五感

天幕に入ってきたランスロットは、手に持っていた地図をシエラに渡した。ウォーレンから託されたものだ。
ありがとう、確認するから待っていて。いささかそっけない彼女の言葉に素直に頷き、彼はじっと言葉を発さずに、腰を下ろして待っていた。
兵士達が動く声、音がざわざわと彼らの耳に届く。
夕暮れ時、女性兵達はせわしなく食事作りをしているのだろう。男性兵達は日が完全に落ちる前には天幕をすべて張り終えなければいけないし、魔獣に積んだ荷も降ろし終わっていないはずだ。天幕張りはカノープスが指示を出しているし、荷の運搬はギルバルドに任せてある。
いささか疲れ気味のシエラを慮って、あまり天幕に人を近づけないようにと部隊長達に声をかけたはずだが、兵士達はなかなかそこまで気が回らないらしく、おーい、おーいと呼び合う声までが時折響く。
それを気にしないふりをシエラはしているが、時々カンに触るのか、眉間に軽いしわがよるのを、ランスロットは気付いていた。
「うん、ありがとう。そうそう、ウォーレンに一つ届けものを頼まれてくれる?借りていた本なんだけど」
「本ですか」
「わたしが持っていくのが筋なんだけど、どうせ、ウォーレンのところに寄るんでしょう?」
「はい。お預かりしていきましょう」
シエラはランスロットに背を向け、天幕の奥に置かれたあまり大きくない木箱を開けた。それは、誰の荷物が入っているのかみわけがつかないほどに当たり前にそこら辺にある木箱だった。
ギルバルドがいつも「シエラの荷物なぞ、どれかわからん」とぼやいているけれど、「見られて困るものなんかない」と彼女は答える。いや、むしろ、なくされて困るものもないしね、と付け加えると、ギルバルドは肩をすくめるものだ。
実際、彼女は荷物らしい荷物をもっておらず、「自分の身につけられないようなものは持ち歩かない」と豪語していた。それでも彼女用に木箱をウォーレンが用意したのは、「その方が恰好がつく」かららしい。彼女は「麻袋で十分なのに」と眉をしかめていたけれど。
と、不意に彼女は小さく声をあげた。
「・・・痛ッ!」
「シエラ殿?」
「あぁ、なんでもない」
荷物というほどの荷物がないはずなのに、シエラはしばらく背中を丸めてごそごそと箱の中をあさっていた。それほどに物が入る大きさでもないのに・・・とランスロットがいぶかしんでいると、ようやく彼女は小さな本を手にして、体を斜めにしたままちらりとだけ振り向いた。
「これ、ウォーレンに返してちょうだい」
かしげた体で、視線のみランスロットに向けるシエラ。その不自然な体勢に文句をいうわけでもなくランスロットは本を受け取った。
「は、わかりました」
「地図は、このままうけとっていいわね?写しはウォーレンがもっているんでしょう?」
「はい」
「じゃあ、その写しを元にして、部隊長達に配って。できれば日が暮れる前に。わかってるでしょうけど」
「はい。わかりました」
「よろしく」
そう一言添えて、シエラは再び彼に背を向けてごそごそと木箱の中を整理しだした。
「・・・シエラ殿」
「なに」
「頬を見せていただきたいのですが」
彼の優しい声が、背後から彼女の耳に入り込む。その言葉の意味を彼女は即座理解し、観念したように振り返った。
「見えていた?」
「少しばかり」
シエラは小さく笑いながら、ランスロットを真正面から見た。少しだけ日にやけた頬の、長い前髪に隠されそうで隠し切れない場所に小さな擦り傷があった。先ほど木箱の底をあさっているときにあげた声は、その傷のせいだろう。そして、彼女はそれを隠したくて、不自然な体勢で彼を見ていたのに違いない。
「これくらい、どうってことない」
「血が出ている」
「もう、止まったんじゃないかな」
ぞんざいな仕草で、手首と肘の間−彼女は手袋をしていたから、素手の部分を選んだのだろう−で自分の頬をこする。
その場所に目を落とすと、体内からじわりとにじんだばかりに見える、彼女の血が彼女の腕に付着していた。
「・・・止まって、ないようね」
「ヒーリングを」
「いい、これくらい」
「その・・・触れるわけでは、ありませんから」
彼のその言葉に、彼女は言葉を失った。
ぽかんと口を開けたまま彼を見上げ、それから、さもおかしそうに笑い出す。
「なに、それ。ランスロット。触れるとか触れないとか、なんのこと」
「あ、いや。その」
慌てて彼は弁解をした。
「ヒーリングをするときに、触れられると思って嫌がる人もいますので」
「何いってる。普段プリースト達だって触れないでやってるのを知ってるのに」
「そうではなくて」
ランスロットは苦笑を返した。
「我々パラディンは、彼女達のように回復のスペシャリストではありませんから、ヒーリングを習得したばかりの者は治癒の力を送る際に、素手で傷口にできるだけ手を近づけないとうまくいかない場合もあるのですよ。わたしはパラディンに昇格したばかりですから、御心配かと思いまして」
「あぁ、確かに・・・」
そう答えて、もう一度シエラは自分の頬をぬぐった。残念ながら、また自分の腕を赤く汚す結果となる。
「木箱のね、内側が、ささくれていて」
そう言い訳をする。ランスロットは心の中で「安物をもってこられたのだろう」とウォーレンのことを思い浮かべた。
それから、それ以上は何も言わずにヒーリングの呪文を唱える。
神の加護を得た、聖なる癒しの力が天幕の中に満ちる感覚をシエラは感じた。確かに彼のヒーリングはプリースト達のそれよりも随分力が弱く感じるけれど、それでもシエラの頬にあったかすり傷はすぐにふさがってしまうようだ。
が、先ほどこすったせいで、頬の上、そして彼女の腕には血の跡が残ってしまうに違いない。
ふ、と小さく息を吐いて、ランスロットは治療を終えたことを告げた。
「今、布を濡らしてきましょう。拭かないと」
「それくらい、自分でやる。ありがとう。じゃ、本、頼んだわ」
「あ、はい」
確かにそこまでは過保護かな。そう思ってランスロットは素直にそこは引き下がった。
では、と声をかけて、彼は天幕の外に出るために入り口の布を開ける。
彼が出ようとしたときにわずかに天幕に差し込んできた日は、明らかに夜がせまりつつある夕焼け時の光で、彼の長い影を天幕の中に描く。そんな方角に向けて天幕を張ったのか、とシエラは小さく舌打ちをしたが、ランスロットはそれに気づかないまま出て行った。
朝の日が入り込まない方角は寝坊するにはいいが・・・そんなことを考えているうちに入り口の布がぱさりと落ち、いっそう天幕の中が暗く感じさせる。
「・・・バッカじゃない、ランス」
小さく呟いてシエラは、既にふさがったはずの傷口を再びぐい、と腕でぬぐってみた。当然腕には新しい血はついてこない。ただ先ほど自分がつけた血の跡がかすれて、少しばかり黒ずんで残るだけだ。
「触らないから、ですって」

触らなくたって。
触られているのと、変わらない。

(恥ずかしいわたし)

何か、物を受け渡したときに、ほんの時折触れるランスロットの指と自分の指。
彼が鎧を身に着けているときならば、彼の手は手甲に覆われているし、彼女もまた普段から手袋をしているから、素手と素手で触れ合うことは滅多にない。それでも、出会いから今までで、彼は素手で彼女の腕を掴むという無礼−大抵彼女が「おいた」をしてしまった時だったけれど−を犯したこともある。そしてまた、彼女もまた、めずらしく袖まくり−それはなんらかの作業中だからなのだが−をしている彼の腕を無理矢理ひっぱったこともある。
触れたことが無いわけではない。
だから、いつでも思い出せる。
自分が触れた彼の腕の感触。逆に、自分の腕をつかんだ時の、彼の手のひらの厚さ、柔らかさ。
都度それを敏感に感じ取るのは、自分が彼に対して特別な感情を抱いているからだ。
情けない。情けなくて泣けてくる、とシエラは思った。いや、実際のところは泣けてこない。むしろ、笑いがこみあげてくる。苦しい笑いが。
目が彼を追うことを欲する。それを必死に抑えていた。
耳が彼の声を求める。それくらいはいいかと思っても、そうそううまく彼の声が耳に届くわけでもない。
彼の臭いも時折感じることがある。人は多かれ少なかれ体臭を持つが、彼のそれはあまり際立っていないし、それを感じる機会だって少ない。カノープスのそれの方が余程シエラにとっては身近だ。だけれども、地図を二人で覗き込むとき、魔獣に乗るとき、何度も何度も繰り返している普段の行為の中、時折感じることがある。臭いを嗅ぎつけるときとまったく気にならないとき、その差は気候のせいなのか体調によるものなのかはわからない。誰にも言うことはないだろうが、彼女は彼の臭いが好きだと思う。それこそ、特別な感情からくるものだ。

(阿呆だな、本当に)

本当に触れなくとも。彼が触れていたものを渡されたとき。体に与えられたわずかな振動。ほんの少しの刺激ですら、それは彼から伝えられたもので、シエラはそれが嬉しい。そんな程度のことで喜ぶ自分の子供っぽさを彼女は嫌と言うほど知っている。

子供っぽさ?

その言葉で納得すれば、自分はこれ以上失望しなくて済むのではないかとシエラは思う。
けれど、やはり自分の中に湧き上がったその言葉を否定する、更に自分の心の底から響く声。

それは、子供っぽさではないよ、シエラ。

何故か、その声は自分の声ではないように彼女は思う。
そう、誰の声かとイメージをたどれば、それは。

「誰の声だ、これは。男の声」

ウォーレンの声か。ギルバルドの声か。思い当たるのはそのあたりだ。
カノープスではない。彼はこんな込み入った感情を、彼女の体の中から引きずり出そうとする男ではない。
そんなことを考えてからシエラは声をたてて小さく笑った。
馬鹿馬鹿しい。何を考えているんだ、わたしは。
シエラは地図を無造作につかんで木箱の上に放り投げた。



「シエラ」
声が聞こえた。けれども、彼女の体は重く、何もかもわずらわしく思えて返事をする気になれない。
「シエラ、起きろ。うなされているぞ」
「・・・るさ・・・」
「シエラ」
「うるさい・・・」
「うるさいか。わかっている、そんなことは」
嫌というほど慣れてしまったその声。もたれかかっていたその体がごそごそと動いて、彼女を動かそうとする。
「こら」
シエラは包まっていた毛布を剥ぎ取られ、寒さに身をすくめた。それでも瞳を閉じたままで、膝を抱えて寒さをアピールする。
「起きたか」
「寒い」
「昨日リリーと寝ていたからだろう」
確かにそうだ。昨日は毛布が足りなかったためリリーと寝ていたし、実際に温かかった・・・と、ついつい騙されそうになってシエラは言葉を返した。
「ふざけないでよ。今あなたが毛布はいだからでしょうが。仮眠少ししていいっていったのはあなたなのに」
しょうがない、と観念して彼女は目を開け、体をゆっくり起こした。
そこには、嫌というほど慣れてしまった、自分を愛しているらしい男−クァス・デボネア−の姿があった。彼は、足元にある小さな小さな火種を絶やさないように、枯れ枝を丁寧にそれへ差し込んだ。
彼の少し離れた斜め後ろには、アイーシャとリリーが眠っているだろう天幕がひとつ。そしてその横にはギルバルドとサラディンが眠っているはずの天幕がひとつ。
彼らは旅の途中であり、そして森の中で野営をしている。火の番をするために二人で起きていたのだが、めずらしく眠そうな素振りを見せたシエラの様子を見て、仮眠をとったらどうかと進言したのは確かにデボネアだ。そして、天幕で寝たら仮眠ではなくなるから、とその場で毛布に包まってシエラはうとうとしだしたというわけだ。長い夢を見ていたような気がしたが、多分そんなに時間はたっていないのだと思う。
「あれ以上うなされていたら、君が叫ぶと思って」
「・・・ありがとう、クァス」
「困るだろう。アイーシャ達が起きる。それでなくとも今日は月があって寝づらいのに。どうした、ラシュディの夢でも見たか」
「そんなもの、見やしない」
そういってシエラは赤毛をかきあげた。嫌な名前を出す。けれど、本当に見ていた夢の中の人物の名を言われれば、それはもっと耐えられないな、と彼女は心の中で呟く。
何故、あんな昔のことを夢に見たのだろう。夢は現実と空想が入り乱れるものだが、明らかにあれは過去の出来事だ。それ以外何も入り込んでやいなかった。気分が悪い、とシエラは思う。
目の前にいるクァス・デボネアは、彼女にとって信頼出来る数少ない人間だ。けれども、それ以外の、自分達の感情、関係を特定出来る言葉を彼女は知らない。強いて言うならば、「わたしを愛している男」と言うしかないのだろうが、そんな言葉を彼女は決して自分から言いたいとは思ってはいない。その男に、あんな過去を思い出していたなぞ、口が裂けてもいいたくない、とシエラは小さな溜息をついた。
「もう少し、寝るか」
「・・・そうしようかな・・・うん。大丈夫・・・もう、うなされない」
「なら、いいが・・・天幕で寝たらどうだ」
「いや、大丈夫。軽く寝れば、すぐ元気になる。すこーしだるいだけ。クァス一人にするわけにいかないから」
いつもなら平気な夜番だが、少しだけけだるい。女の体の周期には、困ったものだ。そう口に出すわけにもいかず、シエラはおとなしくもう一度毛布にくるまる。
「横になるかい。よりかかっていたのが、悪かったのかな」
「・・・そうかな。ううん、でも横になったら今日は土が冷たくてね」
多分そうだ、寄りかかっていたのが悪かった、と再びシエラは心の中で呟いた。
見慣れてしまったデボネアの顔、聞きなれてしまったデボネアの声。
寄りかかって感じるデボネアの体温やその臭い。
あまりにそれが近しいものになっていくことに、シエラの心が痛む。
自分が愛している男ではなく、自分を愛している男のそれが、より近しいなんて。
それが心苦しくて−誰に対する心苦しさかはわからないが−あんな過去の夢を見たに違いない。
「どうした」
「いや、なんでもない」
「今日の君は、おかしいな」
「そう?」
「大丈夫なら、寝ろ」
そういってデボネアは、毛布に包まったシエラを引き寄せた。
いやらしさの欠片も感じないその動作が、どれだけの深い感情から生まれているものなのかを知るものは少ない。
彼女が体重をデボネアに預けても、彼は特に動かないし、女を慈しむように彼女の髪を撫でたり肩を抱いたりはしない。
それがどれだけありがたいことなのか、だけはシエラにもわかっている。
だからこそ、心が痛んで、そして。
自分が求めているぬくもりが、彼ではないということを、いやというほどに冷静に感じることが出来る。

ランスロットから与えられた、ありとあらゆる刺激。
彼の武器が。あの冷たい剣の先が触れた自分の首。
わずかに震えるだけでも彼女の肌を傷つける、その緊迫の時間に、彼が必死に自分自身を律しようとしていたことを、その剣先の刺激がシエラに伝えていた。
いっそ、切られたら。
彼から与えられた、体の痛み。
ありとあらゆるものを、忘れたくなくて。ひとつでも多く与えられたかったのに。
―−−いいや、今でも、与えられたいのだ。
彼の動きで揺れる空気。
呼吸でわずかに振るわされる空気。
それが今の自分と繋がっているという妄想だけが、自分を慰めている。
同じ世界に生きているということ。彼がいる世界にいるということ。
会うことがかなわないとわかっていながら生きられるのは、どこかで繋がっていると信じているからだ。
寒い日に、皮膚を突き刺す風も、暑い日に、体全体に絡みつく熱気も、どこかで。
いつまでも自分がすがりついているその妄想を、笑いたければ笑うがいいだろう。
そう思えば、誰よりも先に自分自身が自嘲の笑みを浮かべるのだけれど。

それは、子供っぽさじゃない。悲しいまでの、女々しさだ。

「クァス」
デボネアにもたれかかったまま、瞳を閉じたままでシエラは問い掛けた。
「なんだい」
いつもと変わらない声が返ってくる。
「わたし」
「うん」
「女々しい?」
「はは」
予想外の、優しい笑い声。シエラは驚いて目を開けてデボネアを見上げた。
「君は、女らしい人だ。そうだね、それは・・・」
デボネアは少しだけ、眉根をひそめて。そんな表情すらわかってしまう月明かりが忌々しいとシエラは思う。
「君の本意ではないのだろうけれど。それでも、そうでなければ、いまだゼノビアは帝国の手の中だっただろうね」
「・・・そ、ね」
「だろう?」
正しい言葉だ、とシエラは思う。
1人の男のために戦い抜いて、多くの屍を築いてきた彼女のことを、この男は否定をしない。もちろん、肯定をするはずもないが。
わかっている。だから、言う。それだけのことだ。
「クァスは、女々しい女が好きなの?」
「ははは、それは想像にまかせるよ。少なくとも」
「うん」
「ノルンは、いい意味でも悪い意味でも女らしい人だったね。彼女を幸せにしようと、昔は本当に心からそう思っていた。生きる道を違えたとしても、実現出来るのではないかと。女らしい女性がが好きかどうかはわからないが、そこまで思った人は、女らしい女性だったというわけだ」
過去に愛していた女性の名をデボネアが口にすることは珍しい。
シエラは驚いて体を起こした。
時折、うっかりと。
デボネアがノルンを愛していたこと。帝国の人間だったこと、いや、自分以外の何かに属していた過去があると忘れてしまう。
それほどに今はあまりに近くて。
「・・・デボネアは、ノルンの姿や、声とか、覚えてるの?」
「?そりゃあ、まあ」
「体に触れた?」
「それは、多少は」
「覚えている?ノルンの臭いとか、ノルンの」
「シエラ」
決して険しさの無い声。それでも、名を呼ばれただけで、どれだけ阿呆なことを自分が言っていて、そして制止されても仕方が無いことだとシエラは気づいた。
ばつの悪そうな、恥じ入った表情。彼女のそういった顔を見ることは、滅多にないことだ。そしてまた、彼女がそんな顔を素直にさらけだす相手もそう多くはない。
「・・・悪かった、その、立ち入ったことを聞くつもりじゃなかったの」
可愛らしいことを。
デボネアは苦笑をして、言葉を続けた。
「悲しいことに」
「え?」
「・・・人は、忘れるように、出来ているものだ」
「それは、悲しいことなのかしら」
「さあね。君が」
「・・・」
「忘れたい、と思っているならば、悲しいことではないし。忘れたくない、と思っているならば、悲しいことだろう?」
それはそうだ。
なかなかデボネアはいいことを言う、とシエラは思う。
「あなたが、「忘れさせてやろうか」なんて、陳腐なこと言う男じゃなくて、ありがたいわ」
「そんな根拠の無い言葉、言う男の気が知れないね」
そういうところが、好きだ。
その思いは言葉にしないまま、シエラは瞳を閉じてまたデボネアに寄りかかった。
こういうことをする自分はずるいと思うし、そこがまた女々しいと思う。
きっとデボネアはアイーシャにだろうがリリーにだろうが、信頼している仲間相手ならば誰にだって肩を貸すだろう。アイーシャもリリーも彼女達の方が拒むとわかっているけれど。
こんなに体温も臭いもわかるほどに密着して触れ合っても、耳元で囁かれても。起き抜けに、その端正な顔立ちが至近距離にあっても。
心が、動かない、とシエラは思う。
いや、動かないわけではない。「温かいな」「気持ち良い声だな」「今日は機嫌が悪そうだな」そういった、素直な感想が生まれるだけだ。

もっともっと。
あなたを見たい。声を聞きたい。触れたい、触れられたい。あなたを感じたい。
そんな欲求はデボネアに対しては湧き上がらない。

「クァス」
「うん?」
「わたしに触っているとき、何か、感じるの?」
曖昧な問いかけだ。デボネアの体が、ぴくりと軽く動いた。その振動にわずかに動揺して、シエラは瞳を開けゆっくりと彼の顔を見上げる。
それへ、デボネアは少しだけ呆れたような顔を見せた。アイーシャには決して見せることがない、少しだけ投げやりな表情。そして、彼は穏やかに答える。
「君は、自分が愛した男に触ったときに、何も感じなかったのかい」
「・・・・あぁ・・・」
たったそれだけの彼の言葉で、シエラは落胆した。自分自身に。なんという恥ずかしい問いかけを自分はしたのか。そして、なんという申し訳ない問いかけを。
「・・・また、失言だ」
シエラは静かにそう呟いて、息を吐いた。
デボネアは「何故」とも「どういうことだ」とも、声をあげなかった。何も心を荒げていないように冷静に答え、いつもと変わらない視線でシエラをみつめる。
本当は、動いている。彼の心も。
もっと簡単で、もっと明るい話ならば「おいおい、なんてこというんだい、君は」と彼は肩をすくめるに違いない。
また、傷つけた。
わかっていて、また自分は言ってしまう。
そして、傷つくことを知っているのに、彼は自分にこんなに近しくて、いつでも彼を感じられる場所に立っていてくれる。
帝国を、生まれ故郷を捨て、恋人だった女性にすら何も言わずにこの男はシエラの横に、いや、わずか後ろにいつでも控えている。そうであるために、彼はひとつひとつ茨の道を選んできたのだ。
そして、彼がその覚悟をしていることで、シエラは時折重圧を感じることがある。どれほど彼がそれを口にださなくとも、いやというほどにシエラはわかっているのだ。ふと振り向いて、彼が歩んできた轍を見るほどに、今ここに彼がいるということは、あまりに重く、辛い。そんな感情に彼女が苛まされることも彼はわかってくれているのだろう。
お互いに傷つけあう立場にありながら、自分がつけた傷を癒しあうことは出来ない。
別々の何かから傷つけられた傷を癒したり、自分自身が貶めようとしている部分をお互いに救っているだけだ。
それだけだ。たったそれだけしか、手を差し伸べあえない。
だから、シエラは彼を愛することは出来ないし、彼もまた、自分を愛してくれ、とシエラに言うことが出来ない。
わかってしまっているということは、こんなにも静かに、そして重苦しい関係を生み出すのか。
彼は後悔をしていなかったし、シエラも後悔をしていない。
この、傷つけあいながら慈しみあう関係を。

「君は、何も感じないんだろう?こうやって身を寄せても」
平静を保った声。
やはり、気持ちの良い声だ、とシエラは思う。
きっと、ノルンも過去にそう何度も思ったに違いない。いや、それ以上に、この男の声を、もっともっといつでも聞かせて、と渇望していたのかもしれない。本当のところはわからないけれど、シエラはそんなことを思った。
「違う。そういうわけじゃない。そういうわけじゃないけれど」
口に出した言葉はそれだけで、それ以上の言い訳を彼女は自分で許さなかった。
彼女の肩を抱き寄せるデボネアの手に、ほんの少し力が入った。添えていただけの手が、彼女の体をしっかりと支える手になっただけの、本当にわずかな力だ。
とてもとても都合がよい、便利といえば便利で。けれど、傷つけあうためにいるような、この男。
自分を愛してくれる男の腕の中とはいえ、それは、自分が愛した男ではない。
その残酷な言葉を発するわけにはいかず、彼女は口を閉ざす。
何も感じないわけではない。
ただ、「違う」とわかっているから。    
あの、熱に浮かされたような、もっともっとと求め続ける、狂気に似た感覚。
もっと深く触れて。もっと吐息を感じさせて。もっと、あなたの近くに、あなたを感じさせて。
それを、もっともっと、と追求していっても、性交には結びつかないのだろうな、とシエラはぼんやりと考える。
それをすればこの渇きに似た感覚が消えるとは到底思えない。
「女々しい」
シエラは苦渋に満ちた声を絞り出した。
いつまでもいつまでも囚われて、いつまでもいつまでも求めている自分を忌々しく思える。
ぱちぱちと火がはぜる音が、ようやく耳に届いた。
いや、もしかするとずっと聞こえていたのかもしれないが、彼女の耳が欲している音はそれではなかったのだろう。
「クァス、火・・・」
「そんなもの。君が気にすることは無い。それを見てるのは、俺の役目だ」
「じゃあ、わたしは何をしたらいい?」
自分の口から思いも寄らない言葉が飛び出た。シエラは驚いて、再び瞳を開けてデボネアを見上げる。彼もまた彼女をみつめ、視線が強く絡んだ。
一体、何を言っているんだ。
そうデボネアが言うと思っていた。
どう考えても、彼女が発したその言葉は、話の前後を無視した無意味に思えるものだったから。
だというのに、彼は。
「ここにいてくれ」
そう言って、彼女を更に強く引き寄せた。シエラは「違う」と感じ取りつつ、身を軽く竦めた。
普段彼が強く自制を行い、決して見せることのない、愛情を強く思わせる男としての抱擁。
先ほどわずかな力が入った彼の手から与えられた刺激と、これっぽっちも違うものだ。
(ああ、クァスは本当は、いつだって)
こうやって、抱きしめたかったのだろう。
それにわずかに驚いたけれど、彼の先ほどの言葉が脳裏に甦ってくる。

君は、自分が愛した男に触ったときに、何も感じなかったのかい

もっともっと、と追い求めているのは自分だけではないのだ。
距離が近くても、遠くても、同じなのだ。
この先、一緒に生きようが、二度と会えることがなかろうとも。
それに気づくことがあまりに遅かった自分に嫌気がさして、シエラはデボネアにしがみついた。
どれだけ身を寄せたとしても、彼もまた、自分と同じように求め続けるのだろうとわかっている。
わかっていても、ただただ身を摺り寄せて、ほんのわずかな隙間がないほどに。
頭を彼の胸元にこすりつけ、赤い髪が摩擦しあってざりざりと不快な音をたてるのも気にせずに。
ただただ、自分の存在を、彼に与え続けようと彼女は彼の腕の中でもがいた。

お願い、もしも、わたしとあなたが同じなら。
わたしに切られたい、なんて、思わないで。

どこまでも利己的な自分を打ち消すように、シエラはデボネアの腕の中でもがき続けた。



Fin

モドル

シエラとデボネアは、夜中に会話をするのがどうも似合っているようで。ランスロットとシエラは朝〜夕方。そんなイメージがあります。
秘めた思いを悟られたくない相手とは、夜は出来る限り会話をしないほうがいい。
彼女がランスロットと二人で真夜中に会話をすることは、出来るだけ避けていたんじゃないかと勝手に思っています。
だからこそ、デボネアとは真夜中の会話が多い。
何を悟られてもいいから。それがどんな曲がった愛情なのかが、デボネアに伝わっているのかはわかりませんが。