いつか一人になりそうで


物心がついた頃、彼女には名前がなかったという。
名前を授けてくれたのは一人の少女だったのだと教えてくれた。
晴れ渡った朝の草原の木陰で、二人は時間を潰すためにのんびりと座っていた。
アイーシャはスカートの裾の中でそっと足を横に流して行儀よく。そして、隣の彼女ははしたなくも足を開き−スカートに隠れているからそれは構わないのだろうが−後ろに回した手でぺったりと地面に手をついて体重をかけていた。
「神様なんて信じない」とよく口にする彼女は、聖職者である自分のことがあまり好きではないのだろうとアイーシャは思っていた。だから、彼女にそんな打ち明け話をされたときは、内心飛び上がりそうになるほど驚いた。
「リリーっていう名前がどういう意味なのかって人に聞かれるけど」
その質問をする人間の気持ちは、わかると思う。似た音を重ねる名前は、この大陸では少々珍しい。
なんと言う名前の愛称なのかと聞かれることもあるという。
リリーはリリーよ。そう答えると、やはり、名前の意味を聞いてくる人間がいるらしい。
「馬鹿な質問するわよね。ほんと、頭悪いったらありゃしない」
そう毒づいて、とても簡単だけれど可愛らしい音の響きを名にもつ彼女は笑う。年に似合わぬ妖艶さを醸し出すその笑みは、アイーシャが真似が出来るものだとは思えない。
リリーは最も簡単な表現で言えば「美人」と言われる部類に入る女性だとアイーシャは思う。きっとリリーと話したことがない人間は、まったく彼女を知らなくとも「プリンセスという類稀なる才覚を要される称号を持つ女性だ」と言われれば「なるほど、あれほどの美しさ、気品がある女性、ただものではないと思った」なんて間抜けなことを言うだろう。騙そうと思っているわけでもないはずなのに、リリーは知らない人間から外見で勝手な判断されることが多い。それは、「聖職者であれば誰もが優しい、聖母と呼ばれるような人物であればよほどの清らかさを持ち合わせているものだろう」なんて風に肩書きについて回るものとはまったく違うだけに厄介だ。
美人というものはたいして損なんてしないとアイーシャは常々思っていたけれど、それは物事の側面を見ない子供の単純な意見だということに最近彼女は気付いた。リリーは何もしていやしないのに、口を開いただけで人々を失望に陥れることが出来る。それはまったく彼女のせいではないというのに。
彼女はただ彼女らしく振舞うだけで、何ひとつ悪いことをしていなくとも「なんて女だ」と人々に言われてしまう。それは、偉大なる肩書きを持った人間の子供として生まれたアイーシャにも心当たりがある「好きでそんな風になったわけじゃない」という本人の苛立ちを無視した、他者の勝手なイメージの結果だ。
「どんな名前だって、それは「あたし」っていう意味に決まってるのに」
世の中には同じ名前を持つ人間がいるということを彼女が知らないわけではない。
アイーシャだってそんな話を持ち出してリリーと無意味な討論をしたいわけではないから曖昧に笑顔を返す。
出会った頃から、ずっとリリーと付き合うことは容易ではないと思っていた。
決して悪い人間だとは思わない。
人を種類で分けることは何の意味もないことだとアイーシャは知っていたが、それでも、自分が感じた「違う」という感覚を完全に無視することも、そう感じた自分を簡単に忘れることも出来るはずがない。
ロシュフォル教会の導き手としてみなに期待をされていたアイーシャが、シエラ個人への尽力を約束して共にゼノビアを出立したことをリリーがどう思っているのかだって当然不安だったし、こうやって共に旅を始めてからも完全に打ち解けているとはいい難かった。
彼女達のリーダーであるシエラはそれをよく知っていたけれど、「仲良くしてね」なんていう無意味なことを一度だってアイーシャには言っていない。それはシエラからの信頼の現われだろうし、人の心を動かすために言葉がなんの効力も発揮しないことがあるということを知っているからだとアイーシャは思う。
「リリーさんのお名前は、とても綺麗だと思います」
「ありがとう。あたしも、そう思うの。わたし、この名前好きなのよ」
リリーの斜め上から木漏れ陽が薄っすらと差し込み、逆光の柔らかな眩しさに目を細めつつリリーを見つめ、アイーシャの口端はまったく自然に軽くあがった。誇らしげなリリーのその言葉を聞き、アイーシャはなんだか嬉しい。
自分の名前を好きだと言えることは、なんと素敵なことなんだろうと思う。
アイーシャは、自分が幼い頃、自分の名をあまり好きではなかったことを覚えている。今ならばリリーのように答えることも出来るだろうが、それでも、今のリリーの言葉にはかなわないような気がする。
短い草が広がる場所に白い小さな鳥が降りて来て、ちょこんちょこんと跳ねるように歩く。
リリーはそれをみつけて目で追っていた。しかし、ほんの少しでそれにも飽きたらしく、ぷい、と鳥から目をそらした。
その一部始終をアイーシャは見ていたが、アイーシャはアイーシャでこれからのことを考えていたため、何かとりたてて口に出すほどの感想もなかった。それに、いちいち世間話をしなければ間がもたない、とあせるような仲でもない。彼女達はお互いに、特に面倒ではない、「そこにいても困らない」というだけの間柄だった。
やがて、しばしの沈黙を打ち破ったのはリリーの方だ。伸ばしていた足を折り、膝を抱えるようにぎゅっと丸くなって背中を起こしながらアイーシャに聞いた。
「・・・サラディンは教会についていって、なんかやることあるの?」
「そういうわけではないでしょうけれど」
リリーの問いにうまく答えられずにアイーシャは困惑の表情を浮かべた。
今まで他の大陸に渡っていたため、ロシュフォル教と異なる宗教にアイーシャは触れてくることが出来たが、やはりアイーシャの信仰は変わることはなかった。特に、主神をフィラーハとして崇めているローディス教に接したことで、よりいっそうその気持ちは増していた。ロシュフォル教もローディス教も、共にフィラーハを主神と崇めているけれど、教義には違いがあった。アイーシャはローディス教の聖職者のように神と等しい存在として人々に崇められたいとは思っていなかったし、彼女が知るローディスの教義と今のローディス教国全体で知られている教義とでは、どこかで間違いが生じたように歪んだ認識がされているのではないかと思える。本当はフィラーハ教に触れる機会もあれば、と思ってはいるのだが・・・。
アイーシャはこれからサラディンと共にこの地方のロシュフォル教会に行くことになっており、デボネアとサラディンが荷運びのロバを調達してくるのを待っているところだった。アイーシャとサラディンでは魔獣を簡単に借りて操ることは難しい。その点ロバならば何度かアイーシャも連れ歩いたことがあるため、のんびりとした短い旅には良いと思われる。
何故教会に赴くのにサラディンが一緒なのかといわれても、彼にもアイーシャにもお互いの必要性は本当はないのだ。むしろ、デボネアが共に来て、護衛騎士と僧侶という組み合わせである方がありがちで何をするにも怪しまれにくい。それなのに、何故サラディンとアイーシャが二人で動くのかといえば、リリーを御することが出来るのがシエラとデボネアだけという面倒ないきさつがある。それをリリー本人に言って良いのか悪いのか、アイーシャは量りかねていた。
ギルバルドとシエラはゼノビア方面へ行くため、昨晩別れた。更に途中で二人は一度別れることになるはずだ。ついていきたいとだだをこねたリリーを止めたのは、驚くべきことにデボネアだった。
「デボネアさんと待っていてくださいね」
本当は「いい子で」と付け加えたくもなるのだが、リリーがどんな反応をするのか心配になってアイーシャはその言葉は心の中だけで呟くことにした。
「嫌だけど、しょうがないね。シエラがそうしろって言うんだもん。アイーシャと一緒に教会なんか行く気にはなれないしさ、女の様子見に行くギルバルドについていくわけにもいかないし・・・教えなきゃよかった、あんな話」
女の様子、か。
リリーは言葉があまり綺麗ではない。今は慣れたけれど、やはりあまりそれがいいことだとアイーシャは思っていない。
それでも今はその言葉の汚さよりも彼女の拗ねた物言いにアイーシャはついつい同情をしてしまう。
「ま、あたしとシエラが一緒だと目立つしね・・・」
自分に言い聞かせるようにリリーはそう呟いた。

ランスロット・ハミルトンとウォーレン・ムーンが死亡したという情報を、最初に手にいれてしまったのはリリーだった。
彼らとカノープス・ウォルフが国外追放されていたという話を聞くよりも先にその訃報を聞いてしまったわけだから、まったくもって何をどうシエラに伝えて良いものか、リリーは慌てふためいた。
教えるもんか。
そう思ったことも事実だ。
思ったけれど、それが絶対に自分に出来ないことだと知って、リリーはデボネアに打ち明けた。
それは、自分の口からシエラに言うことの恐怖に耐えられなかったからだ。
「・・・なんだって?」
デボネアはリリーに聞き返した。それは、この男にしてはとてもめずらしいことだ。
「リリー、もう一度」
「ランスロットとウォーレンが、死んだって」
「それは確かな情報なのか」
「・・・知るわけ、ないわ」
「リリー」
確かな情報なのか、と聞いてはいけないことだった。
不確実なそんな情報で、リリーが動揺して自分に最初に打ち明けるはずがない。
「あたし達がローディスを出た後で、ローディスのランスロット・タルタロスが色々動いていたでしょ」
「ああ」
それからぽつりぽつりとリリーは、今までの自分達の動きを、デボネアに順を追うようにつぶやいた。それらのことはデボネアだってわかりきっていることで、何を今更リリーが思い出話をするように話しているのかと彼はいぶかしんでいた。
「あの子が守ろうとしたあの男は、ゼノビアからいなくなってたらしくって」
「・・・」
「ヴァレリア島で行方不明になったらしくって、死亡扱いでカノープスが一人で帰ってきたらしいの」
「・・・行方不明なんだろう?じゃあ、死亡では」
「ローディス教国、ずっとヴァレリア島の民族紛争に手、出してたでしょ」
ようやくデボネアは、リリーがどうして今までの自分達の軌跡を辿っていたのかを理解した。
何がどうなってランスロット・ハミルトンが死亡したのか、その事情は知らなくとも本当は彼らは良いのだ。
ただ、ひとつ。
シエラが間違った判断をしたために、ローディスがゼノビアに手出しをすることを防げず、その結果ランスロットが死んだのでなければ、それで。
デボネアは深く嘆息した。珍しく普通の町の普通の宿なんぞに泊まる機会に恵まれた。それを喜び、珍しく夜の町の酒場にリリーがうろうろと紛れこんだ結果がこの情報だ。
彼女がそういった場をうろつくと大層話題になってしまう。他の大陸から戻ってきたばかりなのだから、あまり目立った行動はするなとシエラに言われていたにも関わらず、この女はふらふらと一人で出かけてきた。せめて一声かけて誰かと言ってくれ、とシエラから重々言われていたにも関わらず、だ。そこでシエラはデボネアにリリーの護衛と「回収」を頼んだというわけだ。渋々リリーの回収をするために酒場にデボネアが向かえば、あまり芳しくない表情のリリーがローブに身を包んで出てくるところに出くわした。
宿に戻る前に、相談が。
リリーがそんなことをデボネアに言うなんて、なかなかにありえないことだ。に大事が起きたとデボネアは瞬時に判断して、宿屋と酒場の中間くらいにある−二人がいてもおかしくない、寄り道していたのだと言い訳できるような−通り道で、閉店している道具屋の前に立っている看板を支えるポールにリリーはもたれかかりながら話し出した。
デボネアもまた皮の胸当てだけという軽装だったため、通りがかる人々にそこまではじろじろと眺められることはなかった。夜の闇にまぎれ、遠くから聞こえる酒場の笑い声や、遅くに帰る出稼ぎ鉱夫の行き来の中、ひととおりの話を聞いてデボネアは嘆息した。
リリーの話だけではどう判断してよいのかわからない。
物事の推測はあくまでも推測であって、安直にそれが事実になるわけではないことを彼は知っている。
繋げたくない事柄がリリーの言葉にはたくさんちりばめられていて。
ランスロットが死亡しても行方不明のままでも、別に良いとデボネアには思えた。
どちらにしても彼自身からすれば「残念だ」とコメントする以外にどうもしようがないことだったし。それに、問題なのはデボネアとランスロットの関係やそれによって発生する感情ではない。
あの男が生きていようが死んでいようが、シエラは未だにあの男のことを想っているし、そしてそのことを口には出さないのだし。
けれど、あの男が守ろうとしたゼノビアを、シエラはシエラのやり方で守ろうとしてローディスに行った。
だというのに、それが何の役にも立たずに、既にローディスの毒牙がゼノビアに向けられていたのだとしたら。
そして、それ故にあの聖騎士が・・・
「まだ、シエラには黙っていた方がいい。出来るか?」
「わからない」
リリーはうつむきがちに首を横に強く振った。
「リリー」
「わからないの」
デボネアからの問い掛けには思考が止まったままで、正しい答えを導き出そうという働きがまったくなされない。
リリーはデボネアを見上げた。
「あたし、馬鹿だから」
「・・・何を言うのかと思ったら」
デボネアは苦笑を浮かべて、リリーに背を向けて扉に向かった。
「君とシエラは、そんなところは似ているんだね」
「え?」
「彼女も、自分のことを馬鹿だと言う・・・今は、黙っていられるな?」
「・・・やってみるわ」
少し考えるように唇を噛み締め、リリーは看板を支えているポールにしなだれかかった。まったく、そのとおりで何かに頼りたいに違いない。それはデボネアも同じ気分だ。
「ああ」
それ以上多くは語らずデボネアは「行くぞ」という素振りを見せた。あまり長く二人でいて、シエラに勘付かれてはよくない。
彼ら二人が揃って何か相談ごとをしているなんて、日常ではありえない光景だ。リリーはデボネアのことを決して好きではなかったし、シエラを抜きにするような話題が彼らの間で発生するのは、他でもないシエラのことに決まっている。誰もがそれを−シエラ本人もそうだし、アイーシャでさえも−知っている。知っているからこそ、時間をあまり割くことは許されない。
「君は馬鹿ではないよ。もちろんシエラだって」
デボネアはそう言い放つとあっさりと先に歩き出した。それは、デボネアが何かをしてくれる、ということだ。
「しょーがないじゃない。あたし、馬鹿なんだもん」
そうでなければ、こんなときにデボネアに相談なぞするものか。
歯軋りしてリリーは先を歩く彼の背をにらみつける。それは、デボネアに対する感情ではない。不甲斐ない自分に対する激情の現われだ。
自分に出来ることは、ほんの少しのことだけだ。
シエラのために自分がどうなれば良いのか、何を出来るようになれば良いのかもわからない。
誰かに教えて欲しい、なんて調子が良いことは思わない。それを判断出来るほどの知力が欲しい、とリリーは心から思っていた。
彼女に必要なものが知力だなんて、きっと彼女以外の誰もそうは思わないというのに。

リリーは自分が身を飾ることについてもさほど興味はなかった。シエラがそうであるように。
けれども、シエラが喜んでくれるから、リリーは髪を梳き、紅を唇に置き、男達の視線を集めるほどのその美貌に更に手を加える。
デボネアと出会った当時、シエラ率いる反乱軍には多くの人間が集まり、中には若い女性兵も多くいた。今現在共に旅をしているアイーシャだってそのうちの一人だったし、デボネアの恋人だったというノルンという聖職者もそこにはいた。
彼女達はとても美しいと素直にリリーは思う。
リリーよりもずっとアイーシャやノルンは女性らしく、男性の心を引く可憐さを持ち合わせていると思う。いや、それらは彼女達二人に限ったことではまったくない。
リリーからすれば男性兵なんて、「いいな」−つまり、性欲の対象と感じることなのだが−と思う男と、シエラが一定以上に好意を寄せる男と、シエラに対して一定以上の感情−愛情であれ憎悪であれ−を持つ男以外は心底どうでも良い存在だった。
けれども。
女性兵に対しては多少心中穏やかではなく、誰を見ても「みんなあたしより可愛い」とリリーは感じ、そして焦るのだ。
どうしたらいいんだろう。
シエラは、あたしが綺麗にしていれば喜んでくれるけど、他の女の方がみんなみんな可愛らしいじゃない。
捨てられたら、どうしよう。
思い余ってそんなことをシエラに言って、怒られたことがある。
「捨てるって、どういう意味」
「だって、あたしはシエラに拾われたんだもの」
「拾った覚えはないわよ」
「拾ってくれたでしょ」
「拾ってないよ。一緒に行こう、って誘っただけだわ」
いつも同じ問答になり、シエラは少し寂しそうに笑うのだ。
「もし、リリーがわたしに拾われたなら、わたしだってリリーに拾われたってことになるのにね」
彼女の言葉の意味がわからず、リリーは「ああ、本当にあたしってば、馬鹿なんだ」とがっかりする。
がっかりするけれど、それを顔に出せばまたシエラは悲しそうな表情を見せるから、決しておくびにも出さない。
シエラは、あたしに名前をくれた。
あの時までのあたしは、生きていないと同じだったんだもの。
名前がない人間は、たとえ生き物であっても、そこにいないと同じだし、生きても死んでも、この世界にある何もかもが影響を受けない、いなくてもよかったものなんだもの。
体を触ろうとする男達だって、あたしがいなければ、おんなじよーに名前がない他の女の子に手を伸ばすだろうし。
ただ、死ぬときに倒れた場所が、自分の死骸で覆われるくらい。そこが土だったら、もしかしたらいい肥料になるかもしれない。それくらいしか、この世界への影響なんてないんだ。
そんな自分に名前をくれて、シエラは拾ってくれた。だから、自分は生きているのだ。
訴えたところでシエラは涼しい顔をするだけだ。
シエラはリリーのそんな気持ちをよく知っているのに、リリーからの強い忠誠を素直に受け入れてくれない。
それが、リリーには時折歯がゆい。
シエラは困ったように「リリー、リリー」と名を呼んで、リリーを落ち着かせようとする。たとえ、リリーがとてもとても静かに落ち着いた状態で言葉を紡いでいても。
名前がない子供が、名前をもらったときの気持ちなんてわからないでしょう。
不思議とその言葉をリリーはシエラに向かって告げたことはなかった。
何かがリリーに制止をかけている。その言葉は言ってはいけないことではないかと、目に見えない妙なものがリリーを抑えていた。その妙なものから目を背け続けているけれど、ほんの時々、やはり口をついて出そうになる。
シエラは、誰から名前をもらったの?
多分、その問いの答えのせいだろう。自分がシエラに聞けないのは。
答えの予想なんてまったくつかなかったけれど、リリーはなんとなくそう思った。
自分は馬鹿だから、何一つ知りやしないし、知ろうとすることだって出来やしない。
あたしが出来ることといえば、シエラのために綺麗にすることと、シエラのために人を殺すことくらいのもんだ・・・。
他に何ひとつ出来やしないし、本当は、何一つシエラのことだって知ってはいないのだ。

「名前の意味なんて、よくわからなかった。自分がどうしてそれを持っていないのか、どうしたら貰えるのか・・・それが必要なのかどうかもよくわからなかったしさ」
ぽつりとリリーはアイーシャに言った。
話の流れとはまったく関係がない呟きに、アイーシャは目を丸くしてリリーを見る。
「だけど、名前をくれたシエラに、ずっとついていかなきゃいけないって思ってたのよ。でも、あの男が絡んでいるときだけは、あたしはシエラの傍にいちゃいけないんだろうね」
「・・・ランスロットさんのことですね」
アイーシャは「あの男」についてどうしても確認せずにはいられなかった。リリーは否定をしない。
「だから、あの男は嫌い。デボネアだってアイーシャだってサラディンだってギルだってさ、シエラとの間にあたしがいても怒らないし、問題もそうそう起きないのに、あの男が出てくると、あたしが首をつっこむことをシエラは嫌がるんだもん」
「・・・そう、ですね」
そんなことないでしょう、とは応えることは出来なかった。
アイーシャは言葉を選ぼうと必死に考えを巡らせた。
残念なことに良い言葉を探し当てることは出来ず、かといってこのまま黙り込むわけにもいかず、内心とてもアイーシャは焦っていた。
アイーシャは、あまりシエラのプライベートな部分には深入りしないようにしていた。
人には誰にも踏み入れられたくない心の領域がある。
それを他人に開放するときは、それはあくまでも本人の意思を持って行われるべきだと思うし、もしもそれを必要と思ったとしても、自分から土足で踏み入ることはアイーシャの本意ではない。
必要とあらばいつでもシエラの役にたちたいとは思っているけれど、残念ながら自分のような未熟者が、その機を自ら判断出来るとはアイーシャには思えない。
その自信のなさゆえに、彼女はあえてシエラと生死を共にしようとしつつも一線を引いているのだ。分をわきまえていると言えば聞こえが良いけれど、そうせざるを得ないことは自分の本意ではない。
そういったわけで、シエラとランスロットの間に一体どんな感情があって、そして、何が起きていたのか、アイーシャは知らない。多分、リリーもデボネアもうっすらとは知っていても、その全てをシエラがべらべらと話すわけもないと思う。
それでもなんとはなしに、まあ、反乱軍リーダーとゼノビアの聖騎士、という肩書き以外の関係なり感情がそこに存在したのではないかと予測出来ないわけでもなかったし、こうやって共に旅を始めてから、リリーがランスロットに対して、あまりよろしくない感情を持っていたことを知っては尚更、「何かが」あったのだろうと想像も出来る。
が、アイーシャは決してその件について、自ら話をふらない。
だから、リリーが「あの男」と呟いた対象がランスロット・ハミルトンであることを確認しただけでも、アイーシャらしからぬ行為でもある。多分、シエラがいれば−当然シエラの前でこんな会話はされないわけだが−驚いたことだろう。
「死のうがなんだろーがいい。あんな男」
「リリーさん」
「お説教なんていらないわよ。神様なんて信じていない人間に、聖職者の説法なんか無意味だって知っているでしょ」
「そうは思いませんけれど、説法ではなくて、良識で」
「いいでしょ、別に。あの男だって、あたしが死んだってきっと・・・」
そこまで言ってリリーは黙った。自分が口に出そうとした推測が、あまりにも浅はかであったことに気付いたのだ。
ばつが悪そうにそのままリリーの声は小さくなり、少しばかり彼女は恥ずかしそうに膝を抱えてそっぽを向いた。
きっとランスロット・ハミルトンという人物は、リリーがもしもどこかで死んだという訃報を聞けば嘆くに違いない。彼は、そういう人物だった。
たとえリリーがランスロットに対して嫌悪の感情を抱いていても、ランスロットは決してリリーのことを嫌ってはいなかったし、むしろ反乱軍の数々の戦で功績を残したリリーのことを高く評価もしていた。リリーにとっては「シエラのため」であっても、ランスロットからすれば「反乱軍のため、ひいてはゼノビアのため」リリーは戦いに戦い抜いた戦乙女だ。普通の人間ならば生半可なことでは手に入れることが出来ない神聖魔法の使い手としてリリーは、自らの力をおごることなく、その力に溺れることもなく、ただひたすら忠実に働いてた。多少扱いづらい性格ではあってもランスロットはリリーが率いる部隊に対して厚い信頼もおいていたし、何度も助けられたこともある。「あんたのこと助けたくて助けたわけじゃないわ」なんていう憎まれ口だって、聞き慣れてしまえば可愛らしいものだとランスロットが思っていたことなぞリリーは知るよしもないだろう。
「ご存知でいらっしゃるのに」
「何がよ」
その返事すら、吐き捨てるように荒っぽい。
「ランスロットさんがどんなお人なのか、リリーさんはご存知でいらっしゃったでしょう。わたくしより、それは、よく」
「知るわけがないわ。第一何よ、ご存知って」
リリーはそう言い放って、丸めた背を伸ばして再び手を形の良い尻の後ろの地面についた。ばさっとスカートを大きく足で跳ね上げて、白い足を恥ずかしげもなくさらけ出して組んで、空を見上げた。スカートの裾は膝からするりと彼女の太ももまで降りていき、あられもない恰好になってしまう。
「あたしが知らなきゃいけないことは、シエラのことだけだもの。他の人間のことなんざ、これっぽっちも知らなくていい」
リリーさん、はしたないですよ。
そう言って彼女のスカートの裾を膝にかけようとしたアイーシャだったが、リリーの言葉によりその動きはぴたりと止まってしまう。
唯一の人間への盲目的な愛情をアイーシャはあまり好ましく思っていない。
人は一人では生きてはいけないし、二人でもまたこの世界は形成されていないのだ。
ありとあらゆる人間を愛するなんてことは出来ないけれど、アイーシャは人間の愛情というものがとても深いと思っていたし、それは唯一のものに注ぐようなものではないと考える。自らがここで生きていることですら、天の神の恩恵はもちろんのこと、不特定多数の人々からの愛情の上に成り立っているものだと彼女は思っていたからだ。だから、自分もまたそうであろうと思うし、それが人間社会での自然の成り行きだとアイーシャは感じていた。生涯の伴侶となるべき人間は確かにただ一人かもしれないが、それは、その人間以外に誰も愛さない、という意味ではないだろうし。
「リリーさんは・・・もしもシエラさんが、この世界から姿を消したら、どうなさるんですか?」
何故そんなことを口に出したのか、アイーシャ自身よくわかっていなかった。
けれども、「シエラが死んだら」という物言いをしなかったということは、それ相応の気遣いを持って出した言葉であることは明白だ。聞きたいけれど止めておこうと思った言葉が、ふと出てしまった・・・そういった具合なのだろうが、当然問われたリリーの方は、そんなことはわかるはずもない。
しかしまた、アイーシャの「この世界から姿を消したら」という言葉は、シエラという人物に対してありとあらゆる可能性を感じているという意味にも取れる。実際シエラは天空の三騎士に、自分達が決裁をすべきことではないが、天空で生きないかと話を多少なりと持ちかけられたことがある。天空もまた同じ世界の一箇所だとアイーシャは思えるかもしれないが、リリーにとっては自分一人で行き来が出来ない場所は、同じ世界だとは思えないものだ。もしも、そんな状況になれば、それは明らかにシエラがこの世界から姿を消した、とリリーには感じられることに違いない。
「昔は、死のうかと思ったけどさ」
何の間ももたず、リリーはそう呟いた。その時ちょうど、サラディンとデボネアが歩いてくる姿がアイーシャの視界に入る。手をふろうとアイーシャがぴくりと反応して腕を浮かせようとすると同時に、リリーは立ち上がりながら言葉を付け加えた。
「今は、違う気がする。多分、アイーシャなんかに言ったら怒られるかもしれないけどさ、シエラを生き返らせようとするんじゃないのかしらね。でも、そんなこと夢物語だって言われるんだろうけどさ。それが叶わないなら・・・ただ、なんにもしないだけだと思う。生きてても死んでても同じなら、いちいち死ぬのも面倒だし痛かったり苦しかったりするし。生きる方が面倒だと思ったら死ぬかもしんないけど、そんなこと、わからないわ」
面倒とか面倒じゃないとか、そういう問題なのだろうか。
アイーシャはそう思ったがまた黙っていたし、ただ、彼女が立ち上がったということで、リリーの恥ずべき姿を男性両名に見せずにすんでよかった、なんてことだけはほっとしていたのだった。

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