不可蝕


一国の主とか。
誰かにとって何かにとって、一見唯一のものと思われるものがそこにあって。
しかし、誰もが何もかもが、いつの日かそれが唯一のものではないことに気付くのだろう。それは、ひとつの例外もないと彼には思えた。
時には次の世代の後継者が現れて、新たなる唯一のものになり得るのではないか。
そしてまた、時にはその唯一であることが幻だったとも気付くだろう。
もしかして、それが「立場」なのか、その立場に据えられた「人間」そのものなのかすら見失うのかもしれない。

唯一であるものは、それを唯一であると信じるもの達から大きな感情をぶつけられることが常だ。
それ自身の存在を忘れられるか、消え去るかしない限りは、ありとあらゆる感情の矢面に立たされる。
それでも退くことを許されない立場であるがゆえに唯一のものになり得るのだし、それをものともしない力があるがゆえにも唯一のものでい続けられるのだろう。
わからない。
彼は漠然とそう思った。何がわからないというのか、それすらわからない。
けれど、自分がただわからないのだということだけは、理解をしていた。

(俺には、無理だ)

それは彼自身が一番よくわかっていたことだった。
一族のため、シャロームの民のため、帝国の下僕として屈していた長い期間。人々から投げつけられた言葉や投げつけられた想いに口を閉ざし続けることは、彼にとって限界に近かった。
彼は、早く救われたいと、それだけを願っていた。けれど、自分が救われる時とは、民が救われる時なのだろうかともうつろに思っていた。
お前達を守るためだ、わかってくれ、と何度も何度も口をついて出そうになる、泣き言に近い言葉達。
記憶の中からいつでも引きずりだされ、耳の奥で響き続ける愛しい女性の歌声が彼を苛み続けた。
何度も何度も思い返される、二度とは戻らないだろう幸せの歌。

(無理だ。
俺は、民達が求める唯一のものにはなり得ない。
あまりにも無力で小さい俺に出来ることは、口を閉ざして帝国のいいなりになることで、心無い侵略をわずかでも阻止することだけだ。
魔獣使いとしての俺も、魔獣達にとっての唯一の人間なぞにはなり得ない。
それは、人でも獣でも、同じことだ。
そんな大それたものにはなれない。どんなに皆がそれを望もうと)

彼は、そもそもそんな大それたものになりたいとも思ったことはなかった。
それでも、彼に対して期待をしている人間は残念ながら皆無ではなかったし、それを彼は知っていた。
ゼノビアという国が崩壊した今、誰も彼もがよりどころになるものを手探りで探していた。一番手っ取り早いのは一家の主を。そして、次に集落の長を。そして、それでも足りなければ。
日増しに強くなる帝国からの風当たりに耐えるために、シャロームの人々の日々の蓄えは減り続けていた。日が暮れてからも畑にいる姿をよく見かけるようになり、それを領主である彼は見て見ぬ振りをしなければならなかった。
まるで心の目を片方覆い隠すように、領主としての真実の役目を放棄するしかない己の不甲斐なさ。
許せない、という彼自分に対しての憤りは、救いを求める民の憤りとは種類がまったく違うものだ。
彼の怒りはあくまでも自分本位の怒り。
だから、彼が自分自身をどれほど苛もうと何をしようと現況は変わらないままだった。
それでも、彼はその無駄なことに日々心が煩わされ、助けを求め続けた。
人々が唯一のものとして崇めていたグラン王を失った今、人々は手を伸ばし声をあげ、泣き叫んでいた。
当然彼は、国民にとって、いや領民にとって、グラン王の代わりになれるはずもなく。とはいえ、人々と共に声をあげるわけにもいかず。
己に背き、忠誠に背き、その挙句に友すら失い、常に何かに苛まされていた。
ただひたすらに、彼にとって唯一のもの、まだ見ぬその何かを信じるしかなかった。
そんな風に何かにすがろうとする心持を心底女々しいと彼自身は思い、この世界のどこにもないはずのものに、何を期待するのかと自分を叱責する。
己に嫌気がさすほどに心に傷を作り続けていたというのに、それすら、彼は見て見ぬふりをしていたのかもしれない。

人々にとっての長い長い25年を彼は時々想像する。
彼もまた経た25年であるが、他者が送ったその年月を思うことは、ただの想像であると彼はわかっていた。
ウォーレン・ムーンを筆頭に、その「唯一」のものを待ち続けた者達が、反乱軍として決起したと耳にしたあの日もそうだ。
彼は、決起した人々がこの25年間何をしていたのかを考えた。
答えはあまり難しくはない。
帝国にかしずかずに命からがらの逃亡生活を送っていたのだろう。
そのための資金をどうやって調達して生きてきたのかはわからない。どれほどの苦労をし、どれほどの犠牲を払い、自分達が自分達であるために逃げていたというのだろう。しかし、どれほど厳しい追っ手がつこうと逃げ切れたことは、あの占星術士ウォーレン。ムーンのおかげだとは容易に想像が出来る。

(やつらは己の信念を曲げることなく、亡きグラン王やこの国への忠誠を胸に、いつの日も背くことなく生きていたのではないか・・・)

そうでなければ、そうも容易く決起を出来ようはずがない。彼はそう考えた。
25年という年月は長い。少なくとも彼はそう実感していた。
どれほどの忠誠を持っていても人が変わるには十分すぎる年月だし、過去の生活よりも大切なものを手中に収めるにも余りある年月だ。

(決起するに恥じない生きかたを送ってこられた人間だけが、選ばれたひたむきな者なのだろうな)

(俺は俺があるべき場所を、彼らとは違う所に見出してしまった。そのことは、過去の俺への決別であり、不徳だ)

彼は、民の命と生活を守るために、ある意味ではひたむきではあったが、ある意味では薄情このうえない行為を繰り返してきた。彼は、自分が選ばれた人間ではないことを重々承知していた。
領民を守るために、帝国の犬とそしられることにも慣れた。
いや、慣れたと思いたかった。
体の中に抑圧された歪んだ感情が溜まり続けていることを彼は感じていたけれど、それも気のせいだと思い込もうとしていた。
そうでなければ、今までの彼の25年は無意味なものになってしまう。
自分は、帝国の犬だ。
どれほどにそしられようと言葉を返す必要はない。
そして、自分は、もはや決起した人々と共に歩むことなぞ出来ないのだ。
自分が捨ててしまったものは、目には見えない形のないものだ。
そうであればあるほど、二度と取り戻すことが出来ないのだろうと彼は深く思っていた。あの時まで。


「この命尽きるまで、共に戦おう」

あの日、目の前に現れた赤毛の女性にそんな言葉を吐き出してしまったことに、彼は自分の耳を疑った。
けれども、疑った耳が脳に伝えるその音は、いつも聞きなれた、多分他の人間には違う風に聞こえているだろう、彼がよく知っている彼自身の声だ。
命が尽きるまで。
戦であれば確かに生死はいつでも隣合わせだ。だからこそ、命尽きる時のことを口に出せるし、共に戦い抜く間柄では何の不思議もない忠誠の言葉だ。けれど。

「そんな約束はいらない」

彼とかなり年の開きがあるように見える、若い彼女は静かに言葉を返す。
あまり抑揚は大きくないが、感情は感じさせる凛とした声だ。
人の上に立つ者、誰もが共通に持つ力を彼は感じる。
言葉に表わすならば、「聞かずにはいられない」声だ、と彼は深く感じ入った。
後ろに束ねた、あまり見たことがないような色の赤毛が、その一軍の中でもひときわ目立った。彼の友の髪の色もまた赤毛と呼べるのだろうけれど、まったく似ていないと彼は思った。けれど、気持ちが引き寄せられるのはその赤毛のせいではない。

「わたしが死んだ後に、わたしの遺志を継ごうなんて思われたらまっぴらだしね」

続いて彼女の口から出た思いがけない言葉に、彼は戸惑う。
何故か彼は、もう一度同じ言葉を彼女に告げようとした。
共に。
戦おう。
不思議と、対象物を限定する文章にはならなかった。それが、口に出す言葉の恐ろしさだ、と彼は気付く。

(帝国と、という意味だと誰もがわかるだろうが・・・)

そう思えば彼の言葉は、まるで永遠の忠誠を誓うかのような含みがあり、そのことに彼自身が最も驚いていた。
傍らにいた、久方ぶりに話を交わす彼の親友は、そのことには気付いていないようだったけれど。

(出会えたのだ)

彼は、そう思った。
彼女は「唯一」のものなのだと。
失われていた半身が、彼女の前で突然戻ってきて、彼が彼であることを何者かに許可された。
そんな異様な感覚に身を震わせた。
それでも、その頃の彼はまだ愚かで−今でもそうだと自分では思っているようだが−人の命を引き受ける器がない人間が、反乱軍リーダーとしてこの先やっていけるのかというわずかな不安を心に抱いていた。彼女の「そんな約束はいらない」という言葉の意味を、彼は正しく理解していなかったのだろう。
そして、同時に、彼女の若さを考えれば仕方がないか、とすら思っていた。
一国の王であれば、民の命を引き受け、臣下達の忠誠をすべて一身にうける心構えが出来ている。
そういう人々が、選ばれた唯一のものではないかと彼は思っていた。
だからこそ彼は自分自身がそうは慣れないと心から思っていたし、そうなろうとも思えなかった。
それでも、彼女こそが彼が求めていた人物だと彼の勘は告げていたし、若さゆえの一抹の不安はこの先の可能性にも繋がるものだと思い込んでいた。


けれど。



彼は、深く後悔していた。いや、後悔というよりは、己の阿呆さに呆れ果て困惑していた。
今になって、彼女があの時自分に告げた言葉の意味を思いつくなんて。それが彼の心を憂鬱にする原因だった。

「わたしの遺志を継ごうなんて思われたらまっぴら」

あの日、まるで世間話のようにさらりと告げられたその言葉。
あんな、あの旅の始まりの始まり、軍としての形式すら存在があやうかった頃から、彼女は知っていたのだろうと、ようやく旅の終わりに彼は気付いた。
一過性の英雄は、戦の最中だけ英雄でいられる存在だ。
その軍を支持するありとあらゆる人間からの「唯一の」人間と崇められ、しかし、その役割を終えれば「唯一のものだった」人間となる。
残酷な人々は、唯一でなくなった人間に対して「その存在がそのまま消えれば伝説になる」とか、「ただの人になった姿を見せて欲しくない」とか、勝手極まりない理想を押し付け、生き方すら強要しようとする。
いつか来る結末や、世の理。
それらが自分にとってどんな形になって返ってくるのかを具体的に彼女が知っていたとは思えない。
それでも、多分なんらかの覚悟の下で、彼女が人々の上に立っていたのだということが今はわかる。

−−先に死ぬのは、多分わたしよ−−

それは、幻聴のようなものだ、と彼は思った。
無理矢理あとづけで思い描く、ただの想像、いや、妄想に過ぎない。
長い長い旅の果てに生きて共にゼノビアに帰還しても尚、そのあてどもない妄想が彼の中に疑惑の種を植え付ける。そして、今にも地表に向けてその芽は伸びて行きそうだと彼は知っていた。



ゼノビア宮の廊下の床は、すっかり美しく手入れをされて光っていた。
硬く冷たい石。騎士達があるけばかつんかつんと音を立てるだろうその石の上を、無表情を装って彼女は歩いてくる。そのわずかに後ろには、いつからかよく姿を見せるようになった元帝国の将軍がいるのを、角からそっと彼はみつけた。
元帝国の人間を側にいくことに、異議を唱える者も多かった。しかし、彼にはわかる。あの男でなければ駄目な理由が確実にあり、そして、あの男がいたからこそ今日の日まで彼女は命を落とすこともなかったのだと。
彼は、そのことに関しては口を閉ざす。
口を出す必要なぞ、ひとつもないのだ。
彼女は、彼を見つけると、ふっと軽い笑みを口元に浮かべた。

「久しぶりだね、ギル」
「うむ、なかなか別働が多かったのでな」

遠くから、人々のざわめきが聞こえてくる。
ゼノビア皇子トリスタンの勝利と帰還を祝って、民衆がゼノビア宮にかけつけた。その狂喜のるつぼに嫌々ながら彼女は今から身を晒すことになる。
彼女の身を包んだ鎧は、今までは帝国軍から身を守るためのものだった。
しかし、今の彼女にとっての脅威は、帝国軍からの攻撃ではなく。
それを思うと、戦に出るときよりも彼の心臓は高鳴り、年甲斐もなく血気盛んな若者のように「さあ、今すぐゼノビアを出よう!」と彼女に叫びだしたくなる。
彼女の傍らに常にいる、気性が荒く、軍や王族といった形式や、様々な規律の意味を気にも留めないあのプリンセスが、既に何度も彼女を説得しているのだろう。そう想像すれば、もはやこれ以上彼やその仲間が口に出すことはないと思える。

何のために彼女は危険にさらされながらここにいるのだろう。
そして、何故、宴にまで出る選択をしたのだろう。

それらは聞きたくもあって聞きたくもないことで、彼はまた口を閉ざす。
ただ、彼は、まだ彼女がその命を粗末にする気がないと、そうであって欲しいと願っているだけなのだ。
彼のただ一つの抵抗は、ほんのわずかな釘を刺すことだけ。それだけが、自分に与えられた許されたことではないかと思う。
彼女の生き方に、彼は口を出すことは出来なかった。する権利は誰にもないと思えた。
口うるさい年長者だと思われることが嫌なのではない。
少なくとも、旅の終わりをどう終わらせるかは彼女自身が選択しなければいけないと彼は思っていたからだ。
どれほどにそれが凄惨なものであろうとも。どれほどのものを彼女が失おうとも。
それほどまでに、この唯一である赤毛の反乱軍のリーダーは、唯一であるがゆえに命をすり減らし、そしてそういった生き方しか出来ないのだと彼はもう知っていた。
だからこそ、あの軍は成立し、成功をした。
そして、彼女は反乱軍リーダーとして最後の最後まで、自分のその生き方を貫こうとしているのだろう。
それを止めることは、これまでの旅を否定することに繋がる。彼女が彼の命を救い、彼の忠誠を跳ね除けたその心を裏切ることになるのだろうと、そんな気がした。
彼のたった一つの釘刺しは、自己満足でもあり、剥き出しの本心でもあった。

「今宵からはそうもいかんぞ」

一瞬のためらいの間。
こんな時だって彼女はまたも、世間話をしているかのようにあっさりと答えるのだ。

「あなたも、好きにするといい」

「ありがたきお言葉」

もう一言、聞きたいとも思った。
本当に。
本当に今宵の宴が終わった後は、彼女はこのゼノビア宮から出て、新たな旅を始めるのだろうか。
そのつもりが、いかほどあるのだろうか。

(命尽きるまでと誓った俺は)

もしも、彼女がこのゼノビア宮から、生きて出てこなかったならば、どうするのだろう。
国を救った英雄として奉られた挙句に、命すらこの国に奪われたならば。

どうもしやしない。

彼にとって、彼女は一過性の英雄でも、勝利の女神などでもない。
男としての愛情の矛先にもならなければ、保護欲など微塵も感じない、ただただ唯一の人物だ。
それを、奪おうと、消そうとする存在が、この世界にいることを知っている。それでも、彼は自分の手でそれを阻止することは出来ないし、するつもりはない。
彼にとっては彼女が唯一の存在で、その生き方を捻じ曲げることなど出来やしない。
馬鹿なことを、と傍らにいる彼が彼女を叱咤しようと、許さない、とあのプリンセスが荒く避けんでも。
命を粗末にしてはならない、とあの妖術士が彼女を諭そうとしても、悲しげな瞳で聖母と呼ばれる少女がみつめていようとも。
ただ、彼は何も言葉にせず、彼女の生き様を感じるだけだ。



「ねえ、ギル」

思い出す遠い日の夜の彼女の言葉。

「この前、ギルバルドはさ、あなた自身が、忠誠に対してひたむきな人間ではなかったって・・・そうわたしに言ったのを覚えている?」

旅の合間にちらりと交わした、珍しく口にしてしまった本音を、彼女は許してくれずにずっと覚えていたのだと知った。
魔獣の病にヘルハウンド達が立て続けに倒れたときに、進軍のために捨て置くことが出来ず、寝ずの番をしていた彼のもとに彼女がやってきた夜。
野営の陣中に、薄く月明かりが差し込む。時折見張り達の確認の声が小さく彼らの元にも届いていた。
そんな中、突然なんの話をするのかと戸惑いながらも、「忘れてくれなかったのか」という意味の溜息を彼はついた。
それを聞いても、彼女は許してくれなかった。
大きな木の根元に腰掛けて、土の上に胡座をかいている彼の顔を覗き込んだ。

「だから、自分は無念のグラン王のため、民衆のため、決起なんて出来ない意気地なしだって。わたしに言ったこと覚えている?」

覚えている、と答えれば、更に彼の顔をまじまじと見てから、彼女は肩をすくめた。

「ギルバルドは、賢いのに、大馬鹿者ね」

「俺が、賢い?」

「そう」

親子ほどの年が離れている女性に、「賢い」と言われるとは。苦笑を隠せずに、わずかに疲れた表情で彼は言い返した。

「それこそ、そちらが大馬鹿者だというものだ」

「25年間自分の誇りに背き続けることは、誇りのためだけに生きるより、ずっとずっと自分のすべてをかけなければいけないのに」

まるで彼の発言を無視するかのように、彼女は自分が言いたいことを続けた。前髪をかきあげて、小さな笑みを作って。
一拍おいてから、まるで花の美しさを口にするように、少しばかり優しく甘い誘惑の響きまじりで音を発した。

「ねえ、ギル。それは、ひたむきさだよ」

ああ。
彼がようやく搾り出した言葉は、はっきりと「そうか」という音にもならない、とても曖昧で、恥じ入るような声だけで。
小娘が何をいうか、とか、25年を知った風に言うな、とか。そんな反発の声は不思議と彼の中のどこからもあがってこなかった。
やはりそんなときでも彼は何も言葉に出来ず、彼女の生き様を感じるだけだ。
彼女のように生きられない自分が出来ることなぞ、それが全てで。
命尽きるまでこの心が、彼女と共にあれば、それで良いと彼は心底思った。
たとえ、彼女の命が先に尽きようと。
彼女の遺志を継ぐつもりなぞなく、ただ、彼女が彼にとって唯一の人間だということはなんら変わりがない。それだけだ。



「「それは、ひたむきさだよ」」



頭上に星がわずかに瞬く、ゆるやかな風が吹く草原。
彼は、聞きたくない声が聞こえたような気がして振り返った。
ゼノビア宮はとうに見えなくなっており、彼が振り向いても彼を乗せたケルベロスは歩みを止めるわけでもない。
ああ、もしも、彼女がまた彼にそういったならば、今度こそ力いっぱいの否定を返せるだろうに。
かさかさと揺らめく木々の音。かさかさとケルベロス達の足にまとわりつく草の音。
木も草も、この土地を誰が治めていようと、誰がどんなことを考えていようと気にすることなぞないはずだ。
けれども、人間はそうはいかない。
自分達はなんて悲しく醜い生き物なのだろう。
木も草も、誰を崇めるわけでもないし、自分が自分であること以外に何一つ意味を持たないのではないかと思える。

「・・・今頃」

ぽつりと呟いた言葉はそのまま止まった。
今頃、どうなっているのだろうか。曖昧な疑問は形にならず、喉の奥で消えていく。
利口なケルベロス達は、自分達の主の言葉が自分達に対して発せられたものではないことをよくわかっている。
彼が何に思い煩っていようと、目的地に向かって進むだけだ。
きっと、どんなに遅くとも、明け方くらいには「どうなっていたのか」を知ることになるだろうと彼は自分に言い聞かせた。
覚悟と言えるような覚悟を彼はしていなかった。
彼女は好きにしろと言った。
それは、多分あのプリンセスやあの将軍、他にもいる、彼女をよりどころとしている人々に言い放った言葉に違いないと彼は思った。
そして、彼女自身にも。ならば。

そうだ。好きにするといい。
それが彼女の生き方で、そうであるからこそ自分は今ここに生きているのだし。

彼は、彼女が彼女らしくあること以外、何ひとつ求めてはいなかった。
そして、その彼女らしさというものすら、なんの定義もない。
あえて言うならば、彼にとっての唯一の人間であり続けること、それだけだ。たとえそれが彼女にとって重荷になったとしても、この気持ちは変わることはないのだと思う。
もちろん、彼の口から一生彼女に語られることだって、ありはしないのだ。

彼は、ゼノビア宮から離れ、彼女を待つ。

彼に出来ることはそれだけだ。
夜風に吹かれながら、彼はケルベロス達と共に落ち合うはずの場所に向かう。
ただただ、彼女に再会出来ることだけを願いながら。




Fin


モドル