孵化


闇に生きるものは、光溢れる場所に生きるものを、うらやましいと思うのだろうか。
憧れるのか。それとも、憎むのか。
未練を残して死した人々はアンデッドとして彷徨うが、彼らは何を感じているのだろう。
シエラはあてがわれた部屋に向かう歩調を緩めて、ひとつ小さな溜息をついた。
自分の申し出は不自然に思われただろうか。出来るだけ皆から離れた部屋がいい、なんて。
不自然に思われるならまだいい。ただ、気付かれることだけは嫌だと思う。
「あのこと」に気付くのならば、多分サラディンだろう。自分のような小娘が、あの偉大なる妖術士を騙すことが出来るだろうか?
ハイランド領内に入ってからここしばらく、シエラはあまり睡眠を取っていない。
自分の若さに頼って来たが、睡眠不足については間違いなくそろそろ誰かが気付く頃だろう。
その誰か、は間違いなくリリーだ。次に気付くのは何故かデボネアに決まっている。それからカノープス。
ランスロットには気付いて欲しくないと思う。その反面、彼に気付いて欲しいという思いもシエラの心のどこかにあることも事実だ。
顔色が優れないようですが。
睡眠は十分にとれていますか。
ランスロットの声でそう言われることを望みつつも、多分、最後に彼は「自己管理の責任があなたにはあるのですから」と、まったくもって正論だけれども腹立たしいことを言うのだろう、なんて想像をしてみる。
欲しいものは彼の言葉ではない。安らかに眠ることが出来る環境だけだ。・・・とりあえず、体の要求としては。
「シエラ」
「どうしたの、デボネア」
部屋の前でデボネアが立っていた。彼女を待っていたことは明白だ。
デボネアは、彼もまた今から眠るのだろう、鎧を脱ぎ捨てて柔らかい素材の白いシャツを軽く羽織り、くすんだ茶色のパンツを皮のブーツに裾を押し込んでいた。その表情は固く、彼の用件が楽しいものではないことは一目瞭然だ。
「お休みのご挨拶をしようかと」
「ふふ。デボネアらしくない冗談だ」
「そうかな?」
「うん」
自然にシエラの口元がほころんだ。しかし、デボネアの表情は緩和しない。
「中に入る?」
「女性の部屋に、こんな時間に入ったらノルンに怒られる」
「ノルンが怒ることに目をつぶれば、問題ないわけ?騎士様は」
「君を守ることが、優先だ」
「不穏な言葉ね」
シエラは軽くデボネアを押しのけて、ドアを無造作に開けた。軽く首を傾げるのは「入りなさい」の意味だ。
部屋の中は殺風景で、そこがただただ眠るための場所になっていることをデボネアは知る。
腰につけた小物入れをとって、シエラはそれを床に落とした。剣は壁に立てかける。それから、木のベッドが置いてある部屋の角を指差して、面倒くさそうに言った。
「あっち向いて。話があるなら、聞いてあげるからどうぞ」
壁際に小さな木のテーブルと椅子があるけれど、それはどう見ても無理矢理そこまで押しやられているらしく、いささか不自然な状態に彼の目には映った。
シエラは肩当と胸当てを外してテーブルの上にある水差しの横に、グローブを椅子の上に置いた。
それから、デボネアが彼女の指示した方向を向いているかどうかすら確認せずにブーツを脱いで、その下に履いていた下穿きを脱ぎ捨てた。腰につけていた皮の水袋も椅子にかける。次々と身に纏う物を彼女は体から剥ぎ取っていく。
「トリスタン派のやつらが、動き始めたのか?」
「何のこと?」
「こんな奥まった部屋にして、見張りまでつけないなんて。一言君が言ってくれれば、いつでも」
「何のこと?」
冷たいあしらいにデボネアは気を悪くしたようでもなく、言葉を続けた。
声の響き方で、彼が間違いなくベッドの方向を向いて、自分とは背中合わせの状態になっていることをシエラはわかった。そうだ。彼はそれでいい。返事をしなくとも言われたことに従うか、返事もせず、茶化しもせずに彼女の着替えを見ながら話すか。どちらでもそれは有りだとシエラは思っていたが、後者の関係になるにはまだ早い。
「家具を全部窓から遠ざけてあるな」
暗殺者から身を護るため。そんな言葉はわざわざ彼は発しない。
「それは最初からそうなってた」
「トリスタン派が君の」
「まだその時じゃないよ、今は」
シエラもまたデボネアのようにシャツを羽織り、眠るのに邪魔にならない柔らかな素材のパンツをはいた。
もういいわよ、も何も言わずに、デボネアの横を通り過ぎてベッドの縁に腰掛ける。
「だから、あなたが心配することは、何もないわ」
「しかし」
「わたしの、あなたへの信頼を疑うつもりなの、デボネア」
とても静かな口調だった。
シエラはまっすぐデボネアを見上げ、唇を引き結んだ。それ以上の言葉はない。彼が一番堪える言葉だ。
それへの返事をするために、デボネアには多少の時間が必要だった。妙にテンポがずれたような間を置いて、それでも彼は表情を変えずに簡潔に答えた。
「いや」
「まだ、あなたが必要な時期じゃない。デボネア」
「そうか」
「そうよ」
さらりと漏らした言葉の響きに女性らしさが混じる。その瞬間がたまらなく愛しい、とデボネアは思う。
時折彼女が見せる柔らかな、女という生き物の部分。それらが硬質の殻の中から顔を覗かせる時、不思議な愛おしさを彼は感じる。けれど、それが今は彼の懸念を深くする。
以前ならば彼女のこの言葉には女性らしさの欠片が含まれなかった。
そこにその女性らしさが見え隠れした今。
女が男に「大丈夫よ」と囁くような響きを感じた今。
そういう時ではないと思えるのに。
「・・・俺に、言い聞かせようとしているのかい?」
「何を言ってるかよくわからないけど、もう一度言うわ。まだ、あなたが必要な時じゃない」
「君は、嫌な女だな」
そう言ったデボネアは苦笑をしていた。シエラは目を細めて彼を見上げ、首を傾げながら微笑んだ。

デボネアを部屋から追い出して、シエラはベッドに横たわって毛布をかぶった。
少しでも早く眠ってしまわないと。あれがやってくる前に。
月が最も高い場所から少し傾く頃。それが、あれがやってくる時間だ。
あれはあれで、きっと様々な策略を張り巡らせたり、暗黒魔道の探究を行ったりと忙しいのだろう。遅い時間にならなければあれは現れない。
先に寝ると言って早く部屋に戻ることは、皆を心配させることに繋がる。だから、シエラは「少しでも睡眠を」と思いつつも目だって就寝時間を早めようとはしなかった。
(・・・思ったより、早かったわね)
ぞくりと背筋に悪寒を感じて、シエラは寝返りをうって毛布をかぶった。
「起きているのだろう?」
嫌なことに、聞き慣れてしまった男の声が、毛布を超えて上からシエラの耳に届く。
「反乱軍リーダー、シエラよ」
「夜な夜な女の寝所に現れるなんて、本当に最悪の紳士ね」
シエラはのそりと遅い動きで体を起こした。
窓の前に一人の男性がいた。男もまた、くつろいだ部屋着になっており、黒いローブをその上に纏っていた。誰もが一目でわかる違和感。その男は目に見えない何かに座っているようなポーズをとっている。
どっかりと深く体を委ねられるソファか何かに腰を下ろしているようだ。無論、この部屋にそんなものは置いていない。ましてや、窓辺には。
「求愛なら、手土産の一つでも持ってきたらどう」
「幽体であることを知っているのに、よくもそう無理難題を言うものだ」
「いっそのこと、反乱軍に噂でも流せば?リーダーシエラは、毎晩ラシュディと逢引をしている、ってね」
シエラはベッドから動かず、窓辺に立つラシュディに吐き捨てるように言い放った。
「お前とトリスタンの仲が悪くなることだけが、わしの望みというわけではないのでな」
「わかってるわ。十二使徒の証が欲しいんでしょ。キャターズアイを手にいれているのに、それでは満足ではないんでしょう?あなたは何かをしようとしている。未だに反乱軍との小競り合いをしているってことは、キャターズアイはあなたの最終目的には事足りるかもしれないけれど、それ以上の力としては不足しているってことだものね」
「必要なものは時間だ。お前達反乱軍がわしのもとに来るまでには、何もかもが終わっているだろう」
「だったら、こうやってここにくる必要なんてないでしょう?それにしたって、他の人間のところにも同じように嫌がらせに行ってないでしょうね?あれらを持っているのはわたしよ?」
「待つだけの身は退屈なものだからな」
くっくっく、とラシュディは声をあげて笑う。苛々する、とシエラは唇を尖らせた。
「じゃあ、わたし達はあなたにとってかっこうの遊び相手ってわけね」
「それに、わしがここにこうやって毎晩映し身を飛ばせるのは」
にやり、とラシュディは口元を歪めた。
「お前が、暗黒魔道に落ちた人間だからだよ、シエラ。わしと同じく暗黒道に落ちた人間が、何故十二使徒の証を手に入れることが出来たのかと、まったくもってお前は興味深い女だ」

天空の三騎士までもが、そのチャームの魔法にかかってしまうほどだ。ラシュディの能力は驚異的だ。
そんなラシュディが十二使徒の証を諦めていないのではないかとサラディンは懸念をしていた。
力を得たものは、更なる力を欲する。その飽くなき欲望を誰よりも満たそうとしている人物がラシュディであると彼はわかっていた。
ラシュディがなんらかの形でシエラに接触をして、彼女にもまたそのチャームの魔法をかければ。
反乱軍を掌中に出来るかどうかはわからないが、少なくとも彼が今でもまだ欲しがっていると思われる十二使徒の証を手にいれることが容易になる。
シエラは自分からサラディンに「そういうことはありえるかしら」と、前もって訊ねていた。それに対する彼の答えは、多少悩みながらも否だった。
暗黒魔法を操り高い魔力を持つシエラは、更には天の父の加護をうける認められた勇者だ。
暗黒魔法への耐性は、本来ならばシエラは高いはずなのだ。そう、本来、彼女が自らの高い魔力をもってして、暗黒魔法を操るにふさわしい人物であれば。
「シエラは、優れた魔道の使い手だ」
本当は口にしたくない、とサラディンは眉間にしわを刻みながら、若き反乱軍リーダーに助言をした。
野営の陣地をわずかに離れた草むらの真ん中に立って呑気にひなたぼっこなどをしていたサラディンは、リーダーのわざわざの訪問に少し驚いた様子ではあった。
風が吹くとさわさわと足元のくすんだ黄緑色の草達が揺れる。
弱い日差しでも、それらを存分に味わおうと思っていれば、意外な暖かさを得ることが出来る。サラディンは草達と共にそれを感じていたのに違いない。
シエラは、この妖術士のことを好ましいと思う。国や人に対してのしがらみが薄い人間は、時として非常に傲慢で自分勝手に振舞えるし、そういった気性を持ち合わせやすい。サラディンにはそれがないと思う。
彼の人生の糸に絡んでいるのは、ラシュディとシエラだけ。それはこの戦いと共にどちらかが消える運命にある。サラディンはシエラのことを好ましく思っているし、命を救った彼女に対して心の中で忠誠を誓ってはいる。シエラは、彼の人生の糸に自分が深く関わる必要はないと思ってはいるが、彼は自らそれを選んだ。
「そうでもない。あまり、役に立っていないの」
シエラは困惑しながら答えた。
それは謙遜ではない。
魔力は間違いなく強くなっている感触があるのだが、使いこなす暗黒魔法の威力は決して高くない。
その相反する事態に彼女は苛立っていたが、最前線で戦うことが彼女の役割ではないために、誰一人それに困惑する者はいない。
「シエラは、心が清らか過ぎる。優れた黒魔道使いは、闇に蠢く者たちの力を収束して大きな力とする。あまり清らかな心の持ち主のもとには、大きな闇の力は集まらないものだ」
「それじゃ、優れてないってことじゃない。でも、わたしは心が清らかじゃーないと思うけど」
「魔道の使い手としては優れているが、暗黒魔法が合わなかったということだ。心の清らかさを計る物差しは残念ながらない。それでもわかる。光纏う者達がシエラのもとに集う。シエラは、悲しいほどに偏りがある」
悲しいほどに偏りがある。
シエラは目を細めて妖術士を見た。
サラディンが言いたいことが、彼女には本当はわかっている。
自分は始まりを間違えていたのだろうか。
自分が本来選ぶべき力は、暗黒魔法であってはいけなかったのだろうか。
「それでも、あの頃のわたしは、暗黒魔法を操るのにふさわしい人間だったわ」
「皮肉なものだ。シエラと共に生きる、あのプリンセスは」
「言わないで」
自分達は既に表裏一体だ、とシエラは悟ってしまった。
唯一心を許していたリリーに、シエラはドリームクラウンというマジックアイテムを与えた。
それは、リリーに神聖魔法を操る驚異的な力を与え、シエラの隣に立つにふさわしい地位を与えると同時に、彼女の手をいっそう血に染める行為だった。
それはわかっていた。リリーは、シエラのためならばこの世界中の人間を殺したっていいとすら思っているのだ。
けれど、行き過ぎたその行為は人々をリリーから遠ざけてしまう。それがいいことだとはシエラは思っていなかった。
「いつの日か彼女こそ、暗黒魔法を操るに。今はまだ良いが・・・」
「サラディン」
「そして、シエラこそ」
「サラディン、それでもね」
シエラはサラディンの足元に絡む草をみつめながら、溜息を小さく吐き出した。
「わたしには、リリーこそが、清らかに見えるの」
風が少しだけ強く吹いて、草達がざわめいた。それに耐えるために目を閉じると、じわりとまぶたの裏に温かい水の存在を感じる。
慎重にシエラは瞳を開けた。
泣いてしまいそうだ。今、もう一度まばたきをしたら涙がこぼれてしまう気がする。それは彼女には許せなかった。
「あんなにあの子は、わたしを愛してくれているんですもの。あんな無償の愛なんて、ありえないほど。そうでしょう?」
「その行過ぎた愛情が歪まなければ」
サラディンは静かに答えた。
その言葉もまた、シエラの胸に痛いほど突き刺さる。
ねえ、サラディン。もう、わたしの愛情は歪んでいるの。そうしたら。
もうすぐ、もっと暗黒魔法に相応しい人間になれるのかしら?
虐殺をいとわないプリンセスと、光の加護を受けた暗黒魔法剣士。
シエラはなかなか顔をあげることが出来なかった。サラディンの視線がつらい。
足元の草色は決して明るい色ではないが、やたらと目に染入るように感じて、そっと瞳を閉じた。
早く、彼が自分から目を逸らしてくれればいいのに、と強く強く願う。それ以外のことを何一つ考えなくてもいいように、ただひたすら彼女は強く祈るだけだった。

「今のお前の暗黒の力で、わしの暗黒の力を倒すことは出来ない」
「くどいわね。お前を倒すのはわたしでなくたって構わないことだ」
「それが、出来ると思っているのか。天空の三騎士すら手玉にとったわしに」
そこにはいない、そこには見えるラシュディが薄笑いを浮かべる。
不愉快だ。シエラはぴくりと顔の左半分を不快を表すように歪めた。
ハイランド領に入る数日前から、月が明るい夜にラシュディは現れる。
この男には何がどう見えているのかはわからないが、決まってシエラが部屋をあてがわれて一人で眠る時だけだ。
まったく、まめなことだ、と素直にシエラは呆れた。
「何度言わせるつもり。今更寝返るはずもないし、暗黒魔法の誘惑に、お前のようにかかるわけもない。お前がやっていることはまったくの無駄だ。まあ、わたしの睡眠時間を削るくらいには役立っているかもしれないけどね」
シエラは肩をすくめた。
「今日は何を取引として提示してくるつもり?最初はハイランドでの地位の約束、その次は大陸半分の覇権、それから、ガレスの花嫁と来たもんだ。笑えるわ。どれもエンドラは知らない話なんでしょう?」
「先ほども言ったように、わしがここに姿を映すことが出来るのは、お前の力のおかげだ。お前の中に秘められた暗黒魔法の力が、わしをここに呼び寄せるゲートになっているのだから」
言ってる意味がわからない、とシエラは思った。そして、わからなくたって何も困りはしないだろう、とも。
「お前が持つその能力をいかんなく発揮させることが出来れば、どれほどの力が手に入るか。他の誰がそれを出来ずとも、わしには出来る。同じく暗黒道に落ちてしまった仲間としてな」
「だから、そんな力はいらないって」
「今のお前には使う資格がない魔法も使えるようになる」
「聞くだけ無駄だわ。もう寝るわよ」
シエラはもぞもぞと毛布をかぶり直した。それを気にせずにラシュディは続ける。
「トリスタン皇子がお前に牙を剥いても、お前はそれで良いのか?」
「なあに、今度は仲間割れをさせようって魂胆?飽きないわね。たとえあなたの誘惑にのっても、ミザールの二の舞だわ。利用されて、そして、最後には殺される」
「わしはミザールを殺してはいない。殺したのはお前達だ」
「詭弁だわ」
ラシュディは尚も語りかける。シエラは既に毛布の中にもぐってしまったため、ラシュディの映し身の表情は見えない。彼は、どうもシエラをそそのかすことが楽しくて仕方ないようで、彼の側近が見れば驚くであろうほどに笑みをたたえていた。もちろんシエラはそんなことは知らない。
「それは、お前の末路だ。利用されて、殺される」
「お前には関係ないことだわ」
「否定はしないのか」
「否定も肯定もしない。それを否定や肯定出来るのは、わたしが死ぬ時だけだ」
「潔い女だ。しかし、わしが言っていることは、未来に起こることだ」
「どうしてそう言いきれる。お前は占星術士なの」
うるさい。
そう叫んで切りかかっても、映し身のラシュディはびくともしない。
空間に投影されたその映像に対して何をしても、ラシュディは薄笑いをしているだけだとシエラは知っていた。それは、幾度となく試みたことだからだ。
誰かに助けを求めれば?人が来ればラシュディは消えるだろう。消えるだろうが、これをどう説明すれば良いというのか。
サラディンには言いたくない、と思った。彼の、自分への憐れみを湛えた瞳を見たくはなかった。
天空の三騎士にも言いたくないと思う。天の父の加護をうけた自分が、どれほど暗黒の力を持っているのかを、知らせたくなかった。
誰に言ったところで。
「わしにすべてを委ねれば、こうやって、お前の力を引き出してやれるというのに」
「・・・黙れ」
気持ちが悪い。
吐き気がする。
ラシュディがこうやって現れている時間が長ければ長いほど、シエラの具合は悪くなる。
そこにラシュディがいるわけでもないのに、まるでラシュディの力に感応するように。
抑えきれないほどの力が体の中で膨らんでいく錯覚に襲われる。
「お前の相手なんか、している暇なんてない。さっさと消えろ!」
「おお、怖い怖い」

同じ問答を何度も繰り返し、ラシュディは一刻から一刻半シエラと共に「いた」。
まったく、軍を自分で率いて移動しない人間には夜の時間は有り余っているというのだろうか。こちらは朝から晩まで働きづめで疲れているというのに。
トリスタンのフォローを、トリスタンが知らないところで知られないように運ぶことは本当に骨が折れる仕事だった。
あまりやり過ぎては彼のためにならず、けれど、すべて手を離しては、この軍でシエラを信じてついてきた兵士達を困らせてしまうことになる。
自分はこんなに必死になってやっているのに、という気は不思議とシエラにはない。それがわずかな救いではある。
ラシュディはもう打つ手は全て打ち終わってシエラにかまうこと以外にやることはないのだろうか。
「あーあ」
シエラはベッドから降りてけだるそうに髪をかきあげた。
それから、テーブルの上の水差しを手にして窓辺に近寄り、きぃ、と小さな音をたてて出窓を開けた。
風がない夜だ。
トリスタン皇子が仲間になってからというものの、家屋に寝泊りするときは安全性を高めるために平屋は避けて、可能な限り二階がある場所を選んでいた。そんな場所を確保することがどれだけ大変なことかシエラは知っている。
そこまでする暇はないと思いつつ、ウォーレンに「兵士に無駄な労力を使わせないでみつけるなら、ま、いいけど」と釘を刺してはおいたけれど、多分あの老人はシエラの警告を無視しているに違いない。
「・・・にしてもね」
腹立たしいことに、空に浮かぶ月は西側に既に傾いていた。あれが地平に吸い込まれるまで、後どの程度の時間があるんだろう?その時間を睡眠にあてれば、自分は明日一日いつも通りでいられるだろうか?
シエラは舌打ちをした。それはとてもめずらしいことだ。
急いで眠らなければいけないというのに、この月明かりが邪魔をすると思えて、その忌々しさに我慢がならなくなっての舌打ちだ。
何故ラシュディは月が明るい夜を選んでやってくるのだろうか?暗黒魔法を行使する者であれば、月の明かりがないほど深くて暗い夜が好都合ではなかろうか。
アンデッド達は、あまり月明かりを歓迎しない。月の光は太陽の光だ。シエラもまた、暗黒魔法を行使するようになってからそれを敏感に感じることが出来るようになった。月明かりがまぶしい夜は、多少アンデッド達の力は弱まる気がする。
太陽の光そのものがもつ力ももちろんあるのだろうが、それとは別に、死したことを恨めしく思うアンデッド達に、殊更に変わり果てた自らの姿を見えるようにしてしまう月明かりは忌み嫌われているのかもしれない。なんという哀しみを浮き彫りにする光なのだろうか、と思う。
「一体何を考えているやら」
これもまためずらしい独り言を呟いて、シエラは水差しに直接口をつけた。ラシュディとの問答は疲れる。純粋に口の中が乾いていると思えた。ごくり、と飲み込んだ瞬間、「しまった」と彼女はすぐさま口を離した。
「・・・ぐは!」
突然襲い来る激痛に体をよじり、シエラは水差しをがつん、と床に置きながらその場に倒れこんだ。
デボネアの訪問に気をとられて、わたしともあろうものが。
ああ、まったく腹立たしい。明らかに睡眠不足による気の疲れだ。人が用意しておいた水差しの水を、気にせず口にするなんて。
「ぐ・・・ああ」
水が通っていった体の中の道が焼けるように痛い。まいった。これは、普通の人間だったら間違いなく致死量だ。
すぐに吐き出して胃を洗わないと、と思うけれど、その反面この部屋を出て人を呼んで、そしてそれを行うことで発生するリスクを彼女は思い起こした。その思考の時間はほんの1秒に満たない。
覚悟が出来ていたことだ。こういう非常時がいつか来ると思っていた。
指を口にいれなくとも簡単にシエラは胃の中のものを吐き出せる。普段ならばそんなことはいとも簡単なことだ。けれど、それをする力すら失われていってしまう。
痺れた体、ひりつく内臓を嫌というほど感じながら、シエラは床の上を這いつくばって椅子にかけておいた水袋をようやく手にした。自分の手で確認をして汲んだ水だ。うまく動かない手で栓を開けて水を体に流し込む。
「ぐう・・・げぇぇっ・・・」
残りの力を振り絞って、シエラは水の力を借りながら、対面なぞ何も気にせずに無理矢理体の中のものを吐き出そうとした。
床に吐瀉物がぼたぼたと不快な音をたてて口元から落ちてゆく。
だらしがなく口が歪んで唾液がその上にだらだらと流れた。
何度か水を飲んでは吐き、水を飲んでは吐くと、部屋の中に胃液のすえた悪臭がじわじわと広がる。
頬を掠めて落ちる赤い髪に汚物がつくが、シエラは気にせずに吐き続けた。
額には滅多に感じることがない、体が危険信号を出した時だけに突然噴出す汗がびっちりと湧き上がる。
この毒は知っている。ほんの少しだけ、匂いがする毒だ。普段の自分なら気付かないはずはなかったのに。
シエラの両眼からはじわりと涙が溢れてきた。悲しみのための涙ではない。無理矢理吐くために力をいれて、まばたきすら出来ずに体が強張っていたのがよくわかる、瞳の乾きによって排出された涙だ。
しばらくの間、シエラは苦しみに苦しみ抜いた。体からの危険信号がここまで常軌を逸すると、人間は何も考えられなくなるのだということを彼女が冷静に考えられるようになるまで、かなりの時間を要した。その間の彼女は、異物を体から吐き出すこと、自分自身の命を守ること、そのための行為をする以外に、考えること、思うこと、感じることすべての機能が停止していた。体が促したことを実行するだけが彼女の精一杯だ。
「・・・は・・・あ・・・」
ようやく吐き出せるものはおおよそ吐き出した、と体が発する信号を彼女は見逃さなかった。
まだ痺れが残っている腕で薬袋を取ると、解毒薬をたどたどしい手つきで探し出してシエラはそれを口に含んだ。
内臓の一部は嫌でもやられてしまったな。
それは仕方がないことだ。致死量の毒を飲んで生きていること自体が感謝すべきことなのだし。
(毒に慣らしてあることを誰にも言ってなくて助かったわね。でも、次はこうはいかないに違いないし)
誰が自分に毒を盛ったのか、命令された人間が誰なのかはわからない。
命令した人間が誰なのかはこんな形ではなかなか推理しづらかった。
(騒ぎが起きていないってことは)
ウォーレンではないだろう、とシエラは冷静に瞳を閉じて、吐瀉物から少し離れた床の上に体を丸めて寝転んだ。
手足の痺れは回復していない。体の中がまだひりひりと痛くて、そして不必要に熱を持っている。
痛くて気持ち悪くてしようがない。どうにもしようがないけれど、彼女は考えなければいけないのだ。
(ウォーレンなら、もっとうまくやる。それに、皇子に疑いがいかないように・・・例えば、致死量ではない量の毒を同時に皇子にも盛るだろうし。そもそも、わたしがいつ口にするのかわからないようなものに毒を盛るのは得策じゃあないし。これは、ウォーレンじゃ、ないわ)
ラシュディか、ウォーレン以外のトリスタン派の人間だろう。
もしもラシュディならば、目的はシエラを殺すことではないのだと思う。シエラがウォーレンを疑い、トリスタン皇子を疑い、反乱軍全体への不信感をシエラにもたせることが目的となる。でなければ、夜な夜なあんな風に姿を見せて勧誘をする意味がない。しかし、その可能性は薄いと思えた。あの男がこんな不確定なやり方をするとは思えない。
ウォーレン以外の人間であれば。ゼノビアの人間か、そうではなくともトリスタン皇子を崇める人間の仕業だ。それくらいなら、この、一見成功してしまったように見えて、実はとても成功率が低い方法でしかシエラに手を出せない不器用さもうなずける。
正直、シエラ一人が反乱軍を率いていたときよりも、トリスタン皇子が加わってからの方が、入軍志願者が増えている。それは、どこの馬の骨かわからない女にはついていかないが、ゼノビアの血筋がいるならば力を貸そう、そいう人間が案外多かったということを意味する。
シエラは瞳を閉じて、体の不調が少しでも緩和するように、と祈った。呼吸すら苦しい。
いつか、こんな夜が来ることを知っていた。
誰かを呼べば不審に思われるだろうし、騒ぎ立てれば妙に警備を整えられて居づらくなるに違いない。彼女が口にするものはすべて毒見役がつくようになるだろうし、そして、そのせいで実際に命を落とす人間も出るだろう。そんなことを彼女は望んではいない。

「トリスタン皇子がお前に牙を剥いても、お前はそれで良いのか?」

「利用されて、殺される」

「わしが言っていることは、未来に起こることだ」

それが、お前の、末路だ。
シエラは眉根を寄せたまま口元を歪めた。自嘲的な笑み。
体が自分自身の笑みに反応して小さく震える。ははは、と途切れながらも声が漏れた。
そんなことは、わかってる。わかっていて、わたしはここにいるのよ、ラシュディ。
わたしは、自分で選んだのだもの。トリスタン皇子に会う前から、こんな時が来るって知っていたのだもの。
それでも。
それでも、わたしは、あの人が望むなら。
「・・・畜生・・・!」
汚い言葉が、苦しみに歪んだ唇から飛び出てくる。毒のせいなのか音が掠れる。
この戦にたとえ勝っても負けても、これから先の彼女の人生――長かろうが短かろうが――に一生付きまとう、反乱軍リーダーという肩書き。下界に生きる限り、彼女が彼女でいようとし続ける限りは、たとえ名を偽っても、顔を変えても、それはきっと彼女を一生追い立てるに違いない。
シエラを憎む者など、彼女を崇め奉る人間の何倍、いいや、何十倍といるだろうし、戦が終われば、一時崇めていた彼女のことなどみな忘れるに違いない。
喉元過ぎればと良くもいったものだが、過度の憎しみは、どんな感情や思い出や時間さえも凌駕してついてまわるものだ。
多分、自分の周りに残るものは、敵対していた人々からの憎しみなのだろうとシエラは思っていた。
彼女には、トリスタンのように自分を守ってくれる権力も血統も立場もこの先の一生に何の保証もされていない。
それでも、覚悟を決めてここにいるのに。
(何故、邪魔をするんだ。まだわたしはこの軍に必要なのに。まだ早い。今わたしを殺したって、トリスタンはこの大陸の頂点に立つことは出来ない・・・なんでそこまで気にしてやってんのに、こんな馬鹿な!)
命を狙われたことよりも、相手の浅はかさにシエラは憤慨した。
憤慨しながら、体の内側から聞こえる悲鳴に悶えて、息を荒く吐き出す。
苦しい。腹が立つ。苛々する。気を紛らわすために、何かに対して憤っていなければいられないと思えた。
憤れば憤るほど、体の痛みが薄れるような気がする。それでもやはり体は熱い。奥がじりじりと焼けるようだ。
明日は朝からこなさなければいけない予定がいくつもある。そのどれもが、彼女がやらなければ後々トリスタンが困るだろうと思える仕事だというのに、一体このタイミングの悪さといったらどういうことか。
自分に毒を盛った人間は、まったくもって短絡だ。
トリスタンのことを放っておいていいんだったら。いつまでもこの反乱軍を「シエラ軍」にしていてもいいんだったら、こんな苦労なんてしていない。シエラはそう思って、正体のわからない誰かを呪った。
まだ「シエラ軍」であるこの軍からシエラを消したからって、「トリスタン軍」になるはずもないというのに。そして、そうであることを、敵であるラシュディは見越していて、「今」シエラを攻略してしまいたいと思っているに違いないのだ。敵でさえわかることを理解出来ない阿呆は一体誰だ。思い当たる節がある兵士、全員を殺してもいいくらいに腹立たしい、とシエラは彼女にしてはめずらしい悪態を心の中でついた。
利用されて殺される。お前の末路だ。
わしには、わかる。
そうよ。わたしにだってわかっているわ。わからずやばっかりだし、わからせてあげるわけにもいかないんだもの。
わたしは、この大陸の覇者になりたいわけじゃない。
何度聞かれたって何度でも答えるわ。別に大陸なんていらない。権力なんていらない。
そうよ、何度でも答える。トリスタンなんて、ゼノビアなんて、この大陸なんて、本当はどうだっていいのよ。
あの人が望んでいるから、今わたしはここで反乱軍を率いて、大陸をトリスタンに渡そうとしているのに。
そうよ。
あの人がトリスタンのお膝元にいるだけで、わたし自身がトリスタンの手のひらの上にいるようなものだと言ってもいいくらい従順だってのに、これ以上何を望むの?わたしほど、トリスタンの役に立っている人間が他にいると思っているわけ?冗談じゃない!!
そんなことを考えていたら、痛みを紛らすための考え事だったというのについつい怒りを抑えきれずに叫びだしたい衝動にかられた。
畜生!どいつもこいつも。これ以上邪魔する奴はみな、殺してやる。本当は何もかもどうだっていいんだから!
そう思った瞬間。
「・・・!!いやあああ!!」
掠れた叫びが突然口から飛び出した。
叫ぶ力なぞ体に残っていないはずなのに、彼女が意識していない何か大きい力が、声帯を無理に震わせてその声を外に押し出したようだ。
(・・・何・・・!!)
体の中で、何かが膨れ上がったように感じた。
憤りと共に何かが噴出しそうだ。
まるで全身が脈になったように、体の内部が共鳴を放っているようにどくんどくんと頭から足先まで、自分の鼓動を感じる。いや、これは、本当に自分自身の鼓動なのだろうか?
毒を吐いていたときに浮き出てきた汗と、なんだか種類が違う汗が全身の毛穴から吹き出てきた。
これは、毒の効力なのだろうか?
違う。これは。
出てこないで、お願い。
この感触は、なんとなくわかる。
抑えきれない感情をどうにか胸の奥にしまうときの、心の抵抗感とよく似ている。だから、よくはわからないけれど、シエラは「出てこないで」と祈った。外に出したくて仕方がない、けれど外に出すには醜すぎる感情を抑えつけるとき。胸のあたりに熱さや痛み、息苦しさすら感じる、それと似ていると思える。
と、その時。
床に横たわったままのシエラの耳にいつもより大きく床の振動が響いた。誰かが近づいて来ていることをその揺れは教えてくれていた。それにはお構いなしで、彼女の中で「何か」は膨れ上がって彼女自信を圧迫する。
どかどかと男性の足音が響くのを感じつつも、彼女は抑えきれない叫びをもう一度放った。
「っ・・・やめろぉぉ!!」
掠れた、あまり空間を大きく震わさない情けない声。それとほぼ同時に足音は扉の外でぴったりと止まったのをシエラは苦しみの中で感づいた。
コンコン。
小さいけれど、少しだけ荒いノックの音。
「シエラ。起きているんだろう。どうした、何か、声を出したか」
そして、聞きなれた声。
シエラは荒く息をついて、体全体を動かしながら呼吸をした。動きたくない。いや、動けない。今、動いたらまだ何かが体の中からあふれ出てきそうだと思えた。
「・・・デボネア・・・どうしたの?」
扉の外に届く音量を発することがあまりにも難儀で、シエラはそれに集中をした。
「窓を開け放して置くなんて、君らしくない。見張り兵士が気にかけている、早く閉めるか灯りをつけろ。何の遊びだ」
「遊んでなんかいないわ・・・一人?寝てないの?」
「ああ・・・どうした。声が・・・無事なのか?」
デボネアはシエラの声量の小ささと、それが掠れていることに気付いて明らかに動揺していた。
「綺麗な水、汲んで来て頂戴・・・それから・・・リリーには、言っちゃ駄目よ」
デボネアの質問に答えずにシエラは力を振り絞ってお願いをした。
何が起きているのかはわからないが、彼女のその言葉にデボネアは何も聞き返さずに、急いでその場を離れた。
足音が遠くなるのを聞きながら、シエラは体を丸めた状態で深呼吸をした。
まだ、あなたが必要な時じゃない、といいつつも、デボネアに助けられてしまった、と思う。
突然先ほど彼女を襲った、激情にも似た何かは少しだけおさまっていき、妙なあせりも叫びを出させる力も失速していく。疲れた、とぼんやりと思った。けれど、扉の鍵は開けなければいけないな、とずるずると床を這いつくばって動いた。
床を這い回るだけの自分のその無様さを思って、疲労を伴った笑みを彼女は浮かべていた。
それから。
よかった。来てくれたのがデボネアで。
そう思う反面、あの人が来てくれたなら、と思う自分がいることに気付いて、本当に本当に自分は無様だと思った。

気が付けば、デボネアが床の吐瀉物を始末し終えて、ふき取った布を袋につめたところだった。
それから彼はもってきた水で無造作に手を洗い、その水は今ふき取った床にそのままこぼした。どうせ、下の階にこぼれたって誰もつかっていやしない倉庫だ、と彼は考えたのだろう。
「ありがと」
ベッドに横たわったままでシエラは小さく囁いた。自力でベッドにあがった記憶はない。
「毒か」
「そう。二度とこんな迂闊なことはしない」
「頼むぞ」
「ごめん。デボネアにそんな汚いことさせて」
「ふふん」
シエラは自分の髪がわずかに濡れていることに気付いた。ああ、もしかしてこの男は、髪についた汚物にも気付いて拭いてくれたのか、と驚く。
「戦は色々な形のものがあるだろう。この程度の処理、嫌だとは思うが、やってしまえばどうということもない」
「自立してるのね」
「こういう時に使う言葉がそれなのかい?」
デボネアは少しだけ怒っている。シエラはそれに感づいていた。
「・・・結局あなたに頼ってしまったわ。ま、あなたが来なきゃ来ないで朝まで倒れてて、それはそれでなんとかなったとは思うけど」
「自分が吐き出したものの脇で眠るつもりだったのか。勘弁してくれ」
「別にどうってことない」
「寝るといい。ここにいるから」
「・・・もう、今日は何も起きないわ」
「駄目だ」
「デボネア」
「君はそれでいいかもしれないが、こっちはそれではたまらない。せめて今日だけでも、朝まで君を守る権利を与えてくれ。こんな状態で部屋に戻って心穏やかに眠れるほど、人間が出来ている男ではないよ」
決してデボネアはシエラが横たわっているベッドに近づいたり、そこに腰を下ろして気安く語りかけもしない。
淡々とその場に立って、彼女にだけ伝わる声量で話をする。
いい男だ、とシエラは思った。
ノルンがこの男を好きだという気持ちもわからなくはない、とも。
「朝まであなたがいたら、他の人間が気付く。少なくともリリーなんかはね」
「気付かせない。それを心配するよりも、自分の心配をした方がいいんじゃないか」
「うるさいわね」
「うるさくもなる。今日は譲れないよ・・・トリスタン派か?」
その問いかけに、今度はあっさりとシエラは答えた。
「わからない」
「そうか。ま、君は確証がないことは口にしない女性だったな」
デボネアはシエラに毛布をかけなおした。
窓からほんのわずかに見える空に月の姿が見えない。
きっと角度を変えてみればみつかるのだろうが、相当傾いてしまったことだろう。
それでも月明かりは窓から差込み、シエラの部屋の一角を照らしている。
そうだ。あの光はわたしを照らしてはくれないだろうし、わたしはこうやって暗い場所からその光をみつめるだけなのだ。
そして、照らし出してくれる、あのまばゆい物すら、今のわたしには見る資格などない。
シエラはぼんやりと、そこだけ見える色が違う床を見つめて、そんなことを思っていた。
「まだ苦しいか?もう少し水飲むかい?結構飲んだはずだが」
自分は水を飲んだのか?それすらシエラは記憶にない。きっと戻ってきたデボネアが水を飲ませてくれたのだろうが、既にそのあたりは意識が朦朧としていたのだろう。
「ううん、いらない・・・もう、苦しくない・・・毒は、もう、大丈夫」
「そうか」
「だけど・・・」
何かを続けようとシエラの唇はかすかに動いたが、疲労のためかまた意識がすうっと遠のいていった。
彼女が寝息をたてたことを確認して、デボネアは床の濡れていない場所に座り、ベッドに背をもたれかけた。
本当ならば、ここにこうしているのが自分ではなくて。
あの聖騎士だったならば、よかったのだろうに。
それを言えば彼女は屈辱に思うだろうし、デボネア自身にとってもそれを口に出すことは屈辱だった。
だから、彼は決してそんなことは言わずに、そして、恩を着せるわけもなく静かに息を潜めた。

わしがここに姿を映すことが出来るのは、お前の力のおかげだ。
お前の中に秘められた暗黒魔法の力が、わしをここに呼び寄せるゲートになっているのだから

デボネアは、シエラがすぐさま深い眠りに入ったのだと思っていたが、本当はそうではなかった。
混沌とした意識の中で、シエラはぐるぐるとあてどもないことを考えていた。
それは、浮いては沈み、消えて、また新しい思いが生まれて、そっと消えていって。
忌々しいラシュディ。
明るい月灯り。
彼女が本当はとても高く評価しているトリスタン皇子。
決して嫌いではないウォーレン。
大好きなリリー。
大好きなデボネア。
何度もここまで助けてくれたカノープス。
影からそっとバックアップをしてくれるギルバルド。
時折手痛い指摘をしてくれるサラディン。それから。
それから、ランスロット。それから、ミザール。
何の繋がりもないように見えるそれらは、たった一本の線で繋がっている。けれども、今のシエラにはそれを繋いで見るほどの余力もない。とめどなく浮かぶ彼らの姿を一瞬一瞬確認するだけだ。
サラディン。わたし、あなたが言うように暗黒魔法の優れた使い手になってしまうのかしら。
でも、もしもそうなったら・・・。
それは、とても楽なことなのかもしれない。
自分にとって大切な人の手を離してでも、そう出来たならば、とてもとても楽なのかもしれない。
行過ぎた愛情が歪まなければ。
そう言ったサラディンの憐れみの瞳。聡明な彼の深い瞳の色。
違うわ、サラディン。行過ぎるのはリリーじゃなくて、わたし。
そしてやっぱり、あなたが言うとおり、わたしは。
ああ、体の中から湧き上がる、あの黒い感情はなんだろう。渦に飲まれそうで、わたしはわたしが怖かった。
そう、どうしてラシュディは月が見える明るい日に。
もっと暗黒の力が増幅する暗い夜の方がよいだろうに。何を恐れているのかしら?
恐れ?ラシュディが?何に?
違うわ。恐れているのは、わたし。それから、恐れられているのも・・・
一見関連がないように思えることが、シエラの中のどこからか生まれては消えて生まれては消えてゆく。
それらのとりとめのなさは、意識が落ちようとしていることを物語っている。
普段、自分の思考が閉じる時の色は「黒」ではない。いつもそれは様々な色の粒がまじった、灰色のはっきりとしない色だ。
けれど、その色があまりに深くて。
消えかけたシエラの意識を、突然の恐怖心が揺り動かした。
「デボネア」
混濁とした意識から解き放たれて、ゆっくりとシエラの瞳が開けられた。掠れた苦しそうな声を絞り出す。驚いてデボネアは振り向いた。
そこにいたシエラはとても疲れた顔をしていた。普段口を閉じているよりも幾分口端が下がり、意識してかどうかはわからないが眉間にはわずかにしわが寄り、目もいささか細く開けられている。
何の警戒心もなくそんな顔を見せるなんて。
デボネアは彼女の心労がその時初めて本当に伝わった気すらして、小さく溜息をついた。
それは、自分はまだ彼女を理解してあげていないのだな、という落胆の音だ。
「・・・どうした、眠ったんじゃなかったのか」
「お願い、ベッドを、窓辺に動かしたいの。手伝って」
「なんだって?」
「明るい所で眠りたいの」
そう言ってシエラはよろよろと一度ベッドから降りる。デボネアはそれ以上彼女に質問をせずに、言われるがままにベッドを動かした。
そのおかげで、彼女のベッドは、先ほど彼女が嘔吐して汚してしまった床の上に乗ってしまったが、この際仕方がない、と彼は思う。
「こんなに明るくて、大丈夫なのか」
先ほどまで見えなかった月が、シエラのベッドを照らし出す。それを確認してから彼女はベッドに体を投げ出した。ぎしり、という音がやたらと耳障りに響く。
「いいの。あんまり暗いと」
「うん」
「ひきずり出される」
「え?」
シエラは毛布の中にもう一度身を滑り込ませた。
「ラシュディまでが懸念しているもう一人のわたしが」
その呟きはデボネアには届かない。シエラはラシュディの言葉を思い出した。
今のお前の暗黒の力で、わしの暗黒の力を倒すことは出来ない
それは、裏を返せば、倒せるほどの力をシエラが身につけることが出来るということではないのか。
シエラは先ほど感じた、体の内側からずるりと出てきそうになった「何か」に対して、恐怖感を抱いた。毛布にくるまって、自分で自分を抱く。そのとき
「おやすみ」
くぐもった音になってデボネアの優しい言葉が耳に届いた。
この月明かりの中では、デボネアは眠れないかもしれない。
そんなことを考えて気をそらそうとしたけれど、それは失敗した。
ぼろぼろと両眼から涙があふれ、毛布の中で流れる先も失ったかのようにシエラの頬を、唇を、肩を、髪を濡らしてゆく。今すぐここから飛び出して、走り去りたいと思える。
こんな醜いわたしから、醜い何かが生まれそうだ。
わたしの心が清らかだなんて、一体何の間違いなんだろう。
シエラは毛布の中で顔に張り付く髪を何度もかきあげながら、瞳を閉じた。
(あの人がまぶしすぎると思うのは、わたしが)
実直で、誠実で、それゆえお固いと言われがちだけれど、本当はとても柔和な、彼女が信頼を置いていた聖騎士の姿がまぶたの裏に浮かぶ。
改めて眠りの前に彼の姿を思い浮かべると悲しいほどにそのイメージは希薄で、自分がその男を愛していることが嘘ではないかと思えるほどその輪郭はぼんやりとして曖昧だ。
それでも間違いなくわかっていることは、彼の隣に立つべき人間が自分ではないということだ。
彼の隣に立てないのならばいっそ。
闇に生きるものは、光溢れる場所に生きるものを、うらやましいと思うのだろうか。
憧れるのか。それとも、憎むのか。
きっと、これは毒のせいだ。
こんなにも心が弱くなっているのは、そう、毒のせいに決まっている。
何度も何度も言い聞かせているうちに、ふと、自分を濡らす自分の涙が思いのほか熱を帯びていることに気付いた。
まるで、小動物を抱いた時に感じるぬくもりのようだ、と思いながら、シエラはもう一度自分の体を毛布の中で抱いた。


Fin


モドル

あれだけの強大な力をもったラシュディが最後まで反乱軍の進軍を止められなかったこともいろいろ腑に落ちないので、ちょいとばかりサイドストーリーを作っておりました。それの一幕でございます。