少女漫画慶→小


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 それは一体誰が最初に言い出したのか。
 多くの悪意こそ伴わないものの「鬼塚慶次は特別扱いをされている」という声は、慶次本人の耳にも届いていた。
 その「特別扱い」が何かといえば、早朝ランニングを許されている、ということなのだから、まったく馬鹿馬鹿しいと慶次は思っていた。
 日米合同班では、個々人に日々の運動カリキュラムが割り振られている。基本的に、休日以外はカリキュラム外の運動は許可されない。
 だが、鬼塚慶次は例外だ。彼は、他の誰よりも「規則正しく習慣をこなすことで長年体調維持をしてきた」人間のため、すぐ様それを止めるようには言われなかった。
 とはいえ、火星行きミッションが始まれば、規則正しい起床、規則正しい就寝、規則正しい運動の三つを揃えることは難しくなる。むしろ、いつ起きてもいつ寝ても、睡眠時間が少なかろうが多かろうが、可能な限りベストの力を出せるように調整する能力が必要となる。
 慶次はもともとそれが得意ではない。ボクシングをやっていた時に何度も海外に渡ったから、自分の欠点を知っている。
 あくまでも「同じ日々」を繰り返すことに慣れた体は、起床時刻を遅らせることも出来ず、起きてからは余程のことがない限りには走らずにはいられない。
 だから、徐々にそれを無くすように、けれど急がずに、と小吉とミッシェルに言われ、ワシントンの施設に居を移してからも習慣は続いている。
 それを「特別扱い」と言っている人間は、「U-NASAの施設外を走る許可をもらっている」部分が気に入らないのだろうと思う。
 彼らは休日以外に施設外に出ることがほとんど許されていない。だが、慶次に関しては施設外を走る許可が出ている。
 トラブルが起きないようにGPSを携帯することが前提だが、そんな詳細をわざわざ吹聴する必要など感じず、慶次はただ黙々と己に許されたトレーニングに没頭をするだけだ。
 日本人だから、元世界チャンプだから、小町小吉に特別扱いをされている。
 その言葉を聞いたのはいつだったか。
 特別?笑わせるな。
 もともと慶次はあまり怒りを外に出す性質ではない。また、自虐的なことを口にする方でもない。だからこそ静かに己に向かって、静かに世界チャンプになったと、彼を知るものはわかっているだろう。
 しかし、その噂を聞いた瞬間、彼は口から出そうになったその言葉を抑えるのに、一瞬大きな葛藤を抱いた。それは珍しいことだ。
(小町班長の特別なんて、どこにもないだろうに)
 あるとすれば、副長のミッシェルだろうかと思う。
 小吉は、他人に公平だ。少なくとも元来の性質のみならず、彼がそうであろうと意識しているように思えるし、特定の班員だけを大切に扱うような人間ではない。
 慶次は二十年前のバグズ2号計画の詳細を知らない。そに関することはかなりのトップシークレット扱いになっている。
 それでも、無神経な誰かが小吉の口から「それ」を語らせようとした場面に、慶次は何度か出くわしている。多分、その相手は「傍にいるこいつなら何も言わないだろう」と慶次のことを思っていたのだろう。自分がそういう「ことを荒立てないその他大勢」と人に見られることを慶次は知っていたし、実際その場にいた慶次は何も言うことが出来なかったのだし。
「そういうこと聞くの、無神経じゃねぇ?」
 マルコスなら、きっとそういうだろう。三条加奈子もはっきりと言うだろう。さしずめ「そういうの、人がいないところでやってくれない?」辺りか。
 けれど、慶次は何も言えなかった。何も言えずに、苦笑いしながら答える小吉を見て、更に言葉を失うだけだった。
「別に、守秘義務部分以外は答えるが、公開されている以上の情報は特にないぞ」
 小吉は、特に傷ついた顔をしない。20年の間に何度も何度も他人から聞かれ続けただろう彼にとっては「またか」程度のことに違いない。
 それでも、意識して抑えられただろうその声音は。
 人の心の機微に比較的疎い慶次でも、触れてはいけないことなのだと気付くに十分だったのだ。
 そこには、きっと小吉の「特別」があるのだろうと。


「おー、今日も走ってきたのか」
「あっ……おはようございます」
「おはよう」
 だいぶ陽も昇ってきたものの、人々が起きるにはまだ運動をする時刻だ。
 その後シャワーを浴びて着替えれば、大体人々が目覚め、朝食をとる時刻になる。
 そういった頃合に、時々小町小吉は小さな荷物を持って出かけることがある。
 日本の支部に戻ることもあれば、他国の支部に足を運ぶこともあるし、慶次が知らないどこかへ行く場合もある。
 どこに行くにせよ、小吉は朝早くの移動を好むようで、こうやって慶次が走り終わった頃にちょうど出くわす。
 慶次は走りながら施設の中に戻って来ると、入り口傍で軽い運動をしてから自室に戻る。
 大体週に一度くらい小吉は出かけるようで、ワシントンに来てからはもうかれこれ5、6回は出かける小吉と会っていた。
「一昨日戻ってきたばかりでしょう。お疲れ様です」
「あー、うん。今日のは私用でな。明後日の昼には戻るから」
「はい。聞いてます」
 小吉に限らず、各班の班長は色々と忙しい。だが、とりあわけ小吉は別格だ。それでも「いないのが普通」にはせずに、出来る限り班員のトレーニングに顔を出し、あれこれ指導をする姿を見せるこの男を、慶次は好きだと思う。勿論それは口に出さないけれど。
「じゃ、行って来る。留守の間頼んだぞ」
「はい。行ってらっしゃい。お気をつけて」
 日本式の挨拶を交わして、小吉は笑顔で軽く手を振ると門に向かって歩き出す。
 頼んだぞと小吉は言うが、別に慶次が何かをするわけではない。単なる社交辞令だ。
 それでも、他人が見ればきっと「頼られているのが嬉しいのだろう」と判断するように、慶次の口端は少しだけにやけた。
 そうではないのだ。こうやって、自分だけが小吉を見送れることが、いつも嬉しい。
 まだ空は薄暗いものの、小吉が振り返れば慶次の表情は見える程度だ。それでも、彼が振り返らないことを慶次は知っている。行ってくるの後に、振り返るような関係ではないことは理解をしている。
(俺が与えられている特別っていうのは、このことだけだ。俺が、勝手に特別だと思ってるだけだ)
 小吉の姿が見えなくなってから、慶次は肩甲骨をゆっくりと伸ばすストレッチを再開した。小吉の明るい笑顔を思い出しつつ。
 もともと、慶次は他人への好意を外に表すことが得意ではない。だから、人々に「無関心なんだと思った」とよく言われ、人を傷つけ自分も傷つくことだって多かった。
 けれど、それが今はありがたいと思える。
 こうやって小吉を見送ることが出来るのは自分だけなのだ。人々が言う「特別扱い」なんて意味がない。
 勝手に自分が自分に与えた「特別」は自分にしかわかるはずがない。
 あまりにも小さな幸せで、それを大事にしている自分を時に情けないとも思う。
(……あと何回、会えるんだろう)
 慶次はストレッチを終え、水飲み場――天気が良い日に職員達がベンチでひなたぼっこをしながらランチを取れる場所に設置してあるのだが――で顔を洗いながら考えた。
 自分が与えられたこの小さな「特別」は期限つきのものだ。
(俺は、どうしようもないな……)
 以前なら、朝小吉に会えなくなることへの悲しみよりも、自分が積み重ねてきた日々の習慣を止める悲しみの方が強かったというのに。
 慶次は、流水のセンサーから体を離し、タオルでごしごしと顔をこすった。
 今日は、以前の半分も走っていない。
 もうすぐ。
 もうすぐ、走ることを止めなければ。



 自分が小吉に向けている好意がどういうものなのか、慶次はいまひとつ理解をしていない。
 元々友人は多くないし、恋愛経験といえば「本当にそうだったのか」と思えるものばかりだ。
 小学生の頃、高学年になったばかりの年に気になるクラスメイトがいた。あまり目立たないけれど気立てが良い子で、慶次は「もっと話をしたいな」と感じた。
 けれど、当時の慶次は昼休みともなれば前日のジムで言われたことを校舎裏で一人で復習をし、放課後となればさっさとジムに走っていってしまう、そんな少年で、ある日気がつけばそのクラスメイトが転校することを聞かされ、それ以上の進展のないままに終わった。
 それが恋だったのかどうかも定かではない。
 その後、プロボクサーになってからも一度「それらしい」恋はしたものの、自分がその恋に対して何か動いたことがあったかといえば、記憶にない。
 いや、そもそも、人間関係全般について、彼は自分から何かしら能動的に動くことが少ないのだ。
 ただ、うっすらとぼんやりと、自分の心の声の欠片は聞こえるが、もやがかかっている。はっきりとしていない。相手を好きか嫌いかはわかっていても、それがどういう好意なのかはよくわからないままだ。
 小吉は年長の男性なのだから、尊敬なのだろう。そんな曖昧な感覚は抱いていたが、どことなくしっくりこないまま。
 それでも、慶次はそこから先の自分の声には耳を傾けず、自分勝手な「特別」を得ていることだけをひそかやな楽しみにしていた。
 きっと、朝走らなくなったら、班長を見送れなくなって、自分はそれを残念に感じるんだろう。そんなことを思いつつ。



 前日のカリキュラムが少しハードだったせいか、体にけだるさが残る。
 季節は朝が明けるのがゆっくりになりだした頃。
 日本しか四季がないなんて誰が阿呆なことを言ったのだろうか。太陽は雄弁だし、空気の透明度の移り変わりは日本でなくとも感じられる、とここ数日慶次は同じことを繰り返し思っていた。
 それも、きっと今日で終わりだろうと、温まった体とは裏腹に少し冷たくなった耳を摩りながら呼吸を整える。
 大分、走る距離は縮めてきた。もう、いつでも走るのを止めてもおかしくないほどに。それにあわせて起床時刻も少しずつずらしてきたし、特に今日は前日の疲れが残っているから、それを理由に「もう止めた」と言ってもよかったのだ。
 けれども、今日、小吉が出かけることを慶次は知っていた。
 あと一度だけ。
 あと一度だけ、出かける小吉を見送ったら、火星行きのためにこの習慣も終わりにしよう。そう決めたのは一週間前のことだ。
 小吉は慶次が毎朝どれほどの間隔で距離を減らしているのかは知るはずがない。ただ、慶次からは終了の報告をしていないのだから、まだ走っているとは思っているだろう。
 距離を縮めたおかげで、整理運動をするほどでもない、まるで散歩をしてきただけ程度しか体は使っていない。
 それでも、慶次は以前と同じストレッチを入念に行ない、平静を装いながら小吉を待っていた。
 あともう一度だけ股関節を伸ばしたら。
 いつもよりも長めのストレッチ中に、ようやく小吉は姿を現した。
「お、やってるな」
「……おはようございます」
 いつもと同じ、あまり大きくない荷物。小吉は移動後にそのまま支部に向かうときはスーツで出かける。今日はそれにトレンチコート――ミッシェルが以前「あんまり似合わないな」と笑っていたことを慶次は思い出したが黙った――を羽織っている。
 今までにない薄暗い空の下で、小吉はいつも通りの笑顔を慶次に向ける。
「おはよう。さすが、いつも丁寧だよな、走り終わった後」
「……はは……」
 うまく返事が出来ず、苦笑いで乾いた声を漏らす慶次。
「今日で、えっと……最後にしようと思ってます」
「お、そうか。ちゃんと調整できたか」
 小吉は言葉が足りない慶次の会話も、正しく汲み取る。それに、どれほど助けられているのかは、慶次しかわからないことだ。
 時には「こういう風に言わなきゃ、伝わらないだろ」とアドバイスを与えてくれる年長者は、残念なことに今まで慶次は小吉以外に出会ったことがなかった。良くて「それじゃわからねぇだろうが」と怒られる程度だ。
 だからこそ、きっと自分は小吉を好意的に思っているのだろう、と突然今になって慶次の腑に落ちる。
「……と、思います」
「ご苦労さん。長く続いた習慣を変えるのは大変だっただろうし、不安もあると思うが、お前なら大丈夫だろう」
「だといいんですけど」
「なんだ、自信なさそうだな」
 ははは、と笑う小吉に、慶次はばつが悪そうに俯きがちに言う。
「思い通りの起床時刻に起きるっていうのが、どうも今も苦手で。毎日同じならいいんですけど」
「ああ、お前こっちに来た時も、初日変なことになってたもんな」
 そういうところを覚えていてくれるのは、ありがたいような嬉しくないような、と慶次は思って、小さく微笑んだ。
 と、予想もしていなかった言葉が小吉の口から発される。
「じゃあ、まあ、あれか。お見送りしてもらうのも、今日が最後ってことだな」
「……そうですね」
 あっさりと、特に深い意味もないように紡がれたその言葉。慶次は軽く拳を握った。自分がその一瞬で動揺をしたことを悟られないように、どこかで力を入れなければいけない、と思えたからだ。
 何も間違ったことを小吉は言っていない。当然の会話といえば当然の会話だ。それでも、慶次は小吉が自分と似たことを考えていたなんて、これっぽっちも思っていなかったのだ。不意をつかれた、と思う。
「寂しくなるなあー、これからもっと寒くなるのに、朝だーれの見送りもなく」
 冗談めかして言うと、小吉はにやっと笑う。
「……お出かけ時間をずらしたらいいんじゃないですか」
「そういうわけにもいかんのよ。お、じゃ、そろそろ行って来るわ」
「……はい。お気をつけて行ってきてください」
「ああ。じゃあ」
 軽く一声かけて、小吉はいつものように慶次に背を向けた。
 曖昧な笑みを浮かべて、慶次は小吉の広い背中を見る。
 この寒い中、大変だな。
 何かから気を逸らそうとしてそんなことを無理矢理考えようとする慶次。
 そう言えば、こうやって歩いて門を出て行くけれど、そこから先はどうするんだろう。空港行きのバスがこの時刻に通るとは思えない。ここは日本ではないのだし。
 車を回して貰うならば、門のところまで呼べばいいのに。
「えっ……」
 不意に口から出た声に自分に驚いて、慶次はタオルを握り締めると足早に水飲み場に向かった。
 ストレッチはもう十分過ぎるほどやっている。後は部屋に戻って「ああ、終わったな」と思うだけの時間。
 どうして、今日まで気付かなかったのか。そして、どうして今日気付いてしまったのだろう。
(嫌だ。勘違いしそうになるだろうが……)
 まさか、小吉は自分の様子を見るために、車を施設内に呼ばずにいてくれたのではないか。
 それが当たりかどうかはわからない。聞きたくてもきっと、いつどんなタイミングで尋ねればいいのか、最早自分にはわからない。それどころか、きっと小吉ははぐらかして、そのはぐらかしが本当かどうかすら自分には理解出来ないのだろうと慶次は思う。
 水飲み場に近付くと、いつもよりセンサーの反応が鈍重に感じられ、何度も手をかざし直す。
 それをきっと誰かに言えば「いつもと変わらないだろう?」と答えられるだろうが、慶次は「なんだ、くそっ」と焦り、苛立ち、珍しい舌打ちをする。
 何度も顔を水でばしゃばしゃと洗う。冷たい。今までで一番。そうだ、季節は少しずつ過ぎて、冬に近付いているのだから当然だ。
 その間、一体自分は何をやっていたのだ。


――寂しくなるなあー、これからもっと寒くなるのに、朝だーれの見送りもなく――


 ひどい人だ、と思う。本当にそう思っているのだろうか。今まで慶次が何度も告げてきた「行ってらっしゃい」は小吉にとっては本当に嬉しいものだったのだろうか。
 慶次はタオルで顔も拭かず、水飲み場の前にしゃがみこんで俯いた。

 これから先、小吉は今まで通りこの時刻に出かけるのだろうか?もしそうだったら。
 一度でも、自分がいないことを「寂しい」と本当に思ってくれるのだろうか。
 どうしよう。自分が勝手に思い描いていた特別を手放す日に、こんなことになったのだろう。
 何一つ、本当のことを教えてもらえないだろうに。どうしようもない思いが慶次の頭の中で渦巻く。
 抱え込んだ膝に、水滴がぽつぽつと零れ落ちた。その中のいくつかが、思いもよらず熱くて慶次は怯える。
 なんだ、この熱さは。
 何も始まっていないのに何かが終わったように感じ、その熱をなかったことにしたくて、タオルで顔を何度も何度も擦り続けた。




おしまい。


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