雨の中

夜半過ぎに雨はあがって、静かな夜になった。
ひどい雷雨だったにも関わらず、星さえ見えない深い闇はしんと静まり返っている。
この世界にいる誰が死んだとて、世界はひっくり返らない。その真理を表すように、自然はころころとその働きを変えてはまた何もなかったかのようにもとの姿に戻る。
そうだ。たとえ、天の父の寵愛をうけた堕天使が、空に戻ったとしても。

ラシュディはバルコニーに繋がる天井近くから床までの大きなガラス張りの扉の取っ手を押した。
きしんだ音も何もしないでスムーズに開くのは、こんな細かな部分まで金を十分かけてこの屋敷が作られたからなのだろう。
彼は別段富みに執着があるわけではなかった。
この屋敷を彼にあてがったのは、帝国の女帝エンドラだ。
事実、高価な調度品だけが置かれているこの室内や、屋敷のありとあらゆる部分に行き届いている細工など、それこそ食事時のシルバーひとつをとっても彼にとってはなんら意味がない「そこにあるモノ」というだけだ。
どれほど高価なものか、貴重なものか、という認識がないわけではない。
ただ、彼にとってはそのどれもが価値をもたず、それらのもので身を固めたとしても彼が持ち合わせた欲望を満たす道具にも手段にもならなかった。
腰で皮紐を3重にして縛った、首元から足元をすっぽり覆う黒い服の上に、ビロードの深い紫色の男性用のケープを羽織った姿でバルコニーに足を運ぶ。手にはワイングラスとワインの瓶を。
床に残った雨が、彼の靴を濡らす。そうだ。数刻前は、稲光が遠くに見えたものだ。
一度眠りについたというのに、こんな時間に目覚めるなど、彼らしくないことだった。
ほんの一杯ワインを飲んでからもう一度ベッドに入ろうと思うが、何が彼の心を動かしたのか。
そこにあるのは屋敷の裏手にあるうっそうとした森が続いている景色と、ただただ黒い夜空。
何のおもしろみのある景観ではない。
けれども、あえて彼は屋敷の裏に面したこの部屋を選んでいた。
風はまったく吹いていない。突然、ギャアという鳴き声をひとつ立てて、がさりと夜の鳥が森から飛び出す。
バルコニーは広いけれど、ただそれだけだ。
あの天使と最後に会った時、この場であの細い腕をねじりあげて、宣告をした。
お前は用済みだ、と。せめて最後にお前がこのラシュディの傍にいた証を見せてこい、と。
永久凍土と呼ばれるバルハラ平原へ、ミザールに会うために足を運ぶことなぞラシュディがするはずもない。
ここでのそのやりとりが、二人の別れになった。
あの堕天使はよくやってくれた。天使長ともあろうものが、天の父を裏切り、人間の男の為にキャターズアイを持ち出すなぞたいそうな語り草だ。
あげくに反乱軍勇者との契約を交わしていたにも関わらず、ラシュディとの契約も交わし、天使同士の血みどろの戦いすらあの堕天使は許諾したのだ。

(何が天使だ。馬鹿馬鹿しい。あれはただの人間の女よりも愚かしい)

「キャターズアイを返して」
あの日、そういってすがってきたミザールを蹴り倒し、同じような夜半にバルコニーの床にねじ伏せた。
薄布でしか体を覆わない天使は、絨毯も何もない床に押し付けられた痛みと、外気で冷え切った床の冷たさに声を小さくあげた。
背に生えた翼は小さくたたまれて背中に密着していたが、仰向けになってもがけば、時折その翼を自分で折ってしまうのではないかと恐怖にかられたように体を起こそうとする。
その動きを許さず、だん、と両手首を抑えてラシュディはミザールの体の上で四つんばいの状態で抑えつけた。
乱れて広がる長いプラチナブロンド。
驚くほど透けるような白い肌。
薄い桜色の唇が、怒りにわなないた。
「今更、無理な話だと知っているのだろうが」
「そんなこと、知らない」
「わしを、突き飛ばして力づくで奪えばよかろう」
「・・・」
出来るはずがないとわかっているからこその自信だ。
契約を結んだ以上、ミザールはいっさいラシュディに危害を加えることは出来ない。
いや、それ以前に、どんなに腹黒くどんなに卑怯な男だとしても、ミザールは、ラシュディを。
「愚かな天使だ。この先一万回一億回同じ言葉を繰り返したとて、わしがお前にキャターズアイを返す日は来ないだろう」
「愚かであることなぞ、もう知っています」
毅然とミザールは言い返した。
「愚かでなければ、ここでこうやって、あなたに繰言を言うわけがない」
「ははは、天使様は利口なことだ」
ミザールは唇を引き結んで、自分の顔を覗き込むラシュディを睨みつけた。
「そのうえ、驚くほど人間的でいらっしゃる」
「わたしはもう、天使じゃない」
「じゃあ、何故天使としての契約が有効になっている?」
「・・・それは」
ミザールの眉根が寄せられた。
それは、聞きたくない言葉だ。
天の父は怒っているに違いない。それでもなお、まだミザールを天使と認めているのだ。
「お前が、死ぬ以外に、もはや契約破棄をすることは叶わないのだぞ」
「どうせ、わたしは、死ぬ。そうすれば、契約を」
「構わん。お前以外の天使を捕獲して、再度契約をさせればいいだけだ。天の父とやらは、天使達には無償の愛なんてものをお持ちのようだからな。天使がいかな状態で契約をしたとしても、それを不履行にするための介入は行わないときたものだ」
「・・・」
ミザールは薄い色素でほのかに桜色に染まる唇を、ぎりりと噛み締めた。
天使にそんな表情をさせるとは、なかなか、悪くないことだ。
ラシュディは薄笑いを浮かべて体の下に横たわる無力な天使を見下ろした。
「ここで死のうとでも思うか?」
「天使は、自分では」
「天使ではない」
「わたしは・・・」
矛盾に矛盾を返される、正しい解答のない問い掛けと間違えた答えが二人の間を行き来する。
「キャターズアイを、返して・・・」
弱弱しいミザールの声。唇を震わせながらも、必死に哀願の声を絞り出す。
「飲めぬ相談だ」
「あなたは、この地上を暗黒の世界にするつもりなの」
「それの、何が悪い?」
「オウガ達にこの地上を明渡す覚悟ができているの」
「何故そんなもの共に、この世界をやらねばならん?馬鹿馬鹿しい」
「暗黒の世界が、訪れるわ」
「それがどうした」
「わたしは、きっと、その時にはここにはいないでしょうね」
声は震えているが、ミザールの音を震わすのは悲しみや嘆きではなかった。
彼女は苦しそうに、怒りの表情をラシュディに向けている。
ラシュディは細めた目で覆い被さるようにミザールを見つめた。それから左頬を軽くあげて歪んだ顔を向けたのちに、ミザールの髪を無造作に掴む。
「っ・・・!」
ぐい、と髪をひっぱりあげると、痛みに耐えかねてミザールは上半身を無理矢理起こそうとした。
「暗黒の世界への扉を開く力は、お前がもってきたキャターズアイがもたらすものだ」
わかりきっている残酷な宣告をうけて、ミザールは目を見開いた。
ラシュディはミザールに顔を近づけてそれだけを告げると、もはや興味を失ったようにあっけなく手を離し、立ち上がった。
髪を、腕を、体を解放されてミザールはその場にすうっと体を横たえ、ごろりとうつぶせになって動かなくなる。
それへ振り返りもせず、ラシュディは室内に早足で戻っていった。

ぽつり、ぽつりと、雨が天使の体の上に落ちていく。
バルコニーの床に横たわったミザールはそのままぴくりとも動かず、翼を、翼を出すために露になっている背中を、髪を、剥き出しの足を濡らしてゆく雨に、何の反応も示さなかった。
ぱたぱたと雨の音は大きく、そして間隔はどんどん短くなり、ミザールの体を痛めつけるように降り注ぐ。
ミザールの存在を忘れていたのか魔導書を読みふけっていたラシュディは、激しい雨音に顔をあげ、ようやく天候の変化に気付いた。
迎えに来たかのようにラシュディはバルコニーへの扉を開ける。その頃には既に、足元はかなりの水溜りが出来ており、ゆるやかではあったが風すら吹き始めていた。
「早く自分の部屋に戻れ。目障りだ」
それがミザールに告げられた言葉だった。
彼女は美しいはずの翼を雨に濡らしてしぼませ、体にまとわりつくほどに重くなった布の中に閉じこもるように身動きすらしない。ラシュディの言葉は聞こえていないのだろうか?
「ミザール」
ええい、面倒な。
自身が濡れることも面倒だが、それ以上にこの天使がこの場にうずくまっているほうが、彼の心には鬱屈とした感情を呼び起こす。
ラシュディは雨の中けだるげにバルコニーに出て、ミザールに近付いていった。
ほんのわずか軽く爪先でこつんとミザールの腰を蹴った。
蹴り足が戻る時に、ばしゃん、と足元に溜まりはじめた水溜りが殊更に大きな音を立てる。
「考えていたの」
ミザールは体を起こさずに呟いた。雨音にかき消されそうなか細い声が、ようやくラシュディの耳に届く。
「何を今更」
「わたしは、あなたの役に、たってしまったのね」
「・・・そうだな」
何の問い掛けだ。
ラシュディは軽くそういうと、ミザールの腕を掴んで羽交い絞めにするように無理矢理引き起こした。
驚くほどに軽いその体。天使は地上で人間の形をしているけれど、構成する物質の密度は人間とまったく違うのだろう。
ずぶ濡れになった薄布はぺったりと体に張り付き、人間の女性と同じようなラインを浮き出している。
「お前は、よくやってくれた」
それは褒め言葉ではない。皮肉だ。
雨が体中を打ち付ける中でミザールは力なく立ち上がる。
ぐい、と後ろからラシュディに髪をひっぱられて、あごを仰け反らせた。
痛いくらいに顔面に雨が降り注ぐが、ミザールはぼんやりと薄目で空を見ている。
その、仰け反った顎から首、鎖骨までの細くて美しいラインを、背中側から拘束しているラシュディの指先が行き来した。
「殺して」
溜息まじりのその言葉に反応して、ラシュディの指の動きは止まった。
「わたしを」
腕の中の天使は、もともと軽いその体の力を抜き、ラシュディにすべてを委ねる。
ミザールは顔を更にのけぞらせ、ことり、とラシュディの肩に後頭部を付けた。
目線だけでラシュディが確認した天使は。
「殺して」
もう一度だけ小声でそう言って、あまりにも美しく微笑んでいた。
痛いほどに雨が容赦なく打ち付ける中、ぴくりとラシュディの指は動いた。

ラシュディのもとに届いた報告によれば、ミザールを打ち破った反乱軍の部隊には天使がおり、どうやらそれはミザールの妹ユーシスであるらしかった。
妹がいる、という話はミザールから聞いていた。
姉を討つ為に下界に降りたか。
いや、救うために、だったのだろう。
ユーシスが考えていたその救いは、ミザールが欲していた救いとは異なっていたのだろうが、最終的にはミザールの意に沿う形になったに違いない。
「ここで死ぬよりは、相応しかろう」
死に場所をお前が決めることは許さない。
何故、そのように自分はあの天使に対して所有権を振りかざすような言葉を投げつけたのだろうか。
それを考えるほど彼は暇ではなかったし、考えたところで何の得にもならないことだけは明白だ。
一歩踏み出すと、足に絡まるように水が跳ねる。
水は階下の地面にに流れていくように設計されているはずなのに、なにやらこんなところだけ不備があるのか、いくらか水溜りが出来たままになっている。
がたん。
ワインの瓶をバルコニーの手すりの上に置くと、やたらとその音は耳障りに響く。
「どうせ、明日になれば、空に還るのだ。この水たちも」
水は空から地に。地から空へと繰り返し繰り返し巡ってゆく。
あの時に、あの細い首をひねれば、雨と共にこの場に崩れ落ち、そして天に還ることが出来たのかもしれない。
そんな有り得ないことを一瞬でも考えた自分に気付き、ラシュディは忌々しそうに舌打ちをした。
それから、やおらワインの瓶を手にとり、足元にとくん、とくん、と注いだ。
まるでこのバルコニーがグラスであるように。
「お前の分だ。空で、受け取れ」
そんな気が違ったようなことをしても、この世界は何も変わりやしない。
この世界にいる誰が死んだとて、世界はひっくり返らない。
たとえ、堕天使が浄化されて空に戻ったとしても。
そして、自分が死んだとしても。
だからこそこの世界は自分にとって意味はないのだ。未だ。
ラシュディはグラスにワインを注ごうとした手を止め、しみじみとその高級なクリスタルを眺めた。
「無意味なものだ」
彼はそのグラスを無造作にバルコニーから、階下の裏庭に放り投げた。
葉の音ががさがさとかすかに聞こえるが、彼の関心をまったくひくことはなかった。
それからワインの瓶を手すりの上に再び置き、そのままラシュディはおもしろくもなさそうに部屋へ戻ろうと体を翻した。
ばしゃり。
淀んだ水にワインが混じった液体が、彼の足元にもう一度絡んだ。
ああ、この世界を変えようぞ。
ケープを面倒そうに肩から外しながらラシュディはバルコニーを後にして。
静かにガラス扉を閉じた。

Fin

モドル

最初はこちらを「宴」にしようかと思っていたのです。というわけで「宴」とはワイン繋がり。
今一歩天使の話を書く時に、彼女達の様子(?)がよくわからなくて、ついついぼやけた描写になってしまいます。
いっそデビルマンの了くらいになってくれればわかりやすいんですが。(変なワガママだな)
絶対ラシュディとミザールの間には愛情があったと信じてますが、みなさんはどうでしょうか。