はとても無邪気に、愛らしく笑うこと。
そして、その笑みを奪ったのは、わたしかもしれないということ。
たったそれだけのことだ。

Fin


モドル

シエラバージョンの「欲しかったもの」→「狂気」の間のランスロットのお話です。
これもまた、読んでいない方にはわからないお話になっております。毎度申し訳ありません。フィーリングで読んでくださいまし・・・。(汗)
なんか数年ぶりに新しくシエラバージョンかいてるので、やっぱ多少違ってきますね。キャラに対するスタンスとか、表現したい気持ちにあてはめる言葉とか。多分、シエラバージョンのランスロットがシエラを愛しているっぽいことを意図的にしっかり書くことはないと思います。