窒息



「人は生まれながらにして深い業を背負った生き物だ。幸せという快楽の為に他人を平気で犠牲にする」

霧がかかったように、もやもやとした思考の中で、ぽっかりとタルタロスの言葉が思い出された。
薄汚れたベッドに敷かれた、決して新しくはないけれど、日の下で十分乾かされたシーツの上で。
今、自分を唯一守ってくれるであろう、随分長い間使われていると思われる毛布の下で。
自分と同じ名を持ちながら、自分とまったく違う暗黒騎士ランスロット・タルタロスの言葉が何度も何度も耳の奥、鼓膜より更に奥、そう、脳に響く。
彼がそうしたくてそうしていたわけではない。
衰弱した体も思考も、彼が思うように彼がもつ自身のそれぞれの器官を動かそうとしてはくれない。
思い出そうとして思い出せることもなく、思い出さないようにと願って、溢れる記憶に蓋をすることも出来ない。
寒いとか暑いとか、痛いとか苦しいとか。
外的な刺激すら正確に感じることが出来ない麻痺したような、言うことも聞かない正常ではない体。
そこに、内的な、しかも現在ではなく過去を刺激として受けるのは、今の彼には荷が重過ぎる。

「身体に自浄作用が備わっているように心にもそれを正そうという働きはある」

そう叫んだのは一体誰だったのかと、彼の思考は揺れた。
そして、少しずつ音量をあげていく、たたみ掛けるように繰り返される女性の声。
あの苦悶の時間に、幾度となく彼の脳裏に響いていた愛憎の音。
それは、弟への、まっすぐで少しばかり行過ぎた愛を大義名分の前に踏みにじられた姉の激白だ。本当は少しも強くはない、哀れな女性の叫びだ。
一見、心を失ったように見える彼女の瞳には、まだ、自分が為すべき事を信じきれない惑いが揺らめいている。
声に出した彼女の思い。
それは、自分の選択が間違っていないことを自らに言い聞かせようとする悲鳴だ。逃げ場を失いそうな子供の悲鳴に似ている、と彼は虚ろに思っていた。

「私はデニムを愛していたわ」
「私を見捨てた」
「手に入らないのなら、いっそ」

手に入らないのなら。

彼女−カチュア−の言葉が指し示すものは、とても身勝手で、とても深い愛情の行き先だ。
それが間違ったものだと、その時の彼は思っていた。
けれども、そこまで思いつめなければいけなくなった彼女の心の動きを彼は知らない。
だから、自分は彼女を責めることも正すことも出来なかったのだろう、と薄れる意識で過去を振り返った。
そして。
過去を探るたびに彼の脳裏に現れるのは、あの青年の姉の姿ではない。そうだ。まったく違う女性だ。
その人は穏やかで優しげな表情で彼を見る。けれど、それは彼にとって歓迎すべきものではない。

ああ、あなたも、同じように。
あのとき、カチュアと同じように。

「・・・!!・・・」

突然彼は思い出してしまった。
蓋をしていた何かからほとばり出るたくさんの物達。
けれども、何を自分が思い出したのか、彼自身はよくわかっていない。
彼を突き動かす大きな塊が、脳からありとあらゆる細胞達を浸食しながら恐ろしいスピードで胸に辿り着いたように感じる。
ばくん、と心臓が跳ね上がった。
高い場所から飛び降りたような感覚にぶるりと全身が震えるように、ベッドに横たわった彼は、彼の脳が意識的に命令もしていないのに動く。
その反動かのように、彼の口からは呻きに似た奇声が発せられた。体の中にある何かが外に出たがっているようだ。汗がその「何か」の代わりとなって吹き出てくる。
熱い。怖い。
毛布をどけようと思うけれど彼の体はそれを許さず、薄暗い部屋の中、顔を歪めて天井を凝視するだけだ。
いつもならば、彼の声を聞いてクレアという少女が駆けつけてくれるはずだ。
けれども、今彼女は彼の声が聞こえない場所にいるのだろう。彼の部屋に人が来る気配はまったくない。
何を思い出したから、とか、自分が今どう思っているから、とか。そんなことは彼には何一つ認識出来ない。
正しく動くことが困難なほどに彼の脳は傷ついていたし、溢れ出る何かを言葉にする自由を奪うほど、彼の声帯は傷ついている。
それでも彼はもがいて、何かを外に出そう外に出そうと試みた。
呻き声が、汗が、そして、彼自身は気づいていないけれど涙が。
人間が感情と共に外側に押し出す、浄化をもたらすもの達。それらが、彼の意志で止めることも出来ないままに、どれもこれも静かに流れ出している。

違う。それでは足りないのだ。

もっともっと、外に。
この、ぼろぼろに傷んだ器からこぼれろ。
音になって空気を震わせろ。
それとも、液体となってあらゆるものに染みていけば良いか。
ああ、そうだ、空気に溶けて、もっともっと、広がってしまえ!
この空間で叫んでも泣いても許しを請うても、何一つ意味がないのだ。

しばらくの間、彼は抗えない己の熱と涙の中で呻き声をあげていた。ああ、とも、うう、とも似つかない声。それから、声という物にならずにただ漏れていく空気の音。
それでも、彼はまだ体の中から出ようとする何かを外に出しきれずにいた。
「・・・な、い」
いつしか彼は、切れ切れの音で言葉を作ろうとしている。
「ん・・・な・・・い」
声にするために力を必要としない音だけが、空間にようやく解き放たれる。
その音では不完全だと彼は思い、何度も何度もその言葉を自分の耳に届かせようとした。
それは意味のない義務として彼の心と体を苛み続け、終いに彼はひどくむせた。
げほげほとむせるたびに、空気を排出しようとする激しい横隔膜の動きが、彼の体の中を壊そうとする。
凍える夜に吹く風に痛みを感じるように、彼の喉は空気の塊にすら痛めつけられるようだ。
送り出される空気の中には、本当は彼が自分に聞かせたい、そして、聞きたくない言葉が混じっているのかもしれない。
そして、音として彼を傷つける代わりに、彼の体内を刃物のように切り刻もうとしているのかもしれない。
彼が吐き出そうとした言葉達は、彼がもし、老いという現象以外に身体異常がなんらないまま生涯を終えるとしたら、この世に出るはずがないものだ。
彼が発する声は、まるで、しゃくりあげた子供が涙を止めることが出来ずに繰り返す声と変わらない。
そして、その言葉は、大人になった彼が使うにはあまりにも幼いものだ。

ひとしきり泣きながらむせて、やっと呼吸が整った彼は、得体の知れない恐怖を感じていた。
音にならなかった思いが自分の口から鼻から、空気中に目に見えない塊として吐き出されている。
自分がいる空間にそれらはどんどん増えていくのではないか。
もし、彼が今流暢に言葉を話せたとしても、その思いは誰にも伝えることは出来ずに、ただ「怖い」と呟くしかないのだろう。
それほど曖昧に、しかし、確実に、彼は自分の中から湧き上がった感情に対して、恐怖を抱いていた。
そうだ。大きな塊が彼を傷つけ、外に出ようともがいている。
膨れ上がったそれが、声として生まれたがっていることを、彼は本能的に知っていた。
けれど、彼の体はそのための準備は整っていない。
いつしか、その塊を押し出す力を無くしたら、自分はどうなるのだろうか。

彼が、何かを忘れているのだとクレアは言っていた。
その言葉の意味が彼にはよくわからない。
何より、いつもぼんやりしている彼の脳は、言葉達に意味というものがあるということを、思い出したり忘れたりしているようでもある。誰もそんなことはわからないが。そして、もちろん彼自身も。
それでも、彼の脳には、いや、体のありとあらゆる細胞達、生きては死に、死んでは生まれるそれらのものは、彼の中に強く刻まれた過去を忘れさせまいと受け継いでいくようだ。
もはや彼は、誰に何を責められようと、外部からの刺激に対して正しく処理することが容易ではない。
それでも、彼は彼自身をこうやって責め立てているのだ。
そのことを誰が知るのだろうか。彼自身、それがそうであるとわかるはずもないのに。

あなたも、同じように。
あのとき、カチュアと同じように。

音として空間に放つことも出来ず、思っても自分自身で認識しきれない、彼だけが知る彼の真実がそこにある。
思考の合間に浮かぶ、彼の逃避の願いはあまりに簡単なものだった。

わたしを滅ぼしてくれればよかったのだろうに。


そう思うおこがましさと、今は既に彼の傍にいない「あなた」の愛情を信じられる自分自身。
もっともっと許しを請えば、もっともっと大きな塊を吐き出そうとすれば。
それらは、自分をもっと苛むのだろうか。
あの赤い髪の少女は、あの日あの時、彼の前ではただの女であったというのに、彼は剣を抜いた。
己の恋情で大陸を動かしたあの少女を、あのまま逃がすことは出来ないと思えた。
長く長く、彼が待ち望んでいた凱旋の時。そのために踏みにじられ、命を落とした人々がいることを彼は忘れてはいなかった。
もう誰も踏み台にされない、そんな国を作り上げようと思っていたのに。
なのに。
最後に自らがあの少女を足蹴にしなければいけないなんて。
これが自分達の長い旅の結果ならば、望まなければよかった。
もはや叶わないと知りながらも、彼女を唯一の主として、この先も自分の力を彼女のために使いたかった。
そんな後悔の念に襲われた、一瞬の主への裏切り。
命を差し出す少女の前で、彼はどうにもならないほどにただの騎士で。
彼の剣に恐れない彼女の前で、自らの主への不徳を嘆く、なんという己のエゴイズムだろうか。


わずかな激情に支配された時間の後、彼は瞳をゆっくりと閉じた。
汗を吸い取った寝間着やシーツの気持ち悪さを、彼はあまり感じない。
そんな暇もないほどに、彼の体は突然の変調に戸惑い、彼に休息を急がせていた。

違うのだ。
あの人に裁かれる権利すら、わたしは持たないのだ。

いっそのこと、吐き出せず、飲み込めない、彼を苦しめる大きな塊が、今すぐ裁いてくれればいいのに。
解放されることのないそれらが、もっともっと大きくなって、痛い空気が流れる気管をふさいでしまえば良いのに。

次に目覚めた時は、この苦しみを覚えていられるのだろうか。
そんな不安を自分が抱えているということを、自覚出来ないまま、彼は静かに闇に落ちていく。
その存在をはっきりと感じ取ってしまった、自分の中にある何かの塊を再び封じ込めながら。

Fin


モドル