いまはひとりでも

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 間に合ってよかった。
 U-NASA日本支部の敷地から出たことに安心して、慶次はほっと息をつく。
 一昨日の検査で何も問題がなければ外出届けが受理されることになっており、医療チームの人々からは、手術後の経過も良好で、きっと大丈夫だと言われていた。
 それでも、手術によって変化がもたらされた自身の体調はまだ把握し兼ねて、ずっと慶次はそれを信じられずにいた。
 検査すべてをクリアして、問題がないと言われたことで、自分でも驚くほど胸のつかえが取れたように感じ、どれほど気負っていたのかと思う。
(リハビリも終わって今日出かけられるのは、運がよかった。逆に経過が良すぎれば、さっさとアメリカに行くことになってただろうし)
 日米一班の中では、まだこれから手術をする人もいると聞いている。何人が日本で手術をしているのか、何人がアメリカで手術をしているのかはわからないが、日本側で手術をすることの方がイレギュラーだということは知っていた。 同じ日本人でも、他国でスカウトないしは応募してきたものは、基本的に本部監視下で手術を受けるらしい。
(ほんと、ラッキーだったよ。こんなことには、運がいいらしい)
 手術に成功をしても、すぐに普段通り動けるわけではないため、全員揃って訓練を始められるのは真夏になるだろうと、小町小吉から聞いていた。
 今はまだ、U-NASA本部と日本支部とで班員は分かれており、慶次のように日本支部で手術をした者は、リハビリを終えたら順に本部の施設に移る予定になっているとも。
 自分の手術が日本側で、更に手術を成功して、リハビリも順調、アメリカに行く前の最終検査が一昨日。そしてそれをクリアしての外出許可。
 うまく行き過ぎだと思いつつ、ありがたく思う。
 手術後、U-NASAの敷地内で建物外を散歩することはあったけれど、敷地から出たのは今日が初めてだ。
 手術前も、手術後も、全ての日数が慶次は平均値だと褒められ、スケジュールが立てやすいと医療チームに言われた。それが、暗に「平凡でよかった」と言われているようにも聞こえるのは気のせいだろうか。
(ま、いいけどね……)
 横断歩道で立ち止まり、信号機を見る。
 M.O.手術で己が得た性能が、通常時にどう影響するのかは慶次もまだよくわかっていない。どうやら医療チームの中でも、それは個体差だと判断する人間もいれば、ベース次第という者もいるらしく、少なくとも慶次自身もよくわかっていない。
 信号機の色が、なんだか以前よりはっきり見えるようにも感じるが、気のせいだと言われればそうとも思える。
(どれが、自分の「普通」なのかわからないってのは、こう、持て余すな)
 そう思うのは、常に己の体と向かい合い続けてきたアスリートの性だろう。
 リハビリを始める時に、手術前後の生活のせいで、少し筋肉が落ちただけではなく、絶食時期があった割にウェイトも増えたはずだだと医療チームがデータを見ながら説明をしてきた。筋肉が落ちて体が軽くなるはずなのにウェイトが増えたということは、どれだけ肉付きがよくなってしまったのか。
 それは、言われずとも既に慶次には体感を伴っていたことだが、その一方で「でも、前はもっとはっきりわかった」という気持ちもあった。
 手術を受けてしまった体はどことなく以前と違って、その違和感にまだ馴染めないというのが本音だ。
「急激に体重を落とす必要があるとは思えませんが、何があっても水抜きは当分は絶対やらないでくださいね」
 ボクサーを知っているのだな、と思いつつ、そう念押しされておとなしく慶次は頷いた。
 それに、出来るはずもない。
 どこかが違う。自分が今まで知っている自分の体と何かが違う。
 その違和感を持ったまま、過度の減量をやるなど、そんなことは恐ろしいと思う。
「あ」
 横断歩道を渡ったところにある、雑貨屋の脇の路地に紫陽花が咲いていた。薄い青い花がこんもりと見える。
(梅雨は、今年はいつ明けるんだろう)
 ありがたいことに今日は雨が降っていないが、空はなんとなくすっきりせず、まだ夏の空には見えない。
(にしても、こっちは雨の匂いが薄いんだよな……)
 生まれ育った場所と、U-NASA日本支部がある場所では、梅雨の趣もまた違うように感じる。
 島にはたくさん紫陽花があって、梅雨時は歩けばいくらでも花が目についたものだが、緑が多いU-NASA支部周りにはあまり紫陽花はなく、やたら背の高い街路樹ばかりが目立つ。
 そういう施設がある場所独特の町並みと言っても過言でもなかったため、それは仕方がないことかもしれない。



 携帯端末の地図アプリにインプットしてきたルートは、徒歩14分と表示されていた。
 まだ慣れない土地のせいか、リハビリが終わったばかりのせいか、目的地まで20分以上かかったことに慶次は内心驚いた。
 軽く走ることに許可が出たばかりと思えば、仕方がないのかもしれないが、いろんな体感が狂っているのかもしれない、と小さく一つ溜息。
「いらっしゃいませ」
 彼がやってきたのは、大通りからひとつ奥まった路地にある小さな花屋だった。
 この店でなければいけない理由はなく、単に支部から近い場所にあったのがそこというだけだった。
 店頭に色とりどりの花が並んでいるが、慶次が名前を知っているものは本当に一握り。見たことがない花もたくさんあって、ほんの6,7種類知らない花を見ただけで、いささか慶次は混乱してきた。
 少し奥まったところにガラス戸で隔てられてバラが並んでいるのが見える。
 バラは知っている。その奥にある、そうだ、ガーベラという花も知っている。それから。
「……」
 色とりどりの百合。白い百合と、薄い黄色の百合と。その中でも、オレンジ色の百合が一際目立っていた。
 おずおずとガラス戸に近づいて、その百合を眺めていると、店員が近づいてきて声をかけてきた。
「素敵ですよね。ロイヤルトリニティーっていう百合なんですよ」
「へえ」
 トリニティーって何だろう、と思ったが、考えても自分はそんな単語を今まで聞いたことはないだろうから、と脳から名前への興味を追い出す。
「山透かし百合とは違うんですね」
「あら」
 気の良さそうな40代ぐらいの女性店員は小さく笑った。
「北の方のご出身なんですね」
「えっ、あ、そうです……あ、透かし百合って、北にしか咲かないんですか」
「そうですねえ。この辺でも咲きますけど、この辺のはもっぱらミヤマですねえ」
「ミヤマ?」
「ヤマスカシじゃなくてミヤマスカシ。なんでですかね、同じ山間部に咲くのに、品種が違うんですよねえ」
「へえ……」 
 なんとなくわかったようなわからないような返事をして、慶次はぐるりと困ったように店内を眺めた。
「何かお探しでしょうか?」
「本当は山吹があるとよかったんですけど、ないですよね?」
「山吹は木の花ですから、こういう小さな花屋では」
「あっ、そうか」
「それに、季節が違いますね。あれは5月ぐらいまでかと」
「あーー、確かに……」
 確かに、山吹の花を見ていたのは夏というよりも春の終わり。
 山菜の時期も終わって、朝の陽が少しずつ早くなってきて。
 そういう季節だったように、慶次の遠い記憶がうっすらと呼び起こされる。
「じゃあ、そのロイヤル……」
 なんだっけ、と曖昧な表情を見せれば、店員はにこやかに
「はい。ロイヤルトリニティーですね。何本ご入用ですか?花束になさいますか?」
「ううーん。花瓶にさして、変じゃないような、いや、変でもいいか。三本くらい?」
 まったく慣れない買い物とはこのことだ。
 彼の今までの人生の中では、花束をもらうことはあっても、人に渡すことなぞ母の日のカーネーションぐらいだったし、更に言えばそれ以外の個人の用事で花屋にくることもなかった。
 店員がガラス戸を開けて百合を三本選んでいる様子を見ながら、そうだ、肝心の花瓶はどうしよう、なんてことを思いつく。
(ペットボトルで、いいか……) 
 第一、彼は花瓶なぞどこで売っているのかすら思いつかなかったのだ。
 花屋で売っているのでは、という発想すら、彼にはなかった。


 慶次はリハビリが終わったと判断されてから、病室ではなく、病室より更に狭い簡素な部屋が並ぶ「宿泊棟」と呼ばれる場所に部屋を一室与えられていた。
 そもそも持ち物が少ない慶次は、狭い部屋でもまったく苦にならない。
 出たゴミはすぐに片付けてしまうため、花瓶かわりになるペットボトルが見当たらず、仕方なくミネラルウォーターを飲んで――水は当分多く摂取するようにとの指導もあったため、一石二鳥だったのだ――花瓶代わりにしようとした。一度に飲み切らない分をコップにいれ、水道水をボトルに入れる。
 いざ、そのボトルに百合を挿そうとすると、どう見ても茎が長すぎるし、葉も多すぎると気付いた。
 紙用のハサミで苦労しながら茎を切り、葉をむしると、一気に室内には緑の青くさい香りが漂う。
 ほとんど何も入っていないカラーボックスの上に置くと、慶次は机の中から少しおおぶりのパスカードケースのようなものを出した。
 開けば、それは母の遺影と、母が大事に持っていた父の写真。
 フォトフレームと違って、立てるためのものではないそれを、うまく壁に立てかけようとする慶次。
 少しの苦戦の後、いくらか格好悪いものの、それなりに写真も見える角度でなんとか立てることが出来た。
「……こんなで、ごめん」
 ぽつりと呟くのは、心底の詫びではない。
 父を亡くし、母一人子一人で生きてきた慶次の家には、仏壇というものがなかった。
 人口が多くない島では、若者は本土に行きがちであったが、島の中で引っ越しをすることもなく、大抵が持ち家で、大抵の家に仏壇があったように慶次には思われる。
 勿論、彼が知るかぎりでは、の話だが。
 しかし、鬼塚家には仏壇がなかった。
 宗教上の理由ではないはずだった。一度尋ねたところ、母はあっさりと「あんな高いものなくても、あんたの父さんは怒らないわよ」と言い放ち、「ワイルドな人だったからねぇー。こんぐらいが丁度いいのよ」と本棚の途中の段に置いた夫の写真に手を合わせたものだ。
 何一つ仏具も置かれていない棚は仏壇代わりとも言えず、それじゃ単なる写真だろ、と言えば、「いいのよ。仏壇ってのはそこにいるのは死んだ人じゃないの。みんな勘違いしてるけど、仏壇は如来様がいらっしゃるところでね。だからお供えするけど、うちには如来様はいないし、死んだ人のためにお供えするんじゃないからさ」と答えられた。
 本当のところはわからない。わからないが、そういう母親の大雑把さは愛情の一種であったし、きっと父親もそれを怒るような人ではなかったのだろうと、妙に納得をしたものだ。
 だから、母もが死んだ今、慶次は母がそうしていたように仏壇を購入もしなければ、毎日写真に向かって供え物もしない。
 それを否定する者も世の中には多いだろうが、今の自分の境遇を考えれば、写真を持っていることでも十分ではないかと思える。
慶次は、ぽつぽつと、写真に語りかけた。


「リハビリ終わったし、問題ないって」


「よかったよ。成功率低い手術も生き残れて、後遺症みたいなのはまったく見られないってさ」


「目のことはさァ、さすがに参ったけど、よく考えりゃそれ以外は、オレ、体すごく丈夫だし……」


「産んでくれてありがとう。もうちょっとさ、彼女の一人でも出来るまでは、一緒に誕生日祝ってもらいたかったけど」


「なんか、母さん達にもらった体が、ちょっとさ。違う体になったように感じて、よくわからない不安もあるんだ……でも、きっと慣れればさ……」


 きっと母がいれば、手術しようがなんだろうが、あんたはあんたでしょ、と笑い飛ばしてくれるのだと知っている。
だから、こんなことは瑣末なことだ。
 それでも、なんとなく心もとないのは、慶次自身どうも古臭い物の考え方をするところがあり、ピアス一つ穴を開けるだけでもなんとなく怖く思えるタイプだからかもしれない。
 女々しいと言われても言い返せない。
 変わってしまった体は元に戻るわけでもないし、自分が選んだことだ。
 自分が、誰のためでもなく、自分のために。


 慶次は瞳を閉じた。
 心が挫けそうになったことがどれほどあったか。
 都度、どうやって自分は両足で立ってきたのか。
 それらは、自分を支えてくれた母のおかげだと、痛感する。
(だって、こんなにも)
 こんなにも、今、母からの一言が欲しい。
 本土のジムに入る時から世界タイトルに向かって、チャンピオンになるまでのいくつもの段階。
 ボクシングを辞めると決めた時。
 沢山の岐路に、決して「こうしろ」とは言わなかったけれど、彼の決意を促す言葉や、ねぎらう言葉をくれた唯一の人だったのだ。
 M.O.手術を受けることは、彼が彼一人で決めたことだ。
 よくも、自分でも覚悟をしたものだと思う。
 生きるか死ぬかわからない手術を受けて火星に向かうなど。そして、そこで生死をかけた戦いをするなぞ、正気であれば受け入れられるものでもない。
 自分は本当は臆病だ、と慶次は思う。
 積み重ねが何もない新しいことをすることは怖い。
 何故なら、すがりつける心の拠り所となる「今までと同じこと」が彼には残されていないからだ。

(早く)

(早く、体調を整えて、体重を少し落として。訓練が始まってしまえば日々の個人事のカリキュラムに沿った体つくりが始まると聞いた。そういうことが始まってしまえば、こんな不安もきっと)

 カラーボックスの脇に設置されているベットの縁に座り、慶次は俯いて顔を手で覆う。
 そうじゃない。
 変わってしまった体を嘆いているわけでもなければ、この先のことの不安に心が揺れているのではない。
 側にあなたがいなくて、今まで繰り返してきたように「誕生日おめでとう」という優しい声を聞けなくて。
 そのことがこんなにもつらい。
 それでも。

「産んでくれてありがとう、母さん。こんなでかいことやるのもさ……見ていて欲しかったな。世界の次は宇宙なんだぜ」

 母が存命していれば、M.O.手術を受けなかったかもしれない。それでも、その矛盾を慶次は無視して呟いた。
 それから、大きく息を吸い込んで、長く吐いて。
 ミネラルウォーターを入れたグラスに口をつけた時、インターホンが鳴った。
「……はい?」
 驚きながら応対すると、スピーカーから女性の声がする。
『三条です。小町班長から言われて』
 慶次より一足先に手術を終えて、数日前から運動を再開している、という、同じ一班の三条加奈子だ。
 小町班長は、今日は日本にいるのか。
 驚きながら、慶次は部屋のドアを開けた。
「何だい?」
「こんにちは。あの、小町班長が……」
 ちら、と加奈子の視線が慶次の肩越しより遠くを捉えたことを、慶次も気付いた。
「夕食にケーキつけるから、どれぐらいなら食べられるかって。甘いものの制限とか医療チームに言われているのか確認して欲しいって」
「えっ……」
「お誕生日なんですって?おめでとうございます」
 慶次はぽかんと加奈子を見た。
 それから、どうやら小吉が慶次の誕生日が今日であることに気付いて、気遣いをしてくれたのだ、ということをようやく理解する。
「あっ、あ、うん。ありがとう……ケーキ、なんて、いらないよ」
「それだと困るんです」
「えっ、なんで」
「一人が断ったら、やらなくなっちゃうでしょ、この先。それに、ケーキをご相伴出来るのを楽しみにしてる人もいるんです。わたしみたいに。それから、実は多分小町班長も」 
 慶次は益々驚いたようにと奈子を見た。
 それから、数秒の間を置いて、ようやく小さく笑って
「そっか。いや、ケーキは嫌いじゃないんだけど、多くは食べられないたちで」
「小さいのだったら?」
「ううん、半分ぐらい」
「わかりました。伝えておきます」
「ありがとう」
 まだ、そんなに多く言葉を交わしたことがないためか、三条加奈子はやたらと事務的だ。
 そんな彼女だったが、やはり先程目ざとくみつけた百合が気になって、黙ったまま帰ることは出来なかったようだ。
「お花、どうしたんです?それ。誰かにもらったの?」
「いや、俺が買ってきたんだ……あっ、ち、違うよ。誕生日だから、自分で自分に買ってきたんじゃなくて……」
「……」
 産んでくれた母のために、と言うこともなんとなくためらわれて、慶次は困ったように言い訳をしようとする。
「故郷の山沿いに、オレンジの百合がこの時期どばっと咲くんだ。それを思い出して」
 四苦八苦の言い訳であったが、嘘は言っていない。
 加奈子もそれを信じたのか、仕方がないと追求を緩めてくれたのか、加奈子は顔を綻ばせた。
「へえ、綺麗なんでしょうね。百合の群生とか、見たこと無いわ」
「とても綺麗だよ。といっても、俺もしばらく見てないけど……見たいなあ」
 今は、島もヤマスカシユリの季節だろう。
 母が好きだった山吹。次の季節は、火星に既に飛び立った後だろうか、それとも、アメリカでまだ訓練をしているだろうか。
 来年か再来年、もう一度ちゃんと花を見たい、と思える。
(……あ……今……)
 未来の予定を思い描いたのは、どれほどぶりだったろうか。
 そんな慶次の感傷など気付くわけもなく、三条加奈子はあっさりと「じゃあ」と言って慶次の部屋を離れた。
 再び一人になった空間で、ベッドにまた腰をかけ、ミネラルウォーターを飲んで。
「ケーキかあ。小町班長、結構気遣いな人なんだな……」
 ケーキを食べるなぞ、どれぐらいぶりだろうか。
 今の、少しウェイトが増したところにケーキを食べるなぞ、以前の自分なら考えられないし、今だって正直できれば避けたいところだ。だが、仕方ない。
 三条加奈子のゴリ推しに負けたのもあるが、量を気にしてくれている相手に、更に「いらない」と言うのも悪いと思われた。
(そういえば、母さんのケーキ)
 ちょうど減量時期に誕生日が重なった時、豆腐に無理矢理刻み海苔で「おめでとう」と文字を書いていた母親のことを思い出し、慶次はくすっと笑う。
 そうだ。
 やっぱり、山吹の季節に、島に戻ろう。そして、百合の季節まで、ゆっくりとしよう。火星から帰ったら。
 まだ、自分もそうやって未来を思うことが出来るということに感謝をしながら、慶次はベッドに横になる。
 百合の香りが、彼の鼻に届いた。



おわり


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