抜けない棘


彼は、船の中での何泊かの間、何度も何度も、記憶の中に刻まれた思い出をよみがえらせていた。
それは、感傷に浸るための作業ではない。
彼は決して薄情ではなかったから、彼の人の面影を記憶から掘り起こせば、確かに心は痛む。それは目の背けようもない真実だ。
その真実を真っ向から見据えなければいけない、と彼は、船に乗り込む数日前から考えていた。

あの、勇敢な有翼人と白銀の騎士たちが、彼が残る大陸を離れようとした時。

「カノープスさんっ!・・・ラ、ランスロットさんは・・・!!」

言えなかった真実。
あの場で別れたからこそ、その言葉を放たれた相手−カノープス−が、その先を追及しなかったからこそ、彼は言わずに済んだのだ。その真実を。

「いいんだよ。もう、いいんだ・・・」

友の死を未だ受け入れられないはずのカノープスは、そう言って軽く首を振った。そうすることで、それ以上そのことを考えなくてすむようにと、彼は自分の心を防御するように頑なに拒んだ。
そうだ。彼は、決してあの人の死を信じていないはずだった。なのに、無理にそう思い込もうと残酷な言葉を口にしていた。

「そう言ってもらえると、死んじまったランスロットやウォーレンじいさんが浮かばれるってもんだ」

本当は、欠片もそう思っていないくせに。
なのに、少しでも自分を信じ込ませようと、わざとカノープスはそんな言葉を彼−デニム−に言った。カノープスのその台詞は、カノープスがまったく予期しないほどにデニムの心をえぐり、揺らした。
デニムは先のヴァレリア戦乱で、自分は相当に大人に近づいたと思っている。齢たった16歳にして、解放軍の指導者としての経験を手にしたのだ。それは間違いではない。けれど、その反面、人々が思う以上に自分の中にはまだまだ子供の部分も残っていると思っている。
動揺を隠せないことは減った、と自己分析をしていた。けれど、カノープスのその言葉は、たとえデニムが大人だろうが子供だろうが、経験が深かろうが浅かろうが、動揺を見せずにはいられない、心の奥底に痛みを生じるものだった。
そのおかげで、デニムは口走りそうになった。
カノープスさん。ランスロットさんは・・・。
体の中から感情が迸り、声という形で姿を表そうとする。それを抑えることは、デニム一人の力ではどうにも出来なかったのではないかと思う。
先回りして「いいんだよ」とカノープスが言ってくれたことで−もちろん、カノープスの言葉は、デニムが何を言いたかったのかを正しく理解していないままのものだったのだろうが−寸でのところで止めることが出来たのだろう。
(でも、もしも)
比較的波が穏やかな夜。甲板に出て、波間をみつめながらデニムはため息をひとつついた。
ランスロットの国を見ようと決心したのは、自分だ。
カノープスに誘われたらいく、というような、人に引きずられた受動的な形ではない。そうしたいと願って決心をしたのは、デニム自身だ。
だからこそ、心が動いてはいけないと思う。いや、思っていた。
この船の出港前に、恋人であるオリビアと会った時。
デニムは決して自分からランスロットのことを口にしなかったが、別れ際にオリビアは「これだけは、言いたくて」と切り出した。
揺れるのは当たり前なのだから、自分を信じて心の動きにまかせればよい、と彼女は穏やかにデニムに告げた。
何のことなのか、オリビアは決して言わなかったし、デニムも追求しようとしない。
年齢にそぐわぬ大人びた彼女の物言いを、時々面倒だと思うこともあるけれど、それはとても素直にデニムの心に響いた。
デニムは、「ありがとう」と礼を言い、彼女の細い肩を軽く抱いた。
そういう少女だから、愛しいと思うし、側にいたいと思う。
水の流れのように、波に抗わぬように、動く心のまま進むことを、責める人間も世の中にいる。少し前の、血気盛んな頃合の自分だってそうだった。長いものに巻かれることを恥ずかしいことだと思っていたし、信念を貫くためには、流れに逆らう必要だってあった。いや、常に彼は向かい風に煽られ、流れる水に逆らい、信じる道を歩むために多くのものを失ってきたように思う。
それらのことを、見て見ぬ振りをして、自らの正義を無理矢理心の中で正当化せずにはいられなくないほどの惑いの時、オリビアがとても静かに彼の心に染み込む言葉や、時には煽る言葉を発し、そして、結果的には諌めてくれていたことをデニムは知っている。
そして、今もまた。


ランスロットは死んだのだ。もう戻ってこないのだ。


何度も何度も自分にそう言い聞かせて、偽って、そうでなければぽろりとこぼしてしまいそうな真実を恐れて。
それと背中合わせになりながらも、ランスロットの国を見たいという気持ちが勝ってしまった自分を、多少うらめしく思わないわけでもない。
流れた時間の分、カノープス達はランスロットとウォーレンの死を受け入れて、もはや過去の人間のように思い出話をしてしまうだろうか。
カノープス達と会えば、滞在中におのずとランスロットの話が出るに決まっている。
もし、その話が出なければ出ないだけ、お互いの傷口に触れぬようにと気を使うカノープスの姿に我慢が出来なくなるに違いない。
そうなったら、自分は心が揺れるだろう。
揺れて、どうなってしまうのかはわからないが、取り返しのつかないことをするかもしれない。
それでもいい、と言うのか、オリビアは。
(いいわけがないじゃないか・・・)
月明かりに照らされて、きらきらと光る水面。
瞳を閉じると、ざあっ、ざあっ、と波をかきわけて進む音や、時折ぎぃぃ、と軋んだ、それでも決して不快ではない音が鼓膜の奥に響く。
海を隔てた大陸から、彼らがあの港町にやってきた運命の出会いの日。
「・・・ふっ・・・!」
突然、なんも前触れもなく、デニムの両目からぶわっと涙が溢れ出た。
甦った記憶の中のあの人は、穏やかで、優しい笑顔で。
彼の正しさだけで、デニムが遭遇したあらゆる難関を越えられるとは思ってはいない。それでも、あの人のあの正しさは、当時のデニムにとっては他に引き換えに出来ることなぞない、生きるための一種の道標ではなかったか。
何度思い出しても、彼の心に残る彼の姿は、いつでも眩しさを伴う。
「夜は、駄目だ」
デニムは呟いた。
カノープスとは、昼間、会おう。
夜は、早く寝よう。
もし、ギルダスと会えば「ちっとは呑めるんだろう?」と酒を勧められる機会もあるやもしれないが、早寝早起きを心がけよう。
それが、自分が出来る最大限の努力なのだ、とデニムは強く自分に言い聞かせた。
特にどうしようと思ったわけでもなかったが、デニムは涙を拭って甲板を後部へゆっくりと歩を進めた。
当然、とっくの昔に陸地は見えなくなっていて、右も左も、北も南も何もかも、穏やかな波が夜の彩りにきらめいているだけだ。
ざざーー、ざざーー、という音を聞きながら、ああ、帰る時は、反対側に向かって帰るのだろうから、月が見える位置も逆なんだよなあ、なんて、当たり前の自然の理についてふと考える。
そう思えば。
無理矢理抑えたはずの涙は更に沸きあがってきて、デニムはひどく困惑をした。
この大海原を隔てて、自分の近しい人間を失って祖国に戻ったカノープス達。
もはや祖国を見ることも叶わないだろう、人の世界にただ「存在するだけ」に変わってしまったあの人。
海の見える教会にいるあの人は、どこまでも続く青い光景を見て、何かを思うことはあるのだろうか。
その視線の先に、本当はあなたの故郷があるのだと、誰が一体教えてあげるというのだろうか?
いつの日か、大陸から大陸を渡っていく鳥達が海の上を羽ばたく姿を見ても、あの人は何一つ心が動かないのだろうか?
ほろほろと両頬を伝ってこぼれた涙は、彼のあごで1つに交わり、ぽたりと足元に落ちる。
とめどなく溢れる思いと溢れる涙をどうにかしたくて、デニムは、だん、と船の縁に体を寄せて、いささか危ない体勢で頭を海上に突き出した。
ほとばしる熱い液体は流れの道を変え、顔の一部から、ぱあっと空中に舞うように散っていく。
それらの行き先は、今は静かに美しさだけを見せてくれる波間だ。
自分の涙はこの海と交わり、境目がなくなる。
それは、自分の大陸と、これから足を踏み入れる大陸のどちらにも属し、また、どちらにも属さないものへとなったということだろうか。
もしも、あの人が海へ涙を流したならば。
祖国の海岸にそれらは辿り着き、彼の一部が帰ったことになるのだろうか。
デニムは、自分の心を軽くするために、そんな風にありえないことを考え続けた。けれど、それは逆効果で、考えれば考えるほど、彼自身を追い詰める妄想が広がっていく。
うまく止められない涙は、海風に吹かれた彼の前髪を濡らしつつ落下し、また二粒波間に消えた。


Fin


モドル