センチメンタルアシイワエロ


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「そういえば、前も隊長そんなこと言ってなかった?」
「ああ、あれだろ、以前のさ……」
「それそれ!」
 稀に、自分以外の班員達が「以前アシモフと共に行った任務」について話している時がある。
 イワンは身の程をそれなりに知っている子供であったから、誰と誰がどんな繋がりで、いつから軍隊にいるだとか、その前は何をしていただとか、出過ぎたことを尋ねることは少ない。
 正確に言えば、それを聞けるほどのコミュニケーションを確立する前に「それを聞かないのは暗黙の了解」であると知ったからだ。
 大抵の班員――全員がイワンにとっては「先輩」だが――が、聞けばそれなりに教えてくれるし、漏洩してはいけないことに関してははっきりと口を閉ざす。それを深追いさえしなければ、差し障りのないことを隠す者はあまりいない。
 第一、イワンの前で笑って話せる内容なのに、今更隠し立ても何もあったものではない。
 それでもイワンは「へー、そうなんスか」と興味津々で話を聞くだけで、自分から深入りしないというルールを課していた。
 姉のエレナからの受け売りもあったが、深入りする子供にはそのうち誰も話してくれなくなることを、過去の経験から彼は十分にわかっていた。そして、それが自分にとって一番困ることだったからだ。
 班員の中には、今回の火星行きで初めてアシモフ達と接する者もいて(それはイワンも同じだが)その者達の様子を伺っていれば
「へえ、そんな任務があったんですか。色々やってんですね」
と、やはり当たり障りのない言葉で、話してくれる相手に委ねるだけ。
 人々の対応を見れば、いくら皆に「お前は天真爛漫だな」なんて言われているイワンでも、線引きが必要なのだと気付く。そしてまた、彼が年齢の割りに分別がつく人物だからこそ、班員達は「仲間」として受け入れているのだが、その辺りイワン本人は無自覚だ。
 エレナからすれば「随分成長したものね」と言ったところだが、それを言って褒めると調子に乗るだろう、と聡い姉は口を閉ざしていた。



 自分が懸命に動かなくても自分が好きな人の過去を垣間見られるなんて、それがどれほどありがたく、そして、どれほど負担になることなのか。
 最初はただただ嬉しいだけだったが、回数を重ねることで恋愛経験が浅いイワンですら僅かに心の綻びを感じていた。
 自分が好きな人が好きなものはなんだろう。嫌いなものはなんだろう。その程度の可愛らしい、相手を知りたいという欲。
 それに振り回されている間はまだよかったが、徐々にイワンは他のことに気をとられるようになっていった。
 日々を共に過ごせば、アシモフと自分の「今」は重なっているから、少しずつであっても知ることができる。
 けれども、過去は違う。
 イワンの過去は、立場上アシモフにおおよそ把握されている。それに、自分はまだ子供で今と過去ではあまり変わりがないようにも思う。(それをエレナに言えばきっと否定されるのだろうが)
 では、逆はどうかと言えば、悲しいほどに状況は異なる。アシモフはイワンの何倍も生きているのだから、単純に考えてもイワンの何倍も人と出会い別れ、人生の岐路に何度も立ってきたに違いない。それらは、班員達との会話からすぐに理解ができる。
(最初は嬉しかったし、単純に興味があったんだ)
 あまり広くない休憩室には、自由にコーヒーを飲めるサーバーが常にセッティングされている。彼らの日々のスケジュールは分刻みとまではいかないが、日によっては短時間で遠い施設に足を運んだり、突然の予定変更を言い渡されたりと落ち着く暇がないことも多い。
 そのほとんどの時間を班員と過ごすが、今日はたまたまぽっかりとイワンは一人の時間を手に入れた。実のところ「イワンはまだ出来ないことが多いから」置いてけぼりをくらってしまった時間で、あまり歓迎出来ない休憩だったのだが。
 休憩室はあまりそこに長居をさせないように、椅子が置かれていない。立ち飲みの高いテーブルに肘をつき、コーヒーを飲みながら昼間の会話を思い出すイワン。
 以前の自分だったら、もっと「それでそれで」とか「えー、俺もそれ見たかったっす!」と少しはしゃぎつつ聞いていたことだろう。
 それが、今ではどうだ。
 聞きたい。でも、聞けば聞くほどなんだか悲しくなる。
 それは、アシモフの過去を自分よりも共有している人物がそこにいる、という嫉妬だろうか?
 いや、そういう感情ではない。
 そうだったら「俺って馬鹿だ」と自分を戒めて、はい、終わり。
 だが、自分の感情の矛先は、話をしていた班員達には向かっていなかった。
 よくわからないまま、それは一体どういうことなんだろうと物思いにふける。だが、頭が回らないのか、それとも決してみつけられない答えなのか、ただただぼんやりとした時間を過ごす。無駄と気付きつつも、鈍りながらも動く思考をイワンは止めることが出来なかった。胸の中に生まれたこのざわめきが、初めてのものだ、と実感したからだ。
 気付けば、紙コップ半分ほどに残っていたコーヒーは冷たくなっていた。思いのほか長居してしまったと気付き、イワンは一気にコーヒーを胃に流し込んだ。


 数日後、以前からお互いを見知っているという班員二人の会話がイワンの耳に届いた。
 彼らは今回の火星行きミッションで、初めてアシモフの部下として働くことになったようだったが、それまでの経歴をイワンは知らない。
 聞き耳をたてなくとも、訓練の合間の世間話が聞こえてくるのは別段珍しいことではない。
「そういや、急に昨日思い出したんだけど」
「おう」
「あいつ、どうしてっかな。レナート」
「レナート!懐かしい名前出すねぇ」
「あいつの兄貴、手術失敗しちまっただろ。俺、レナートも手術受けてるんだと勝手に思ってたんだけど、違ったみたいでさ」
「ああ、受けてねぇな。第一、兄貴の方だって今回の手術のリスト見るまで忘れてた」
「最後に見たのは二年前かな」
 結局どちらも、そのレナートという人物の現状を知らないようだったし、それ以上その人物については語られなかった。
 ただ、イワンにとって衝撃だったのは、二年前の出来事を「懐かしい」と彼らが話していたことだ。
 懐かしい。
 二年程度前のことを、懐かしいという感覚はイワンにはよくわからない。
 むしろそれは最近だ。
 とてもはっきりと記憶に残っている期間で、それが時に疎ましく思えることもある。それ以上は何も感じない、現在にあまりに近い過去だ。
 イワンはゆっくりアキレス腱を伸ばしながら、ついに我慢が出来なくなって口に出した。
「2年前って、懐かしいって感じしないんスよね」
 話は深入りせず。けれど、感じた疑問を素直に言えば、イワンの傍で同じようにストレッチを行っていたアーロンが「はっは」と軽く笑いかけた。
「俺も、前はそうだったよ」
「そういうものなんすか」
「おう。なんてったって、生きてたら生きてる分だけ、割合ってもんが減るからな」
「へっ?……割合、ですか?」
「そ。10年生きてるうちの2年と、20年生きてるうちの2年は、割合が減るだろ」
「?それって、減るから、えーと、近く感じる、んじゃないんですか」
「俺は違う説を唱えるね」
 アーロンの回答を待たずに、にやにやと笑いながらアレキサンダーが割り込んできた。
 彼は器用にも、床に両足を投げ出して前屈を行いながらというのに、いつもとまったく違いのない声音で会話を続ける。そのなにげない凄いことを、隣にいるアーロンは気にもしないようだ。これが彼らの「普通」なのかと、イワンは驚きつつ、アレキサンダーの言葉に耳を傾けた。
「年取ると、一年が早く感じるっていうだろ」
「あー、聞いたことはあります」
「間違いなくその2年は2年なのに、あっという間に経ちすぎて、強く覚えてないんだよねぇ」
「ええー、そういうものなんですか?」
「うん。あれじゃないか。脳が短期記憶でいいって思っちゃうんじゃねぇの?」
 それへ、間髪いれずにアーロンが茶化す。
「お前の脳は単細胞だな。つるっつるで、しわが足りないんじゃねか」
「うっせえな。それは外側だけだ」
「自分で言いやがった」
 アーロンの声は実に楽しげだったし、体を起こしたアレキサンダーは相変わらずにやにやしている。そのやりとりに、たまらずイワンは噴き出した。
「おいこら、人が質問に答えてやったのにお前が笑うか」
「あっ、あ、あざいますっ……わははっ、あっ、アレキシャンジャーせんぴゃい、いたいっふ!」
 アレキサンダーに頬を抓られ抵抗するイワン。
 他の班員達はちらりと視線を送ると、「またあいつらか」と苦笑いを浮かべる。
 それが、彼らの今の日常だ。
 

 夕食を終えた後は、日によって予定が入っている場合もある。今日がまさにそういう日だ。
 翌日行われるちょっとしたテストの説明等を遅い時刻に受けてから自室に戻れば、就寝時間までがあっという間だ。いつもならば、その日行われた「お勉強」の復習もするのだが―
―特にイワンは、知らないことが多すぎるので――その余裕もなく、着替えてベッドに倒れこむイワン。
「はー、今日もつっかれた……」
 ベッド横のスイッチで室内灯を消すと、あおむけになって暗い天井を見つめる。
 通常は二人部屋が基本だが、不定期に班員の組み合わせは変えられ、たまたま今は二人部屋を一人で使っている。ローテーションにより一人部屋になっている部屋に、よく班員達が酒盛りをしに来たりするのだが、イワンはロシアでも飲酒が認められる年齢ではない。
 よって、余程のことがない限りは夜はゆっくりと一人で過ごせる――二人部屋になったらなったで、相手が一人部屋の班員のもとへ遊びに行くことも多いので――ことになっていて、普段から睡眠の邪魔を誰かにされることは滅多にない。
 静かな部屋の清潔なベッド。支給されるリネンは班員達にとって「こんな環境整えてくれる仕事なんざ、滅多にない、慣れたら怖い」と笑い話にされるが、実際は大して質が良いわけでもない。それでも、日々の快適さが約束されているありがたさは、若いイワンでも感じられた。
(2年かあ……)
 枕に頭が沈む感触が、就寝前の儀礼のスイッチとなる。就寝時の室内の暗さは大体一定で、扉近くの足元灯が白っぽい光をぼんやりと放つが、ベッドに入ればそれ自体は見えなくなる。その暗さがイワンには心地よく感じられた。
 眠る前に一日のことを思い出すのは、U-NASAで訓練を受けるようになってから身につけた習慣だ。
 嫌なことを思い出せば「明日は良い一日でありますように」と思えるし、良いことを思い出せば幸せな気持ちにもなる。
 どうにも出来ない恐怖や不安で眠れなくなる時は「そういことを繰り返し思い出すのは、記憶を薄くするためだ。これでまた少し恐怖が和らぐ。俺の脳って偉いな」と静かに受け入れる。いてもたってもいられないほどの感情の揺らぎがあれば、起きて体を軽く動かす。
 それらは、感受性がもともと豊かなイワンのために、エレナが以前世話になったという軍医から教えてもらった、快適な睡眠をもたらすための自己暗示のようなものだ。
若者はたくさん体を動かせばよく眠れるものだが、それがうまくいかないこともある。
 ありがたいことにイワンにはこの考え方はあっているようだ。おかげで、「寝ると嫌なこと忘れちゃうんすよね」と言ってさしつかえがない程度には、快適な睡眠を日々得られていた。
 だが、今日はどうもよろしくない。
 繰り返し繰り返し考えるのは、二年という数字。
 仲間が話していた「懐かしい」と感じる数字は、奇しくも、自分とアシモフを結び付けているミッションに割り当てられた執行猶予と同じ期間。
 2年間、訓練を受けて、火星に行く。
 火星の滞在期間はおよそ40日間と既に決まっている。航海に往復およそ80日。地球を出るまでが2年間。地球を出てから4ヶ月間。
 長いと思っていても、気が付けば短かったと感じるのだろうか。
 火星に行く頃には自分は16歳になっている。戻ってきたら自分がどうなるのかは何もわかっていないけれど、そこから2年経っても18歳。
 18歳は自立してもおかしくない年齢でも、まだまだ経験の浅い子供だ、とイワンは思う。
(大人になる前に)
 2年が過ぎて。
 それから、また2年が過ぎて。
(仮に任務がうまくいって地球に戻ってきても)
(そこから先隊長と過ごせる可能性は、低すぎる)
 そんなことはわかっていた。
 終わることが前提の恋愛をするには、イワンはまだ若すぎる。
 彼の年齢では「でも頑張れば」とか「好きならどうにかなる」とか、そういった理想論で己を鼓舞し、未来に繋げようとあがくのが普通だ。
 けれども。
 アシモフには家族がいる。その時点で不毛だとわかっているのに、どうにもならない恋心は、最早イワン本人で手綱を握れないほどに加速していってしまう。
 頭ではわかっているのだ。何を頑張っても、ここでの生活はいつか終わって、それは自分とアシモフを繋ぐ関係の終わりでもあると。
 だからといってイワンは「今だけ」と期間を決めて恋愛が出来るほど器用ではない。何もかもがどうしようもないのだ。
 知っていた。怖くて目を背けていた。
 ただ、今アシモフが自分を受け入れてくれることが嬉しくて、自分も役に立ちたくて。
 そのことだけに満たされている、子供の恋愛であればよかったのだ。
(どうしよう)
 ごろりと体を横たえる。
 毎日そうしているように、一日の終わりに自分自身を鎮めるため。明日の活力を養うため。そのための呪文が何一つ今日は役に立たない。
「いつか」
 意識せず、声が漏れた。
 なんて恐ろしい言葉だろう、と布団の中でイワンは縮こまる。
(いつか、あの人に。そういえば、あいつどうしてるんだろうなんて)
 繋がっていたはずの糸が物理的に切れて、彼の中で過去になってしまったら、どうしよう。
(大人ってすごい。俺は、今まで全然知らなった)
 自分が誰かにとって過去の人間になるなんて。
 それは、アシモフに限らず誰にとっても同じことだ。
 今まで出会ってきた人々にとっても。
 当たり前のそれを意識したことが、彼にはついぞなかった。若さゆえの傲慢であり、若さゆえの無知だが、そうであることすらイワンにはわからない。
 彼は生まれて初めて、「今」をともに過ごす人間にとって、自分が「過去」になってしまうことを恐れた。
 アーロンやアレキサンダーが言っていたように。
(アシモフ隊長にとっては、50年生きてる中の2年なんて、ちっぽけなことなのかな)
 考えているうちに、右へ左へと、気付けば何度も布団の中で向きを変えて。時間は刻々と過ぎていくが、睡魔はまったく訪れる兆しがない。
(やばい。こういう時は眠れない)
 眠れないなどと言えば、仲間達には笑い飛ばされる。
 みな、眠れる環境さえあればきっちり眠るのも仕事だと言う人々ばかりだ。
 逆を言えば、眠ってはいけない時に起きている術も彼らは知っている。
 けれど、イワンはそうではない。
 培われた経験もなく、こうやって感情を持て余した夜は、どうすれば良いのか。
 ベッドに沈めた体から力を抜こうと意識をすれば、今度は自分の心臓の音が気になりだす。では、今度は鼓動に呼吸を合わせたらどうかと腹式呼吸を繰り返してみるが、眠れるような気がして止めた途端にまた思考が冴えてくる。
 だが、その冴えは単に「眠れない」覚醒であり、イワンの今の悩みを解決する閃きが与えられるわけでもない。
 結果、イワンは何時間も寝たのか寝ていないのかわからぬ時間を過ごし、最後に覚えている時計の表示は見事に午前4時を回っていた。


「あんた、今日はひどい顔してるわね」
 案の定、それが翌朝のエレナの開口一番だ。
 イワン本人、まぶたが重い、頭もぼんやりしている、等等感じていたものの、朝食をとれば元気になるだろうと思い込もうとしていた。それをあっさりと打ち砕く言葉に、イワンは苦笑を見せるしかなかった。
「どうしたの。みんなに心配されるのがわかりきってるぐらい、ほんとひどい顔」
「そっかな?」
「そっかな、じゃないわよ。鏡見たの」
「見た」
「じゃ、わかるでしょ」
 エレナに呆れ顔で言われたが、だからといって「うん。ひどいよね」と同意をしたくないと思う。
 起きて顔を洗って髪を整えようと鏡を見た瞬間、自分でも「やってしまった」と感じたのは事実だ。
 いつもと同じ時間に朝食をとれば、班員達に会ってしまう。班員に顔を合わせるには、もう少しこの顔がましになってからがいい、と少し遅らせて食堂に向かったというのにサーシャに出くわし、やはり「二日酔いみたいな顔」と評された。
 それでも、朝一番の顔よりはまだましになっただろう、なんて思いながら、午前のトレーニング開始時刻ぎりぎりでトレーニングルームに滑り込んだのだが……。
「なんだなんだ、ひどい顔してるな。体調でも悪いのか」
「や、いや、元気っすよ」
「元気って声じゃねぇぞ」
 エレナの予言通り、イワンの顔を見た班員達はみな口を揃えて「大丈夫か」と言ってくる。
 トレーニングさえきっちりこなせば、冴えない顔をしていてもみなも安心するだろう。イワンはそう考え、軽く「大丈夫っす」などと返事をして、予定されていたカリキュラムに取り組み始めた。
 一度体を動かしてしまえば、きっとそれなりに動けるだろう。何の根拠もなかったが、自分の武器はその若さぐらいしかないのだとイワンはわかっている。それに賭けた。
 血圧や脈拍を測り、ストレッチをして、筋力を高めるための部位別トレーニングへ。
 班員のほとんどは既に成長期を脱しているが、イワンは違う。しかも、M.O.手術のベースが植物であるため、変態後も身体面での能力上乗せはあまり見込みがない。むしろ、他国の非戦闘員の方がイワンよりも恩恵を受けているのではないかとも言われている。そのため、ロシア班の中でも、イワンは特にトレーニング内容に気を使われていた。
 それは彼自身も説明を受けており、だからこそどんな状態でも休みたくはなかったのだ。
「おはようございます」
 誰かが大きく挨拶の声をあげた。たったそれだけで、トレーニングルームにアシモフが現れたのだと誰もが気付き、みな動きは止めぬまま顔だけ扉の方を向いて挨拶をする。
「おう」
 朝からアシモフがやってくることは珍しい。いつもなら嬉しいそのことが、イワンにとっては喜べない。
 悟られぬように出来る限りいつもと同じようにと意識をして、班員達の声に混じって努めて明るくイワンも挨拶をした。
 アシモフはトレーニングを始めた班員達をぐるりと見渡す。彼から集合の声がかからない限り、皆予定通りの訓練を行うだけ。特に気になることがなければ、ものの数分でアシモフが退出してしまうことも珍しくない。
 今日もそうであってくれたら。イワンは幾分緊張しながら、悟られぬようにと準備運動を続けた。だが、彼のその期待はあっさりと裏切られ、アシモフの口から「イワン」と名前が発される。
「どうした、お前」
「はっ、ハイ、な、んですか」
「顔。どうした」
「かお。いえっ、なんでもないッス!いつも通りッス!」
 アシモフの指摘に、班員達の間でも「やっぱりなあ」という空気が流れているのをイワンは感じた。ばくんばくんと鼓動が早くなっていき、自分が今どんな顔をしているのかすら想像出来することすらイワンには出来ない。
 それ以上イワンから何の答えがないとわかったアシモフは、難しい表情で言い放つ。
「お前、今日は休んでろ。本当に顔だけ悪いんだったら、そんな顔でみんなに心配かけたことを反省でもしてろ」
 そのアシモフのその言い草に、班員の数人は含み笑いを浮かべた。顔だけ悪い、とは言い方が直接的だ。間違ってはいないけれど、と若干その場の空気が緩和する。
 それがアシモフらしい気遣いなのだと知っているアレキサンダーやエレナは苦笑まじりで軽く肩をすくめたが、言われた当の本人はそれどころではない。イワンは焦り、上ずった声で反論をした。
「ええっ、いや、自分、普通にできますから!」
「ダメだ」
 ぴしゃりと跳ね除けるアシモフの声音は厳しい。反論を許さないつもりなのだとイワンは理解をして、瞬時に唇を引き結んだ。
「午後からお前、薬の連続使用のテストがあるだろう」
「……はい」
「ほかのやつらと違って、お前は前例も共通例もほとんどない植物ベースだ。そんじゃなくても白衣チームは気をつかってんのに、検体のお前がそんなんじゃGOサインも出やしねぇだろ。俺から言っとくから、お前は今日は抜けろ」


 最悪だ。
 心配される素を作ったのが何なのか、それを知っているだけに、いたたまれない。
 イワンは部屋に戻ると、わずか2、3時間しか眠れなかったベッドに潜り込んだ。起きていれば何度でも先ほどのアシモフの表情、声、言葉、何もかも思い出してしまう。
 部下の失敗で簡単に見限る人物ではない。それは知っている。想いが通じる前も、想いが通じた後でも、アシモフの懐の深さは変わらず、それに自分が甘えていることだってわかっている。
(こんなことで嫌うような、そんな人じゃないってわかってるけど、でも、呆れさせた……)
 考えなければいけないことは、本来それではない。自己管理がなっていない。眠れなかったなら、それはそれで無茶をしないで調整しなければいけないのに、空元気でどうにかなると押し切ったことも悪かった。いくらでも反省点はあるのに、感情が思考の優先順位を狂わせる。
(俺は女か……)
 あまり使いどころを知らない言葉に「女々しい」という単語があった。女性に失礼だろうと思うような言葉。けれど、今ならわかる。多分今の自分がそれだ、とイワンは思う。
 どんなに自分に言い訳をしても「アシモフ隊長にがっかりされた」だろうことが一番気になっている。そんな自分に失望をするしかなかった。
 それでも、神経が一定以上に高ぶらないのには理由がある。体調不良だ。
 残念なことに、いや、逆にありがたいことに、体が重い時にどれだけ心を乱されても、思考は不明瞭なまま。イワンは自分では「ぐるぐる悩んでいる」と思っていたが、彼が感じるより余程あっという間に、その意識は深く閉ざされていった。


 次にイワンが目を覚ました時、淡い灯りがぼうっと視界に入ってきた。それは、昼間だったら点いているはずがない室内灯の色だ。
 イワン自身も班員達も――多分アシモフも――まったく予想外だったが、昼食すら食べることなく、夕方までぐっすりと寝入ってしまったのだ。
 目を開けて「朝じゃない……?」なんてぼんやりと考えてる。やがて頭がはっきりしたイワンは、今度は「朝のことは寝て忘れちゃ駄目なことだろ!自分がやらかして、そんで、考えるのが嫌で寝たってのに!」と己の能天気さを呪った。それから、こんな長時間寝てしまっては、今晩も眠れないのではないかと気付いて更に己を叱責する。
 数えたら、実に8時間だ。阿呆にもほどがある。寝る子はよく育つとは聞くが、体のリズムが狂うほど寝てしまっては今日の教訓を明日に生かせないではないか。
 イワンは、心配をかけたであろうエレナの部屋に行き、ゆっくり寝てしまった旨を伝えた。姉は呆れながらも「もうすぐ夕食の時間だから、一緒に食べに行きましょ」とイワンの肩を軽く叩いた。たったそれだけのことでも、彼女が「何があったのかわからないが様子がおかしい」弟を気遣ってくれているのだとイワンには十分感じられ、泣きたい気持ちに駆られる。
 結局、エレナには悪いと思いつつ、体を動かしていないから食欲がわかないと断って部屋に戻った。朝食から10時間以上経過していたので若干腹は減っていたのだが、まだなんとなく班員達と食堂で顔を合わせたくないと思えたのだ。

 
 自室に戻ってほどなくして、今度はエレナがイワンのもとにやってきた。若い彼が一食抜くことを心配したエレナは、温かな野菜のスープを運んで来てくれたのだ。
 最初は「姉ちゃん余計なことするなよ」と思ったが、彼女を安心させるために仕方なく口にすると、イワンは後悔の念に襲われた。彼女が持ってきたものが、幼い頃にイワンが好きだったスープにどことなく似ていたからだ。記憶を辿っても、今までU-NASAの食堂で出たことのない味。きっと、食堂の職員に頼んで「それっぽい」ものを作って貰ったに違いない。そう思えば、今度はすべてを飲み干さないわけにはいかなくなった。
 エレナが皿を持って出て行き、それからアレキサンダーがやってきた。また一人、また一人と班員が来ては帰り来ては帰り。皆が自分を気にしてくれていることにはありがたかったけれど、イワンにとっては浮かない気分が続いた。
 やがて、もう誰もこないだろうと――勿論班員全員が来たわけではないが――イワンが判断した頃を見計らってか、最後にアシモフ自らがやってきた。それは非常に珍しいことだ。
 扉の向こうで名乗る声を聞いて、一瞬イワンの体は強張る。嬉しいけれど、怖い。ないまぜの感情で、眉根が寄せられた。
 心配をしてきてくれたのだろうか。怒っているのだろうか。
 もともとは体調不良ではなかったのだと言い訳をすれば、じゃあ一体何だと言われるに違いない。
 どういう意図でアシモフがやってきたのかを測り兼ねたが、無視するわけもいかずに恐る恐る扉を開ける。通路で待っていたアシモフは、どうやらなんらかの打ち合わせに出席してきたようで、スーツの上着を脱いでネクタイだけ緩めた姿だった。表情は固くないが、幾分口端がさがっているように見える。
 きっと、今日も忙しかったのだろう。なのに、こうやって足を運ばせたのは自分のせいだ。その思いは、イワンの声を上ずらせた。
「隊長っ……」
 だが、続く言葉が出ない。自分を見るアシモフが、少し驚いた表情をしていることに気付いたが、それへ逆に「なんですか?」なんて問いかけられる余裕もあるはずもなく。イワンには、自分ですら理解していない自分の思いに気付いてくれたらと、他力本願よろしく祈ることしか出来ない。
 アシモフは苦笑いを見せて、イワンの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「あー、いい、いい」
「え……」
「よく寝たんだってな?すぐでなくていいから、ちっと俺の部屋まで来い」
「すぐじゃなくていいんですか」
「おう、ゆっくりでいいや。着替える時間ぐらいくれ」
「あっ、は、はい!」
 怒りもなく、呆れもない、穏やかな声。それだけ言うと、アシモフはあっさりとその場を去った。
 それを見送ろうと通路に顔を出せば、歩調をまったく変えることなく、そして振り返ることなく、大股で歩いて角を曲がっていく姿が見える。
 アシモフは、日ごろから班員達の居住区に顔を出しているわけではない。というよりも、そんな暇自体があまりないのが事実だ。
 本来の彼は、部下達のトレーニングに自分も参加する勢いなのだが、彼ぐらいの立場になればそれもままならない。だからこそ、今朝のように顔を出した時に迷惑をかけたくないとイワンも思っていたのだが。
 アシモフが班員と共にU-NASAの施設に泊り込む時は、同じ建物内でもガラスのドア一枚で隔たれた区域の部屋をあてがわれる。
 オフィサー達は極秘情報を扱う。紙ベースの情報はほとんどなく認証式の端末を使用することがほとんどだが、形ばかりでも「特別措置」をしておく必要があるというわけだ。
 イワンはすっかり眠る格好になっていたため、パーカーを羽織り、出歩くときに持ち歩く認証用のタグをポケットにねじ込んだ。
 着替える時間をくれとアシモフは言ったが、既に彼らはお互いの前で着替えることを嫌がるような仲ではない。あれは、アシモフに必要な時間なのではなく、イワンに必要な時間を作る口実だ。それぐらいはイワンにでもわかる。
(俺が、困っていたから。ちょっと落ち着いてから来いっていう意味だ)
 他の班員達にそう告げればきっと「そうかあ?」と半信半疑の返事をされるだろう。けれど、イワンはそれだけは確信を持っていた。
 そういう人だから、好きになったのだ。
 何をアシモフに言われるかを考えるとやはりまだ怖かったが、二人きりになれる嬉しさがじわりと胸に広がる。こんな形で実現するのは残念だが、二人きりの時間は実に久しぶりだ。
 イワンは自分がおかしな顔をしていないか鏡を覗きこんで確認し、部屋を後にした。


 部屋に入れば、案の定アシモフはまだ着替え途中だった。
 オフィサーの部屋とはいえそう大きくない室内で、イワンは立って待っていた。座ろうにも一つの椅子には資料らしきものが山積みになっており、アシモフがいつも座っている椅子はスーツの上着が無造作に放られている。
 アシモフも「座れ」とは言わず、てきぱきと着替えてご丁寧にも髪を結い直している。イワンはクローゼット脇の床に落ちているハンガーを拾って埃を払うと、それへ上着をかけた。
 視界にそれを確認したアシモフは「ありがとよ」と軽く礼を言うと、ようやく人心地がついたようで「あー」と小さく声を漏らしながら椅子に腰かける。
 椅子にもたれて目を閉じて、二回ほど深呼吸。その様子をイワンは立ったままじっと見つめていた。
 仕事で疲れているのかと問えば、きっと「こんなのは疲れたうちに入らない」と言うだろう。それでも、本来彼が仕事とようやく切り離される時間に、自分はどうしようもないことで心配をかけて呼ばれているのだとイワンは実感し、いたたまれない。
「隊長、あの……」
「うん。お前、どうしたんだ?ん?」
 アシモフのその言葉が、今朝のことを指しているのか、それとも今のイワンの様子がおかしいと思ってのことなのか。普段ならば、早とちりで答えて笑われるはずのイワンが、答えをためらう。そのことが余計にアシモフの心配になっている、とまでは考えられず、イワンは「俺……」と口ごもった。
 アシモフは近くに置いてあったウォッカの瓶に手を伸ばしてから「おっと」と小さく声をあげ、その手を引いた。先ほどの質問の意味は計りかねたが、どういう意味の「おっと」なのかは今度はわかる。
 自嘲的な笑みを浮かべてから、軽い仕草で手招きをするアシモフ。それに応じて近付くイワン。
「飲んでも、大丈夫っすよ……」
「馬鹿者」
 どっかりと椅子に座ったままのアシモフは、普段見ないぐらいリラックスをして背もたれに体を預けている。それがイワンにはたまらず嬉しい。開いたアシモフの足の間にイワンはそっと入り込み、床に膝をついて見上げた。その視線を一瞬遮るのは、大きな手のひらだ。
 アシモフのごつごつとして厚い手はイワンの頭をなで、耳元を滑り降りて頬にあてられる。為されるがまま体を預ければ、イワンは無意識で瞳を閉じて、降りてくる手馴れた口付けを受け入れた。
「酒入りがいいのか?」
 深くも長くもない軽いキス。そっと触れて軽くイワンの下唇を啄ばんで離れるだけのそれは、まるで子供の口付けのようなのに手馴れている。淡白なのに気持ちが良いとイワンはいつも思う。
 彼は、アシモフがあまりキスをしたがらないことをよくわかっていた。だから、これは甘やかしだ。
「隊長普段からウォッカは水みたいなもんだって言ってるじゃないスか……言うこと毎回違うから、大人って」
「嫌いか?」
「まさか!」
「そうだな。知ってるぞ」
 膝をついた床は冷たかったが、ことりと頭をアシモフの太ももに委ねると、頬に温かさが伝わってくる。
 アシモフは笑って「まるで猫だな」とイワンの頭をもう一度撫でた。
 猫か。猫だったら、今の俺より隊長と一緒にいられるだろうか。
 そんなどうしようもないことを考えながら、イワンは与えられる手の心地よさに抗えずに瞳をまた閉じた。
 ほら、またこうやって傍にいれば、何も考えられなくなってしまう。自分は余程の子供で、目の前にいる大好きな人がこうして自分を受け入れてくれることで舞い上がって。まるで魔法をかけられたようにいろんなことがどうでもよくなってしまって。
 その時、魔法をいつもかける張本人が、自らその効力をうち破るように問いかけてきた。
「……俺のせいか?」
 その言葉に驚いて、イワンはゆっくりとアシモフを見上げる。
 イワンを見下ろす彼の瞳は穏やかで優しく、けれども嘘を許さない。そんな視線がまっすぐ注がれていれば、逸らすことは難しかった。
 そうです、と言いたいけれど言いたくない。
 だが、イワンのわずかな沈黙はそのまま答えとなってしまう。アシモフは小さく頷いてから、苦笑いを見せた。
「だよなあ。お前は、困ったことに、俺のことで悩むぐらいに俺が好きみたいだからなあ」
「えっ……あっ……そ、れは」
 確かにそうだが、当人に言われてしまえば「そうです!」と元気よく叫ぶことも出来ない。
「俺が何かしたか」
「いえっ、そういうんじゃ」
「じゃあ、何もしないからか」
「な、何もしないってことじゃ……」
「……何もしないからだな、うん」
 言葉というものは難しい。いつもならばきっとアシモフは笑って「何もしないってことは、性的なことをしない、っていう意味じゃないからな」ぐらい言うに違いない。けれども、それが今はない。
 であれば、アシモフが言う「何もしない」がどういう意味なのかはイワンにはよくわからない。隊長は俺にいろんなことを教えてくれましただとか、こうやって俺と二人の時間を作ってくれますとか、イワンはいくつもいくつも返事の候補を思いついた。けれど、そのどれもが正しくない気がして、言葉を選ぶことがまったく出来なかった。
 多分そうなのだろう。アシモフは、何もしないのだ。いや、何もしないは語弊があるだろう。正しくは「現在自分が出来る以上のことは何もしない」だ。
「俺のことじゃなきゃいいと思ったが、俺のことじゃなかったら俺は何も出来ないし、とも思った」
「それは」
「でも、よく考えたら、俺のことでお前がなんか困ってても、あんまり俺がお前に出来ることがあるとは思えなくてなぁ……さあて、どうしたものか」
 人が聞けば、なんたる冷たい言い草だと思われるだろう言葉でも、イワンには素直に受け入れることが出来る。
 その言葉の真意は誰もわからなくてもいい。それが、どれだけ深い愛情から来る言葉なのかは、イワン一人が実感出来ていればそれでいいのだ。
 アシモフは本当に真剣な時には、無意味な根拠のない精神論を多くは語らない。こうやって二人でいる時間を作ることも、アシモフはアシモフなりに努力してくれているとイワンは知っていた。それを決してアシモフはそうとは言わないし、イワンだって時には騙される。だが、日々を共にしていれば「あんなに忙しいのに」と見えてくるものだ。
 もっと会いたいと思っても、もっと話したいと思っても、なかなかそれが叶わない。そこでイワンが「もっと会いたいです」と我がままを言ったとしても、きっとアシモフは簡単には首を立てに振らないに違いない。それは、アシモフはアシモフなりに既に自分の精一杯でイワンを大事にしているからだ。
 大人は余裕のある恋愛をすると思っていたし、本当は出来るはずの努力を面倒がってやらないことだってあるとイワンは思う。
 けれども、アシモフは決して押し付けもせず、決してそうであることを悟らせようとしないで、最大限自分を甘やかしている。
 たくさんの制約がある関係だからこそわかる。
「そんなの……隊長は、いっぱい、俺のために」
「お前のために?」
「……俺、隊長がこれ以上ないぐらい、大事にしてくれてるの知ってます。知らないわけないじゃないすか……ごめんなさい。今日だって、ほんとは」
 隊長は疲れているだろうのに。その言葉をアシモフは遮った。
「お前は年の割に、浮ついたところが少なすぎるな。そんな、生真面目な返事」
 いつもと同じ呑気な笑みを浮かべると、またアシモフはイワンの頭を撫でた。。
「俺がお前ぐらいの年は、好きな相手と明日は何しようか明後日は何しようか、週末は、ってうわっついたことばかり考えていたものなんだが」
「俺ぐらいの年で、女の子とおつきあいしてたんスね」
「ん?いや、片思いってやつだ。それでも、相手と毎日会えるなら、考えることはそう変わらんだろう」
 アシモフがイワンほどの年齢だったのはどれぐらい前か。そう考えれば、過去に嫉妬をしても仕方がなく、イワンはぼんやりと「どんな女の子が好きだったんだろう」と思う。
 そもそも、男を好きになったことはあるのか。
 彼の過去は知りたい。誰が話をしていても、聞き耳を立ててしまう。
 だが、それよりももっとイワンにとって大事なことは、自分が彼の傍にいる未来の話だ。
 いつか、こんな風に自分も過去の人物として思い出される日が来るのだろうか。
 抑えている感情の歯止めが利かなくなりそうだ、とイワンがこぶしを握りしめたと同時に、思いもよらない言葉が耳に飛び込んできた。
「とはいえ、それ言ったら今もそうだな。俺だって、明日はお前が元気になるかとか、明後日のトレーニングはキツイからお前に泣き言いわれちまうかなとか、そんなこと考えてるんだし」
「!」
 イワンは驚いてアシモフの顔を見た。
 アシモフはばつの悪さを感じている様子だが、それでもイワンから目を逸らさず、小さく微笑む。
「あんまり、そういうことを言わせるな。柄じゃないんだ、本当はよ」
「隊長」
「お前が言わないってことは、俺がなんかすれば解決するようなことを考えてるんじゃないだろう。ま、きっと俺のことなんだろうが」
 イワンはそれへの反論を持たない。
 だが、沈黙ですべてを肯定するのが怖くて、黙ったまま首を粗雑に横に振る。
「ん?違うのか?違うなら、言えるだろ」
「……」
「お前は煽るのが本当にうまくて、困る」
 答えのない話はそこまでだ、とばかりに突然両足に力を入れてイワンを挟み込むアシモフ。戯れかと軽く笑って、イワンは脱出しようと体をよじった。が、覆いかぶさってくる体温に抵抗を阻まれる。
「!」
「ベッド以外での泣き顔は、あんまり見たくねぇなあ……」
「俺は、どっちも、や、です」
「そうかそうか」
 アシモフの相槌は適当だ。強すぎない抱擁に気持ちよさに欲が出て、もっとと強請るようにイワンは太い腕の中、脚に挟み込まれたまま体を擦り付けた。
「本当にお前は煽るのがうまい」
 しみじみと同じ言葉を繰り返すと、アシモフはイワンを抱き上げた。
 

 まだ痛いのに、どうしても受け入れたくて、気持ちばかりが焦る。
 自分にもアシモフのものにも塗ったローションは、本来の果たすべき役割を果たしてくれない。滑りすぎてうまく入らず困るイワンを見て、アシモフは小さく笑っていた。
「……ふぅっ……もう、ちょっと……待って……」
「おう。焦らなくてもいいぞ」
 二人はとうに衣類を脱ぎ捨て、イワン達一兵卒のものよりは若干大きなベッドの上で交わっていた。
 どこもかしこも固いアシモフの体の上でイワンはぎこちなく体を動かした。何度か体を重ねてもなかなか慣れないイワンの中には、アシモフのものがまだ半分も入っていない。
 バランスをとろうと体が強張ってうまく飲み込むことが出来ず、何度も苦しそうに呼吸を止めるイワン。
(うまくいかないし、痛いのに、入れて欲しい……女の人のは、もっと、受け入れやすいんだろうなぁ……ああ、そういえば……)
 ぎちぎちと広げられる入り口の痛みを紛らわすため、今日の昼食はなんだったんだろうとか、今日はこれから眠れるのかなとか、行為と関係がないことを考えようした。その結果、突然とんでもないことが脳内に浮かんでくる。
(喧嘩をした恋人や夫婦は、セックスで仲直りをするとよく聞くけど)
 それを初めて耳にしたとき、どうしようもない嫌悪感に襲われたものだ。
 今だって、それは馬鹿馬鹿しいと思う。理性的ではないし、第一何の解決にもなっていない。けれど、きっと今日の自分は、その馬鹿馬鹿しいことに騙されるカップルみたいなものだ……よくもこんな時に思い出したものだと、イワンは少しだけ自分に呆れた。しかも、困ったことに痛みはまったく緩和されない。
「おい、今何考えていた」
 そんなイワンの物思いを見逃さず、アシモフが苦笑いを浮かべて問いかける。
「べっ、別に、なんも……」
「嘘つくな、一瞬別のこと考えてただろうが」
 お見通しだ。恥ずかしい。
 室内灯はつけっぱなしで、何もかもが見られているのはわかっていた。けれど、ほんの一瞬のことだったのに、とイワンは思う。
 そんなにアシモフが自分を観察しているのかと思うと、イワンの体はまた熱があがり、酸素を欲して口が開いた。そのタイミングでアシモフが己のものを突き上げてきたのだから、たまらない。反射で情けない声がイワンの口から漏れた。
「ぎっ!……っ……は、ひっ……」
「もう少し頑張れ。上になるつったのはお前だろうが」
「は、はいぃっ……」
 蚊の鳴くような声で返事をすると、イワンはゆっくりと動き出した。体を必死に沈めようとすれば、自分とは違う熱量を持った塊がじわりじわりと体内に入っていく。
 既に何度も体を重ねている。それでも、いつもアシモフの怒張を飲み込むときの圧迫感はイワンの体を緊張させたし、それを快楽にすり変えるまでの過程はイワン一人ではどうにもならない。
 いつもは、アシモフが覆いかぶさって、時間をかけて挿入してくれる。時間が足りない時は「シーツ掴んでる暇があったら自分のものでも扱いていろ」と言われ、恥ずかしさに泣きながら従う。それだって、いつまでも慣れないイワンが出来るだけ楽になるようにという配慮であることは間違いない。
 だから、せめてもう少し自分でなんとか入れられるように。仕事で疲れているアシモフに、これ以上迷惑をかけなようにと「う、うえ、上に、のっかっていいっすか」と立候補したのだが、予想以上にハードルは高かったようだ。
 イワンの股間のものがすっかり静まっている様子を見て、小さく笑い声をあげるアシモフ。
「仕方ないな」
「……あ、あ、う……は、入り、ました、かね?」
「入ってねぇよ……」
「で、すよね」
 わかっていても、せめて「もうちょっとだ」と言ってもらえたらありがたかったのに。
 そう思ったが、腰が浮いた状態で入っているわけがない。馬鹿な質問をしたものだと、自分でもわかるほど情けない表情になった気がする。そんなイワンを、アシモフは優しい声音で労った。
「でも、上出来だ。頑張ったな」
「でも」
 ちゃんと、まだ入っていない。
 そう抗議しようとしたイワンの腰をアシモフは両手で掴み、腰から尻へと手を滑らせた。
 くすぐったさに身をよじったのはほんの最初だけ。執拗に何度も何度も上下に擦られては無理矢理快感が引き出され、イワンの背はびくりと仰け反る。
 体が熱くなっていく。急激な熱さと快楽が混ざると、涙がじんわりと浮かぶのだとイワンは初めて知った。反応するたびにアシモフのものを受け入れている入り口に痛みが走ったが、それよりも更に強い快楽が送り込まれ、堪らず声を引きつらせて哀願した。
「駄目ですってば……!体、体動いちゃうから、抜けちゃいますって……」
「動くときは下に動けよ」
「無理っ……」
 いつもは触れた相手を安心させるかのような肉厚な指先が、明らかな意図を持って繰り返し動かされる。一度「そういう」刺激だと体にスイッチが入れば、何度でも飽きることなくイワンは泣き声に似た音を発しながら体を震わせた。
「やぁだぁ、たいちょっ……力、抜けるからっ……」
「両手で体支えてろ」
「あっ、あっ、あっ、や、駄目って、言ってる、じゃないすかっ……」
 必死に己を支えている太ももの外を内へと、アシモフの片手が滑る。
 股間のものに触れるか触れないかのぎりぎりまで指先で撫でられればびくりと体が跳ね、その一瞬の緊張と緩和でアシモフのものがずるりと出入りした。
「!」
「まだだぞ」
「あっ……や、やぁっ」
 気がつけばイワンの両手首はアシモフにしっかり掴まれていた。ぐい、と腰を下から突き上げられて体が跳ねる。
「……はっ……!!ひ……」
 息が吐き出され、それと同時に声にならない音が放たれる。何度か突き上げられたと思ったら、いささか強引に一気にねじ込まれた。
「あっ、あ、ああ、あっ」
 深い場所までたどり着かれた圧迫感と、入りきってアシモフの体に密着した安心感。その二つをイワンが味わえたのはほんの一瞬のことだった。アシモフは、イワンを乗せたままでぐいと上半身を起こした。その動きで内側を刺激されたイワンは声をあげ、たまらずアシモフにしがみ付いた。
「駄目、隊長、俺が……やりますからっ……あっ、あ」
「言っただろう。上出来だって。褒美をやらんとな」
 冗談めかして言いながら、アシモフは体勢を整えようと動いた。ほんの少しアシモフが動くたびに、イワンは声をあげる。快楽を求めた動きでなくとも、突き刺さった固いそれからの刺激にイワンは過剰に反応し、更にアシモフにしがみつく。
「隊長ぅ……
 強い抜き差しはしないのに、感じる部分を擦られてイワンの口から矯正があがった。既にイワンのものは固く立ち上がり、触る前から先走りがにじみ出ている。アシモフにしがみ付いている間に、気付けば座位の体勢になっていた。
「!!」
 先走った先端を大きな手に包まれ、突然の強い刺激にイワンは腰を浮かせた。だが、それを許さないように更に下から突き上げられ、ひときわ大きい声をあげるイワン。
「あっ、や……ひっ、んっ、んっ、んっ」
 熱い。気持ちがいい。熱い。気持ちがいい。
 アシモフから与えられ続ける刺激にそれしか考えられなくなり、イワンは泣きながらただただアシモフに縋るように腕に力を入れるしかなかった。


 イワン達の部屋と違って、アシモフの個室にはシャワールームが設置されている。
 二人で使えるような広さはないためイワンが先に使い、いつでも部屋に帰れる状態でアシモフを待っていた。U-NASAの施設内では誰に見られるかもわからないため、朝まで共に過ごすことはない。それは、お互い口に出したことがなく、暗黙の了解で成り立っていることだった。一度もアシモフは朝までいろと言わないし、イワンも一度も一緒に寝たいと言ったことがない。
「あれっ」
 どうやらイワンがシャワーを浴びている間にウォッカを呑んだようで、明らかに瓶の中の液体は減っていた。我慢出来なかったのかと思えば、自然に笑みがこぼれた。
 気を使ってもらうのも嬉しいが、自分の前でアシモフが自由に振舞ってくれる方がもっと嬉しく思える。
 と、シャワールームの扉の開閉音に顔に振り向くと、肌触りのよい寝巻きにさっさと着替えてきたアシモフの姿があった。最初にその格好を見た時、イワンは「本当におっさんだ」と思ったのだが、見慣れた今では可愛らしいとすら思ってしまう。
「待たせたな」
「あ、いえ、勝手に待ってるんですから」
 そう言って笑いかければ、アシモフは一瞬真顔になり、それからにやりと口端を歪めた。
「いや、お前が待っててくれると、俺が寂しくないからな。お前の勝手はありがたい」
「えっ」
 一瞬何を言われたのかわからず、イワンはぽかんと口を開けてアシモフを見る。
 アシモフは、ぽたぽたとまだ水滴がしたたる髪をタオルで無造作に拭くと、面倒くさそうにそれを肩にかける。それから、椅子に座って背もたれに体重を預けた。
「こういのは、柄じゃねぇからな。今日は特別サービスで、内緒にしてることをちっとぐらい教えてやってもいい」
「内緒なんですか」
「ああ」
 濡れたタオルで服が濡れるじゃないかと、イワンはもう一枚タオルを棚から持ってきて、アシモフの椅子の後ろに回りこむ。いつもは結っている長い髪。それをタオルで包み込めば、アシモフは何も言わずにされるがままになる。
「……でも、俺は、言って貰えると嬉しいっすよ?」
 少しだけ拗ねた声音で呟けば、予想外の答えが返ってきた。
「そうだな。それで、お前は、時間がない時でも俺がシャワーを浴び終わるまで待つようになっちまう」
「え……」
「だから、本当は内緒だったんだ。お前は、俺が好きすぎるから」
「……」
 言葉が出ない。言葉どころか、自分が今何をどう感じたのかすら把握が出来ない。
 イワンは髪を拭く手を止めて、アシモフの逞しい肩をみつめた。体全体からまだ立ち上ってくる蒸気にボディソープの香りが混じり、――香料入りは任務の邪魔になる、とアシモフはいつもぶつぶつと言っているが――こんな時なのに「いい匂いだ」なんて思ってしまう。
 お前は、俺が好きすぎる。そんなことを言われたら、癇に障ってもおかしくない。それをわかっていながらアシモフが言うのは、好かれている当人が気付かないわけがない、揺るがない事実だからだ。
 もしかしたら、アシモフは笑い飛ばして欲しかったのだろうか。それとも、阿呆のように「そうですよ、俺は隊長が好きですから!」と言って欲しかったのだろうか。だが、どちらも正解のようで、どちらも不正解に思える。
(隊長は、こっちを見てくれない)
 自分の出方を伺っているのだとイワンは悟ったが、冷静に考えられたのはそこまでだ。
 だって、そうではないか。何一つ間違っていない。いつか自分がこの人の過去になることがつらくて悲しくて、そのせいで、一緒にいる今日ですら心配をかけて、限られた一日を台無しにしそうになった。そんなわけがわからないことが起きるのは、好きすぎるからだ。
 イワンは、椅子の後ろからアシモフに抱きついた。腕を胸元に回して顔を彼の首筋にうずめれば、濡れたタオルを不快に思う。頬には乾く兆しもない濡れた髪や髭がはりついたが、構わずそのまま顔をこすりつけた。
「どうした?」
「俺って子供だなあって……」
「そうだな」
 アシモフは否定をしない。それはわかっていた。否定されたくて口から出した言葉ではないが、はっきりとした肯定は少しだけイワンを悲しい気持ちにさせた。
 そっとアシモフの手がイワンの頬に伸びてくる。そして、イワンがこすりつける頬に答えるように、わずかではあるが間違いなくアシモフもまた、軽く首をかしげてイワンに顔を押し付ける。
「子供だ。聞き分けがよくて、上手に我がままを言えない、不器用な子供だな」
 その囁きは顔が近いからか、やたらとイワンの鼓膜を震わせた。
 何の我がままを言えば良いというのだろう、とイワンはアシモフの理不尽な言葉に僅かな憤りを感じる。
 もっと一緒にいてください。
 違う。
 ずっと一緒にいてください。
 ずっと一緒にいてください。地球に戻ってきても。
 いつか俺を過去の人間のように思い出す日が来なくなるように。
 そんな我侭を口にしたら、どうなるのか。
 イワンのその思いをどれほどアシモフは見抜いているのか、それはわからない。だが、ゆっくりと、諭すでもなく穏やかな声でアシモフは続けた。
「今日は、一緒に寝るか」
「えっ……でも、迷惑じゃ……」
「お前が嫌じゃなければ」
「……嫌じゃないっす。嬉しいです」
 顔をあげ、イワンはアシモフの前に回りこんだ。
 部屋に入ってすぐにそうしたように、再び座っているアシモフの足の間にしゃがみこみ、固い太ももに頭を擦り付ける。
「そうか」
 まだ僅かに湿っているイワンの髪に、シャワーを浴びた直後のせいかやたら温かい手が差し込まれた。
 きっと本当はイワンを泊めることはアシモフにとっては相当な決断だったのだろう、と思う。決して彼はそうとは言わないけれど。
「隊長」
「うん」
「我侭言わないのに、我侭でごめんなさい」
「……ああ」
 それはどういう意味だ、とアシモフは深入りしない。それがまたずるいと思うけれど、だから自分達はこうやって共に過ごせるのではないかと、ぼんやりとイワンは思い、それ以上の思考を止めた。
 猫だったら、今の俺より隊長と一緒にいられるのに。
 ちらりとまたそう思ってから、ただただ自分を撫でる手の感触に溺れ、イワンは瞳を閉じた。



どっかに続くかどっかから続く


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