こんな形の再会なんて


ぱらぱらと雨が降ってきた。
飲んで陽気になって歌いだしたギルダスをミルディンに預けて、家から追い出したのは半刻以上も前だ。
まあ半刻もあれば、いくらギルダスがふらふらのよれよれのぐでんぐでんでも、なんとか宿舎に辿り着けるのではないかと思う。あるいは、呆れたミルディンをそっちのけでギルダスがどこか女の部屋にでも行っているかもしれない。
彼ら二人がそろって休暇であることは珍しい。
その前夜にあれだけ飲んでしまって、貴重な休暇を睡眠に費やさないといいんだけど。
ほんのわずかな時間しかそんな優しい気持ちを意識することはない。
カノープスの家といっても、それはゼノビア宮から離れた寂れた場所にある小屋に近いものだ。旧魔獣軍団長らしからぬ場所にらしからぬ家で生活を営んでいる。
玄関の扉を開けるとそこには大きな部屋が一つあり、全ての日常生活はそこで行われている。起床から就寝までのほとんどがその部屋で補えて面倒がない。他には、物置という名の埃だらけの部屋−ギルダスに言わせれば、ここを片付けてくれれば女を連れこめるのに・・・というわけだが−が一つ。使いもしないかまど等がある、一般家庭では「台所」なんて言われているだろう場所が一つ。たったそれだけの小さな家が、カノープスのお気に入りの城になっていた。
扉を開ければすぐに呑めてすぐに眠れる天国だ、とギルダスが喜ぶと、お前の部屋も同じだろう、とミルディンが苦笑する。
彼ら二人は帰国をして職務に復帰したものの、彼らにも、彼らの主にも様様な思惑があり−それについては彼らの口からそのうち語られることだろうが−ゼノビア騎士団の宿舎に入ることとなった。そんな彼らが酒場と宿舎以外で最も気楽に羽根を伸ばせる場所は、カノープスが朝起きるたびに実際に翼を伸ばしている、そのなんでも部屋だった。
とはいえ、これは羽根を伸ばしすぎだ。
ギルダスがせめて眠ってしまえば、ミルディンが片付けてくれたというのに。
まあ、そういうときもあるさ、とカノープスは面倒そうに荒れた部屋の中を見渡した。
「お?」
ギルダスが好き放題に散らかしたテーブルの上には、ごろごろと色々な大きさの酒瓶が転がっている。そのうちの一本は、ミルディンがカノープスのために持ってきてくれたものだが、実際はギルダスがほとんど空けてしまった。それでも怒る気がしないのは、ギルダスという男の気持ち良さをカノープスは知っているからだ。
瓶達の間に、見覚えがある、けれども決して自分のものではない何かがちらりと見えた。
ミルディンのハンカチーフだ。ミルディンという男は仕事ぶりや見た感じほどは細やかなたちではないけれど、酒などで手がべとつくことを嫌うため、こういう席では濡らした布で指先を拭くことが多い。
それをギルダスは「潔癖すぎるんだ」と馬鹿にしたように言うけれど、ミルディンがそんなものではないことを彼もカノープスも知っている。
そうせずにはいられないほど、ギルダスが時折ひどい飲み方をして辺りを散らかし、アルコールをぶちまけるからであり、つまるところはギルダスが原因なのだ。
もちろん、ギルダスとて、いつもそんな呑み方をする阿呆ではない。彼だって酒を覚えたての子供というわけではないのだし。今日は特別だった。そういう時があっても悪くはないし、それをカノープスが知っているからとついついたがが外れたのだろうと容易に想像はついた。
「うっわ、これも酒くせーな」
ハンカチーフをつまみあげる。どうやらギルダスがはずみでこぼした酒を嫌というほど吸い取ってしまったらしく、相当なアルコール臭がにじみ出てきた。
(どうせなら金でも忘れていってくれりゃーいいのに)
そんなあり得ないことを思いつつ、更にもっと大きい忘れ物がもうひとつあることにカノープスはまたまた気付いた。
ギルダスのシャツだ。
2,3杯呑んだあたりで「暑い」と言って無造作に椅子にかけたものが、そのままだらしない姿で、ギルダス当人の背にごしごしとこすられてしわだらけになっていた。
さすがのミルディンも自分のハンカチーフを忘れるくらいなら、相方のシャツに気付く余裕だってなかったのだろう。
カノープスは空気を入れ替えるため窓を全開にした。雨が入ってくるけれど、ひんやりとした夜の空気は少しアルコールが入った体に心地よい。それから、水場に行ってハンカチーフを水に浸して絞った。手を濡らすことでわずかではあるが酔いが引く気がする。
いつもならば酒の匂いが充満した家の中でも平気で眠ることが出来るが、今日はそんな気分にはなれなかった。
久しぶりに二人と飲んだ。
彼らの小さな友人が他の大陸から近々−やってきた手紙から判断するに、それは本当に数日後やそこらだと思われるが−来るという知らせをうけて、三人で喜び合った。
そのおかげで久しぶりに思い出話もした。
そして。
失った戦友の話を久しぶりにした。
ランスロット・ハミルトンとウォーレン・ムーン。
直接の部下だった二人よりも、自分の方が彼らの死を信じきれていないことをカノープスは確信してしまった。
そう思ったらうまく酔うことが出来なくて、それに気付いたギルダスが酒をあおりながらカノープスに何杯も勧めてきた。
が、何故か今日に限って酔えないカノープスを前に、結局ギルダスの方が酒に負けてしまったというわけだ。
ハンカチーフを適当なところに吊り下げてからテーブルの上に残った酒類だけ処分する。
雨足はやや強くなってきた。
ぱらぱらとした音からばちばちと打ちつける音に変化してくる。心持ち風も吹いてきた。
雨は嫌いだ。
髪が、翼が濡れることは不快だ。
雨を見ると突然引きずり出されてくる、思い出したくない思い出も彼の中にはいくつもある。
開け放した窓から入り込んだ雨が、音をたてながら床の色を変える。
そろそろ閉めなきゃな。
そう思いつつもなんだかどうでも良い気持ちにもなってきた。
このまま床がどんどん濡れていっても、何も困りやしない。
いっそ、ベッドも思いっきり水浸しにしてしまってもいい。
ただその状態を見たいだけでその後の処理を考えることなく、非常に無責任にカノープスはそんなことを思った。
ランスロットとウォーレンを失ってゼノビアに戻ったカノープス達を待っていた現実はなかなかに厳しく、以前にも増してトリスタン王は眉間の皺を深く刻みながら執務に明け暮れている。
王妃ラウニィーがその傍らに寄り添って、時折強い口調で、時折優しく、うまく彼の気持ちを制御してくれているようにカノープスには見えた。
トリスタン王にとってランスロットもウォーレンも、「短い間ならば」不在でも支障がない人物だった。ゼノビアから彼らを追放扱いで出立させた時にそれなりの覚悟があったことは明白だったが、それでも両名を失ってカノープス達が戻ったことは大きな落胆を彼にもたらした。
彼らが再びゼノビアに腰を据えることが出来るようになるまで、かなりの時間を要した。こうやってまた以前のように城勤めを出来るようになるまで季節が二つも移ったのは、ほとんどがトリスタン王の体裁のためだ。それでも、それが必要なことだと彼はよくわかっていたし、自分の親友がここにいればきっと黙ってそれに耐えるのだろう、と何度も自分自身にいい聞かせて愚痴もこぼさなかった。自分もようやく年齢相応になってきたのだろうか、と都合が良いように考える。
何よりも煩わしかったのは、それまでほとんど音信が途絶えていた、ランスロットやウォーレンを知る者たちがこぞってカノープスに会いにやってくること、そのことだった。
旧知の仲と言うには語弊がある、「その当時知り合いだっただけ」の人物でも、噂を聞いて、カノープスとなんの話も出来なくとも尋ねて来たりする。決してカノープスは付き合いが悪いわけではなかったけれど、正直それは煩わしかった。
いっそのこと噂も知らないほど遠くにいて音信普通になっている知り合いの方が何倍もましだ。
そうぼやけば、「葬式と婚礼は、二度と会えないはずだった人間と社交辞令を交し合う場ですからね」とギルダスは笑ったものだ。確かにそうだ。
カノープスは、その言葉が正しいということを立証するように、何人も何人にもランスロットやウォーレンについて「離れ離れになっていた時に起こった出来事で、わからない。行方不明なだけだから、生きているかもしれないし」と決めた文章を言い続けるしかなかった。
人の死の上で成り立つ再会は、やはり素直に喜べないものだ。
それでも会えば再会を祝うしかないだろうし、そうそう誰にでもつれない素振りを見せるわけにもいかない。これについてはさすがに愚痴を我慢出来るわけもなく、ミルディンやギルダスに不満をぶちまけることもあった。
ようやく落ち着いて日々の生活が以前と変わりなく動き出して二月。
こうやって酒を飲みながら、失った人間のことについて口に出せるようになった。
そのことがありがたい反面、カノープスの中に言葉にならないむなしさを広げていく要因にもなっている。
いつか失うとしても、あんな形で失うとは思っていなかった。
その残酷な現実についていけない自分の女々しさと、実感がわかない自分への苛立ち。
聞こえていたはずなのに気になっていなかった雨の音に、カノープスは突如はっと顔をあげた。少しの間ぼんやりしていたようだ。
木の床が、どす黒い色に変化するほどに水を吸った。
あまり濡らすと腐ってしまうかもしれない。
それでも別に構わない、と、うまく動かない頭でカノープスはぼんやりと思った。
先ほどまでギルダスが座っていた椅子−もともとそれは普段カノープスが座っているものなのだが−に腰掛ける。
テーブルの隅には、奇跡的に酒の洗礼から逃れていた、今日の話題の主役とも言える手紙が今にも端っこから落ちそうに不安定にはみ出ていた。
カノープスはその手紙を取って、しげしげと眺めた。
(あいつ、さすがにもう身長は伸びてないだろうなぁ)
書いて良いのかどうか悩んだのだろう、とすぐに気付く一文がその手紙にはしたためてあり、また、悩んだ末に手紙の主がその文章を書いてしまったことが、カノープスに更に時の流れを実感させる。
有翼人であるカノープスは、普通の人間よりも寿命が長い。それでもこの一年は殊更速いと思えてしまうのだから相当なものだ。

−−−ランスロットさんの国を、この目で見たいとずっと思っていました−−−

なんて言葉だ。ランスロットの国、だとよ。わかっていてあいつは書きやがるんだ。
それは、ランスロットが忠誠を誓って、その命をかけた国、という意味なのだろう。
確かに俺も、別れるときにそんなことを口走ったけれど、文章で、文字で表されるとそれはよりいっそうせつないものにすら思えるな。
カノープスは舌打ちをしてから、たった一本だけ残しておいた酒瓶に直接口をつけた。
雨の密度が増して、それぞれが奏でる音が多くなり、やがて「ざーっ」と一粒一粒の雨粒を意識させない音に変化していく。
ぐいと酒を煽ると咽喉の奥が一瞬にして熱くなり、その熱を更に広げようと液体が体の中を落ちていく感触がよくわかる。飲み干すにはちょっとばかり量が多いかもしれない。
カノープスは顔をしかめて手紙を置いた。しばらくそれを見ていたが、やがて、情けない声をあげながら立ち上がった。
「はーーああ、っと」
そろそろ寝よう。それに限る。酒の入った頭でいつまでも何かを考えていてもそれは時間の無駄と言うものだ。
さすがに寝る前には窓を閉めよう、と足を踏み出した時、こんな時間にありえない音が突如聞こえた。
どん、どん。
どん、どん。
それは、規則正しいノックの音。
真夜中の雨の中の訪問者にカノープスはあまり驚かず、ゆっくりと二回分のノックを聞いてから扉の方を向いた。
まさかミルディンがハンカチーフを取りに戻ってきたとは考えにくい。
とはいえ、ギルダスがシャツを取りに帰るほど元気なわけもない。
どちらにせよ、窓を開け放している家にまともにノックをするなんざ、敵ではないだろうとは思うけれど。
手紙の差出人にしては、あまりに不躾だ。
カノープスと彼は友人ではあってもそういう関係ではない。こんな常識から外れた時間にやってくるほどくだけた間柄、かつ、彼がそれが出来る性格だった記憶はない。
「誰だ」
カノープスは決して声を荒げずに尋ねた。
応えはない。
それから、壁に立てかけてある棍棒に手を伸ばして、もう一度尋ねた。
「誰だ」
彼の声の響きから、先ほどより扉に近くなったのを聞き取ったのか、訪問者の声が小さく、けれどもはっきりと彼に対して命令を放った。
「早く開けなさい。冷たいったら」
「・・・」
女性の声。
カノープスは棍棒に伸ばした手を止めた。
それと同時に呼吸も。
先ほどの熱など既に残っていないと思っていた喉の奥は、空気の流れを止められてじんわりと熱さを取り戻す。
カノープスは一瞬の間を置いてずかずかと扉に近付き、閂を一気に引き抜いた。彼が扉を開けずとも、閂を引いた音を聞いて訪問者はすぐさま体重を扉に預けながら彼の家に転がりこんでくる。
ばしゃばしゃと雨の音がひときわ高くなり、黒い塊が室内に侵入した。
それから、まるで何事もなかったかのように扉が閉まり、音がまた小さくなる。
カノープスは閂を引き抜いたまま、まるで阿呆のように扉の脇に立ち尽くしているだけだ。
「ちょっと、なんで窓開けっ放しなの?・・・いやだ、酒臭い。なるほどね」
頭から足先まで覆っている全身の黒いフードつきローブはびしょ濡れで、おかげでぽたぽたと床を濡らしてまた色を変えていた。
「・・・窓、今、閉める」
「まだ、閉めなくていいわよ。閉めるのはこっち」
そういうと訪問者は呆けているカノープスを押しのけるように動き、自分で扉の閂を閉める。がたん、と音をたてて閂は役目を果たすに必要な場所に収まった。
「酒臭いか?」
「部屋が?それとも?」
自分から始めた話題だとういうのに返事もせず、カノープスは訪問者のローブを手荒く剥ぎ取った。あっ、と小さな声をあげて、ローブの下から現れた人物は、カノープスの肩にすら届かないほどの身の丈だ。
袖のあるローブだったため手首付近でひっかかったけれど、それに気付いて本人が丁寧に脱ぎ、床にそのまま落とした。黒くて冷たい、水を吸って重くなった物体がばさりとカノープスの足に絡むようにうずくまる。
雨は、風にのってフードの中にまで入り込んでいたのだろう。
ローブで防ぎきれなかった雨が顔を、体を濡らし、薄暗い室内のほのかな灯りでもまつげに乗った水滴が光る。胸元まで伸びた赤い髪にも雨は滴っており、袖が短い見慣れない白いブラウスを濡らしている。
そこには、彼が知っているけれど、知らない女が立っていた。
カノープスは、目を細めて彼女を見つめた。彼女のそんな恰好は見たことがない。
たったそれだけで年月の流れを感じるなぞよくよく自分は単純な男なんだなと、アルコールが入った頭で思いつく。
それから、わずかな躊躇の後、声を出す。
「シエラ」
久しぶりに呼ぶその名前。
口に出してみるとそれはあまりにも呆気なく音になって、そして耳に帰ってくる。
そうだ、どうして今までこの名前を口に出すことが出来なかったのだろうか。
まるで、今までその名を呼ぶ権利を剥奪されていたように彼の中で封印されていた、とても短くて華奢な響きを持つ名前。
自分がその名を口に出して、音としてこの空間に響いたことに驚いたように、カノープスはもう一度その名を口にした。
「シエラ」
まったく普通の村娘と変わりがない膝丈の白いスカートに白いブラウスを彼女は身につけていた。スカートから伸びた足は、彼が見知ったシルエットよりもわずかに丸みを帯びたように見えるが、気のせいだろうか。
そんな服を着るような生活に戻ったわけではないことは、目をこらして見なければわからないくらいの大きさの、そっと背中側に回している腰に下げた剣の存在で一目瞭然だった。必要があってそんな可愛らしい、彼女に不似合いな−いいや、むしろよく似合っていると褒めてやるたいぐらいなのだが−恰好をしていたのだろうとわかる。
「なあに」
なあに、と聞かれれば、カノープスは自分がその問いに対する答えを持っていないことを知る。
彼は両腕を伸ばして、彼女の二の腕をがっしとつかんだ。以前と変わらず、固い腕だ、と思う。
「酒臭いか?」
次はその言葉をもう一度繰り返して腕から手を離し、カノープスは覆い被さるように彼女を抱きしめた。背に腕を回せばすっぽりと彼女はカノープスの腕の中に入り込み、長い髪が彼の太い腕を濡らす。
「酒臭いわよ。部屋だって、カノープスだって」
「嫌か」
「酒臭いのは嫌よ。でも」
冷たくなっている彼女の体温が、むき出しのカノープスの腕に伝わる。同じように自分の熱が、腕の中の小さな塊に伝わっているのだと思うと、恥ずかしさよりも喜びの方が彼には強く感じられた。
「カノープスのことは、好きだからいいわ」
シエラは、恥ずかしいことをさらりと言う。
そういうところは嫌な女だと思いつつ、どうにもこうにも嫌いになれない、けれども永遠に恋愛対象としてみることも出来ないのだろう腕の中の女に、拗ねたようにカノープスは答えた。
「・・・そういうことをいうと、泣くぞ」
普段の彼ならばそんなことを言うはずがないとシエラはわかっている。再会の感激だけではなく、アルコールの洗礼を彼の脳が受けているせいだな、とシエラはにやにや笑った。
「ギルバルドに笑われるわよ?妹さんのところにお忍びで行ってるはずだわ・・・会っているのか、姿をそっと見にいっているだけなのかはわからないけれど。あなたも会おうと思えば会える距離でしょう」
「なに、ギルバルドが!」
驚きの声をあげてカノープスはシエラから体を離した。ついぞ誰からも聞かなくなっていた彼の親友の名前は、驚くほどの威力で彼を正気に戻した。その様子を見て、彼女はまだにやにやと笑い続けている。
「やっぱり、女より友情なのね。それが、カノープスらしい」
「馬鹿なこと言うな、お前とギルバルドを量るときに女と友情なんてモンで置き換えられるか」
「そう?」
シエラは小さく笑みを残しながら、顔にかかる濡れた髪をかきあげる。
「・・・お前」
改めてシエラを上から下まで眺めて、カノープスは絶句した。それをどう思ったのかはわからないが、シエラは覗き込むようにもう一度笑顔を見せた。
「変わらないな、カノープスは」
「・・・お前は」
「何」
お前は、ちょっと、変わっちまったな。
そう言おうとして、カノープスの言葉は咽喉に詰まった。
抱きしめたときに感じた体の柔らかさは彼女が明らかに女性になってしまったのだという実感を彼にもたらし、けれども、まっすぐに彼を見つめるその視線の強さは間違いなく今でも「戦」を続けている厳しさを彼に伝える。
剣は、保身のためだけではないか。・・・そんなことがあるはずがない。
彼女の瞳に感じた「それ」が思い過ごしであって欲しいと願いつつも、髪をかきあげた彼女の腕の美しい筋肉は衰えていないことに気付いてしまった。ところどころにつくかすり傷や切り傷の跡は彼が知っている過去の彼女よりも増えている。
しかし、カノープスの鼻をくすぐる柔らかい花の香りは、明らかに彼女の体が放つものだ。雨の匂いとまざったその香りは、不思議と彼女によく似合うと思える。
戦う人間が、香りを振りまくようなことをするはずがない。それは彼女も重々知っていることだ。それでも、ローブの下の着衣のように、なにかしらのカモフラージュのためにつけているのだったら合点がいく。
香りなんてものは彼が知る彼女が到底つけるとは思えない。だからこそ、そのアンバランスさが妙に悲しく思えた。
「なんだよ、どっちなんだよ。普通の女になったのか、それとも」
それは、カノープスの願望だ。
そうであってくれたらいいと思っていた、情けない男の願望にすぎない。
変わっているのは短くも長くもあるわずかなはずの年月がもたらした成長のせいであって、彼女の本質も、彼女の居場所もきっと変わってはいないのだ。
それを知りながら、カノープスはそんな言葉を口にしてしまった。
「まだ、酔っているのね」
まるでまだ雨の中にいるように濡れそぼっているシエラは、苦笑いを浮かべてカノープスを見つめている。
「あなたの方が馬鹿だわ」
「何が」
「普通の女ならこんな時間に男の部屋に来るわけないし、それに」
シエラは穏やかにカノープスに言った。
「普通の女なら、好きな男がいる国に、好きな男が生きている間に戻ってこられるはずでしょう。馬鹿ね」
「・・・」
カノープスの視界が涙で歪んだ。
(つくづく俺は涙腺がもろい男だ)
なんでいつも自分は、こんなに馬鹿でどうしようもない、惚れてもいない女のことを考えて泣いてしまうんだろうか、とカノープスは思う。いや、答えはもう出ている。
それは、この女が本当に、馬鹿でどうしようもないからだ。
でなければ、誰もが当然だと思うはずの「久しぶり」の一言ぐらい言うものだろうし。もちろん、自分も彼女も。
息を深く吸った瞬間、カノープスの胸の奥でじわっと何か、大粒の粉がひろがったような、なんとも表現しがたい何かが蠢いた。
子供がむしょうに泣きたくなる気持ちというものは、こういう気持ちなのだろうか。
悲しいとか辛いといった体や心に痛い感情ではない、なんともおぼつかない心許ない、といった感情がカノープスの全身を支配する。一瞬にしてそれらの感情は彼の体を細い線のように駆け巡り、手の指先、足の指先の内側までもを震えさせたように感じた。
聞きたくなかった言葉だけれど、それを聞かされたことよりも、彼女に言わせてしまった自分の間抜け加減に気付き、次は涙と共に怒りを覚えた。その上、自分の口から、あの聖騎士の死を彼女に伝えなくてもいいのだという安堵すら抱いてしまった自分の身勝手さまでも気付けばもっと自己嫌悪に陥ったことだろうが、運良くか悪くか、彼はそんなことを考えるに至らなかった。
彼の中に生まれたそんな感情を知ることなぞなく、まるで重要なことでもなさそうに、シエラはさらりと言葉を続けるのだ。
「あの人とウォーレンのじーさんがいないから、わたし、ここにいられるんじゃないの」
それは柔らかな表現だけれど、その言葉の裏にある現実が、違う言葉になってカノープスの胸を射抜くように思える。
人の不在を表す言葉は、本当は優しい言葉なのだと生まれて初めてカノープスは気付いた。
不在者がいつかここに帰ってくるとか、ここにはいないけれど、どこか他のところにいるとか。不在者への言葉に込められた様様なニュアンスは、生きている者に対する物言いに相応しいのだと、こんな形で知ることになるとは。
けれども、失った彼らに対する本当の言葉は、そんな言葉達ではないのだ。
違う。馬鹿は、俺だ。
カノープスは搾り出すように、うめいた。
「悪い、シエラ」
「何が」
「それでも、俺は、お前がここにいてくれて嬉しい。俺は、お前に会えて・・・」
その言葉に驚いたようにシエラはぴくりと眉を動かして、肩を軽くすくめてみせた。
「ほんっと、馬鹿だわ」
ぐい、と髪から滴り落ちる水滴を拭うシエラ。
「タオル貸して。そんな可愛い泣き顔見せるのはその後にして頂戴」
まったく、そんなへらず口の一つや二つを。
「男の泣き顔はうっとうしいけど、可愛いものね」
あの聖騎士相手にいくらでも言って、キスの一つや二つもしてやればよかったんだ。
そう思ったら、カノープスは無意識に、シエラを再び引き寄せた。抵抗のない軽い体が、腕の中に納まる。
カノープス、タオルを貸して。
自分の胸の中でそんなどうでもいいことを繰り返すシエラの息遣いを感じる。
きっとこの女は自分が口にした言葉で傷ついているの違いない、とカノープスは思った。
雨はいっそう激しい音に変化し、角度を変えた風は、窓から室内に入り込む雨を広い範囲に撒き散らす。
床は黒く黒く。
まるで彼らの居場所を奪うように、色を広げていくのだった。


Fin


モドル