小アド(1)

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 どうしてだろう。
 妻のことをふと思い出すと、何故か頭に浮かぶのは幾分昔のことばかり。
 結婚当初の二人の会話をふと思い返してみたり、そういえば彼女は最近あの服を着ないなと気になったのは、何故か独身時代のものだったり。
 U-NASAで増えていく業務は、以前にも増してアドルフを家から疎遠にしていたけれど、それでも休暇が取れれば帰宅をするし、ワシントン本部に頻繁にいると言えども月に一週間はドイツで執務をしている。
 共に生活をしているはずなのに、まるでそれが遠い昔のことに感じるのは何故だろう。
 なかったことにしたいのか。いいや、そんなことは自分で受け入れることが出来ない。
 だというのに。
 ドイツから離れてこうやってワシントンの本部にいると、妻と共に過ごす日々が「まるで遠い昔」のように感じる時がある。そして、そちらの方が現実のような、正しい気がして、どこかで自分はホっとしている。
 そして、ドイツに戻らなければいけない時には、漠然と「どうしよう」と思うのだ。
 どうしようも何もない。ドイツに戻って、彼は彼の仕事をして、家に帰宅すれば家族との時間を持てる。ただそれだけのことだ。
 その「それだけのこと」が、なんだかひどく苦痛に思える。
 アドルフのその自覚は己への失望落胆に繋がり、その心を苛み続ける。
 帰宅をすれば、彼女は彼の好物をふるまってくれるし、笑顔で息子の成長を報告してくれるというのに。
 それでも。



 ワシントンとフランクフルトを結ぶフライト時間はおよそ6時間。
 その6時間が惜しいといつもアドルフは思う。それを言えば、これでも昔に比べればかなり搭乗時間は短くなったのだと聞いたことがある。だからといって、それが「時間が惜しい」と思う気持ちをなくす要因には何一つなりやしないのだが。
 U-NASA日本支局とドイツ支局での共同開発をしている、俗に言う「網」は、U-NASA本部側からの公式認証が行われて生産工程が始まろうとしていた。だが、実は未だに日独は機能向上を諦めていない。
 アドルフはドイツの研究棟から強度とフォルムの改良を行ったと報告を受け、小吉を伴ってドイツ支部の研究棟を訪れることになった。
 いつもは必ず小吉が必要というわけでも、アドルフが何らかのチェックをしなければいけないということでもないのだが、改めてこうやって呼ばれるということには意味がある。
 既に火星行きのための網の生産は見積が通っているが、今回の「改良された」ものを通すには、きっと見積もり段階とかなりの差分があるに違いない。性能云々ではなく、生産に掛かる金額が、だ。
 だから、それを通すために、オフィサーである二人に直接試して貰ってテコ入れをして欲しい、という大人の事情だ。
 正直、自分はともかく、小吉をそんなことでワシントンから移動をさせるのは申し訳ないとアドルフは思っていた。だが、他にもドイツ支局での仕事の約束をしているとのことで、胸を撫で下ろす。
 それに、ドイツ側からすれば、小吉は暫定であるけれどアネックス艦長であり、そうなれば同じオフィサーであってもアドルフよりも立場が上。その人物から推して貰えれば助かるというのも頷けるし、日独共同開発という建前では、やはり両国のチェッカーとして二人どちらもいることが望ましい。
 そんなわけで、二人はドイツ支局に共に向かった。


「俺は起きているから、着くまで寝たらいい」
 車の後部シートで、小町小吉は小さくアドルフに笑いかける。
 空港からドイツ支局までは、タクシーを走らせて40分。
 アドルフにとっては見慣れた光景だが、小吉にとっても初めてのものではない。
 他国の人間には珍しいことだが、小吉は空港からどれほどの時間でドイツ支局に到着するのかを既に把握している。だからこその言葉なのだろう。
 だが、自国の人間が寝て、他国の人間が起きているというのもなんだか申し訳ないとアドルフは思う。
「あなたが起きているなら、俺も寝るわけにいきませんよ」
「いーよ。俺は大丈夫だから。お前、飛行機ん中もあんまり寝てないだろう」
「……いや」
 いや、そんなことはありません。
 そう続けたかったが、どっちにせよ小吉はお見通しなのだ、と観念して黙るアドルフ。
 だからといって、簡単に眠るわけにはいかないのだが。



 アドルフは、自分が運転をしない乗り物で眠ることが苦手だ。
 何故うまく眠れないのかは、わかっている。完全にそれは幼少期からのトラウマだ。
 様々な実験に身を晒さなければいけなかったアドルフは、基本的に一つの実験用施設で「飼われている」ような状態を過ごした期間が長かった。
 が、時々その施設では足りない実験をするため、車や飛行機で別施設に移されることがあり、大体その先で行われる実験というものは彼に多くの苦痛を与えるものと相場が決まっていた。
 だから、本来睡眠を呼び起こしてほどよい眠りに導いてくれる心地よい揺れは、彼の理性にとっては不快なもの。
 今はもうそういった実験もほぼなくなったし、どこかへ移動するにもそれは仕事であり、彼は苦痛を伴うわけでもない。
 それでも、夢への誘いに身を委ねた、と思うと、過去の体感が突然彼の脳内で警鐘を鳴らし、「また、痛いことをされるんじゃないか」と彼へ無意識の恐怖心を植え付ける。
「痛みはそのうち慣れる」とよく人は言う。
 それはあながち間違いではない。
 だからこそ、軍隊などで対拷問訓練を行うような場所もこの地球上ではあるのだし。
 しかし、それは完全に「今から痛くなりますよ」という瞬間のストレスを軽減するようなものではないし、痛みに慣れていなかった頃の自分の「痛みへの恐怖」を無くすことも出来やしない。
 人は忘却の生き物と言うけれど、誰もが「思い出したくないことは忘れる」を自己コントロール出来るならばなんと楽なのだろう、とアドルフは思う。
 自分の忘却の機能は、一体自分に何を忘れさせてくれるのだろうか、とも。
 何かに乗って移動をしていると、その先にある「恐ろしいこと」に反射的に身構える。
 過去の「それ」は、彼が寝ていても起きていてもその身に必ず振りかかるもので、抗いようがない。ならば、どうせなら眠ればいいに違いない。
 理性ではわかっていても、何かに恐怖を感じている時に意識を手放そうとするのは難しい。
 眠ったところで死ぬわけではない。寝ても寝なくても、嫌悪を感じるその「痛みを与えられる」時間は等しくやってくる。それが、彼の過去には頻繁に訪れた「忌み嫌う時間」だ。
 それでも、瞳を閉じて意識を手放そうと試みても、落下する夢を見た時のように、どくん、と彼の胸奥は大きく波打って、彼を眠りの淵から呼び覚ます。
 時には体の疲労に負けて素直に眠れる時もあったが、今日の彼は残念ながら、というか、そうでなければ困るのだが、まだ余力があり、そういうわけにはいかなかったのだ。



「それでは、すぐに本部側に申請を出させていただきます」
「ああ。思ったより手間取って悪かったな」
「いえ。大分入念に見ていただけて、逆にありがたいです」
 ドイツ支局には日本からも技術者が来ており、チェック以外にも入念な打ち合わせが行われた。
 各国の思惑がバラバラであることは暗黙の了解であったが、日本とドイツは技術提供が為されているため、末端の技術者レベルでは比較的その「思惑」などがまるでないようにうまく回っているようだ。少なくともアドルフはそう思う。
 それ以上の上層部に関しては、彼の中でも少なからず不信はあったが、それは誰へ口にすることもない。
「やー、お疲れさん。思ったより時間かかったなあ」
 技術者が自分たちの職場へ戻っていく姿を見送ってから、明るい声音でそう言うと小吉は伸びをした。
(ああ、お疲れさん、か……)
 間違いない。確かに疲れている、とアドルフは思う。
 ワシントンのU-NASA本部を出てから、ずっと寝ていない。
 いつもならば空港から自宅へ行って休んでからの出勤にしたり、そのまま来ても執務室で仮眠をとったりしているが、今日はそういうわけにはいかなかった。
 前回のバージョンの網の見積もりを取り下げるのは、早ければ早い方がいい、と研究員に言われていたので、少しばかり無理な日程をおして強行突破をしたというわけだ。
 それは勿論小吉も同じことなのだが、小吉はアドルフと違って、飛行機に乗っている時間のほとんどを睡眠に充填した。
 彼らが扱う情報は機密がほとんどであるから、飛行機に乗っている時間が長いからといってそこで仕事をすることはほぼありえない。するとしても、たかだか知れたものだ。
 小吉はたまたま前日がオーバーワークだったから、と言い訳のように添えて、飛行機でぐうぐうと寝てしまった。
 まあ、だからこそ、アドルフがあまり寝ていないことを彼が気付いていたのが、若干アドルフは驚いたのだけれど。
 とりあえず、新型の良い部分はわかった。改善が出来なかった部分も理解をした。
 実際にアドルフも小吉も使用をして、その場で「こっちの方が良い」と改良型に太鼓判を押した。
 だが、小吉はたったそれだけの仕事に駆りだされたわけではなく、アネックスの設備備品の製造前チェックも兼ねての来独のため、今からまだ打ち合わせが残っている。
 基本的にアネックスはワシントン本部側で開発を行ったが、内部の細かな設備などで、ドイツや日本にそれぞれ発注されたものもある。
 それは航海するにあたっての基幹になる部分ではないため、製造工程に入るのはこれからだ。
 一度製造を始めればそれは一気に行われ、ほんの一週間もせず物がワシントンに届けられる。
 万事を期すため研究には研究を重ねられ、技術者以外の現場の人間――この場合、アネックス乗務員のことだ――のチェックを経る。
 今月末までにそれを行う予定だったんだ、と小吉は「ちょうどよかった」と言っていた。
「アドルフ、家に帰るだろ?」
「……いえ、でも」
「ああ、俺のことなら気にしなくていい。備品の確認は俺に来た依頼だからさ……勿論、見たいっていうなら同行してもいいけど」
 アドルフは即答を避けた。
 それは、行きたい気持ちと眠い気持ち、その2つを天秤にかけたのではない。
 自分が、妻の浮気に気づいていなければ、息子を心から愛していたら。
 そうしたら、どの返事をするのが一般的なのだろう。
 そんな、誰かに聞けば「そんなの人によるだろう」と言われるしか無い、どうしようもない疑問が脳内に突然現れて、彼の返答を遅らせたのだ。
(何を考えている……そもそも、俺は「一般的」とやらをよくわかっていないというのに)
「アドルフ?」
「……ああ、なんでしたっけ。少しぼうっとしていました」
「そっか。やっぱ睡眠が足りないのかもな。家に帰るんだろう?まだ交通機関あるのか」
 小吉はもう一度同じ質問を口にした。時計を見れば、とっくに夕食を食べ終わっていてもおかしくない時刻だ。
 普通ならばそんな時間で交通機関の心配をする必要はないが、小吉はドイツ支局とアドルフの家の位置関係を把握していない。それゆえの言葉だろう。
「……」
 はい、そうです。大丈夫です。
 支局から少し離れた場所に郊外から市街へ向かう駅がある。それに乗って市街地へ向かえばバスも使わず後は徒歩で帰宅が出来る。
 だから、アドルフはあっさりとそう答えなければいけないはずだった。
 けれど、どうしてもその言葉を口にすることが出来ず、少し悩んだ風に言葉を返した。
「いや、今日はもう……このまま、執務室で留守中溜まった仕事を片付けて、ソファででも寝ます」
「ああ……疲れた顔を奥さんに見せたくないのか。そりゃ優しいな」
 それへ、違います、と返答をしようとして、アドルフは口を閉ざした。
 違います、の次に続く言葉を彼は考えあぐね、それから妙な間で「違いますよ」とようやく告げる。
(ああ、なんだかこれは……)
 デジャブという言葉がある。一瞬それかとアドルフは眉根を寄せた。だが、それは「体験をしたことがないのに体験をしたような」既視感だ。
 これは完全に「体験したことが間違いなくある」状況だ。
(あの時か……)
 そういえば、各国のオフィサーが顔を合わせて面識を持つようになり、それから二度目ぐらいの頃。
 小町小吉に、家族のことを聞かれたな、とアドルフは思い出した。
 妻子がいるオフィサーはアドルフだけではない。
 だからきっと、とりたてて小吉は「妻子持ちなのに大変だ」だとか、そういった意味でその話を振ったわけではないだろう。
 日本人はそういう無駄話を「親睦を深めるきっかけ」にしたがることをアドルフは知っている。要するにそれは単なる世間話の一つ。
 だが、たったそれだけのことなのに、何故かアドルフはその時のことをよく覚えている。


「そういえば、子供もいるんだって?奥さんと新婚なんだと思っていたぞ」
「どうしてですか」
「んー、そりゃ、なんだ。甲斐甲斐しく電話なんかしてたから」


 そう言ってにやにやと笑う小吉を見ながら「ああ、嫌だ。この人のそういうところは」と心の底から苦々しく思ったことも覚えている。
 と、そんなことをアドルフが思い出している隙に、小吉は軽く手をあげて「ちょっと待ってて」と告げて、その場から突然いなくなった。
(電話でもはいったのか?)
 角を曲がっていく小吉をちらりと見てから、アドルフは壁に背をつけた。
 研究者の出入りぐらいしかないはずのその建物は、しん、と静まり返り、何も物音が聞こえない。
 非常灯の明るさがうるさい、と思ってアドルフは瞳を閉じたが、それは疲労のせいだ。そうでなければ、非常灯の明るさを煩わしく思うことなぞ、そうそうありはしないことを彼は知っている。
 やがて、ほどなくして、かつかつ、と小吉の足音が近づいて――結構離れた場所まで行っていたのか、とその時ようやくアドルフは気づいたのだが――くると共に、明らかに電話口と思える会話が僅かに耳に届く。それじゃあ、お願いします。失礼します。小吉の声音は穏やかだ。よからぬ連絡が入ったわけではなさそうだ。
 角を曲がって戻ってきた小吉は、悪い悪い、と軽く告げながらアドルフに近づいた。
「なあ、アドルフ」
「はい」
「あのさ」
「はい」
「今からさ、一緒に飯を食おう。仕事は明日にしようぜ、明日明日」
 突然何を言い出すんだ、この人は。
 唖然とする、という言葉はこういう時に使うのか、とアドルフは言葉を返すことが出来なかった。
 そして、彼からの答えを待たずに、きょとんとするアドルフの腕をだいぶ強引に引っ張って、小吉は勝手に歩き出す。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。明日って……それに、どこに」
「ホテル、もう一室押さえたからさあ、ホテルで一緒に飯を食おう」
「何を言ってるんですか、あなたは」
「何をって、そのまんま。執務室のソファなんかで寝るぐらいなら、俺に付き合ってくれよー」
「嫌ですよ。それに、おれはうまい店だとかそういうものは知りませんし、まったくお役にたちませんよ」
 そもそもアドルフは、あまり外食を好まない。人前で食事をする姿を見られたくないからだ。だが、小吉が言っているのはそういうことではなかった。
「何いってんだ、この時間ならまださ、あれだろ。メトロ系の店(百貨店)まだ空いてるだろ?プレッツェルと、なんか肉の煮込みやらコールスローやら買おうぜ」
 ああ。
 合点がいった。
 ホテルの部屋で食事をしようという誘いなのか。しかも、ルームサービスではなく。
 色々と言いたいことはあったけれど、案外とドイツの、いや、この近辺のことを知っている雰囲気の小吉の発言にアドルフは口端を僅かに緩めた。その僅かな様子を小吉は感じ取ったらしく、にやにや笑いながらアドルフの顔を覗きこんでくる。
「何?」
「いえ……」
「あ、プレッツェルは食べにくいか?もしかして」
「……少なくとも、いつぞやのラーメンとやらよりは何倍も食べやすいですね」
「じゃあ、決まりだな」
「……もう離してください。観念しましたから」
「おっと、失礼失礼」
 小吉は更に笑顔を見せて、鼻歌まじりで歩き出す。元気な人だ、とアドルフは思う。
 違う誘いであればもっと何度も突っぱねるつもりだが、アドルフは仕方がないと腹をくくった。それは、小吉をたてたわけでも、共に食事をすることを魅力的に思ったわけでも、執務室よりはホテルが良いと思ったからでもない。小吉にキャンセルの電話をさせたら、二度の変更にホテル側も大変だ、と感じたからだ。
「俺は、ハムが一緒に練りこまれてるプレッツェルがいいんだけど。酒に合うよなあー」
「おれは、プレッツェルよりはカイザーゼンメルの方が好きですが」
「何だそれ!名前がもうかっこいい!!」
 そんなこんなで、ついにアドルフは小吉に押し切られ、今日の仕事――小吉はともかく、アドルフは留守中にたまっている仕事があるかないかなぞ、わからなかったのだが――を終えることになった。
 そうして、二人は肩を並べて、ドイツ支局の建物から出て行って、鉄道の駅に向かうのだった。



 惣菜を買うために寄った百貨店で、アドルフはわざわざホテルの中でくつろぐためのシャツ等を購入した。
 小吉と違って、帰宅するつもり――支局に着くまでは、本当に帰宅するつもりだったのだ。アドルフだって――だった彼は着替えがない。執務室によれば一応あるにはあったが、行って仕事をみつけたらアドルフはそれを見てみぬふりを出来ない。そういう自分のことを知っている彼は、諦めて一見無駄と思える出費をする羽目になった。
 それを小吉は「つきあわせたせいで悪いな」と軽い謝罪をして、その代わり惣菜類は自分がおごるから、と申し出た。
 強引に付き合わされてたアドルフとしては、それは積極的に素直に受け入れることにした。
 後から一室追加をしたので、ホテルでの二人の部屋は離れていた。先にシャワーを済ませ、お互いいつでも眠れる状態で食事をしようと決めたおかげで、腹は相当に空腹を訴えてはいたけれど、それに反してアドルフの気は少し軽くなる。
 身支度をそれなりに整えて小吉の部屋を訪れれば、内装はほとんどアドルフの部屋と変わらなく、食事をするには若干狭いと思えたが。だが、それが逆に「後は食べるだけ寝るだけで一日が終わる」ような気にさせ、気持ちはだいぶ落ち着いた。
「飲み物は、水でいいのか?」
「はい」
 疲れた今日の状態でアルコールなど摂取すれば、直ぐ様寝てしまうだろうと思う。そのことは小吉に素直に告げ、今日は勘弁をしてもらった。
 小吉は、ビール片手に宣言通りハムが練りこまれたプレッツェルにかじりついて、満足そうに見える。
 アドルフの予想よりも少なめな買い物に「いつもこんな量ですか」と尋ねれば「そういうお年ごろよ、俺は」と笑われた。アドルフ自身、そんなに量を多く食べるたちではないため、狭いホテルのテーブルにちょうどよく夕食は置かれていた。
 食事を開始してしばしの間は、なんということもない世間話やら仕事の話が続いた。
 やがて、どういう流れだったか日米班とドイツ班には既婚者があまりいない、という話から、自然にアドルフの家庭の話になった。
 小吉からは、過度の好奇心を感じない。根堀り葉堀り聞いて人の秘密を握りたいだとか下世話なことだとか、そういう雰囲気ではなく、それこそ「そういう流れになったから聞いてみただけ」といった風なのはアドルフにもわかる。
 だからこそ、その単なる世間話の延長に対して、自分も軽く流すように、とアドルフは心がけた。
「子供は一歳ぐらいだったっけ?」
「はい」
「へえ、可愛いんだろうなあ。写真とかないのか?」
「他人の子供の写真を見て、楽しいですかね?」
「見せられるとめんどくさいなーと思ったりもするけど、ちょっとは気になるかな。だって、お前のことだからきっとドイツの班員にも見せてないだろ?だから余計見たいっつーか」
 そういえば、自分は赤ん坊の写真を持っていない。そのことに気付いて、アドルフは軽く眉根を寄せた。
 愛情があるかないかと問われれば、それへの答えは非常に難しい。
 いや、持っていないです。
 素直にそう言おうとして、子供がいる親――それも一人目の子供――の回答として、許されるのだろうかと一瞬アドルフは躊躇した。
 少し薄情だろうか。いや、でも、自分は薄情と言われても、もしかしたら「アドルフらしい」と言われるのではないか。
 しかし、まだこの小町小吉は自分に対して「アドルフらしい」と思うほど自分を知っているわけではない。そのはずだ。
 普通ならば必要のない葛藤を脳内から遠ざけるまで、アドルフは小吉に返事をしなかった。
 それは僅かなタイムラグであったが、小吉は「アドルフ?」と声をもう一度かける。それぐらいには不自然だったに違いない。
 ああ、まただ。
 妻と息子の話になると、なんだか受け答えがうまくいかない、とアドルフは落胆をした。
(うまくいかなくて当たり前だ。第一俺たちがうまくいってないんだから)
 うまくいっていないと思っているのはアドルフだけだ。いや、妻は「うまくやっているふりができている」と言うべきか。
 普通の人々ならば、どういう受け答えをするだろうか。
 出来ることならばそっけなく、普段通りの自分らしい答えで何もかも回避したいと思っているが、その「自分らしい」は一体どういう答えを口にすることなんだろうか。
(こんな風に惑うことなぞ、あまりなかったのに)
 たとえ、彼を実験体としか見ていない人間の前であろうと、彼はいつでも彼であった。
 学生時代に出来た貴重な友人や、今は妻となっている当時出会った恋人にも、アドルフはもともと「何をしたら嫌われる」「何をしたら好かれる」など、誰もが持っている打算的な感情をあまり抱かなかった。人が自分から距離を置くことを彼は恐れなかったし、そして、彼のそんな気持ちなぞお構いなしに、後に彼の伴侶となった女性は素の振る舞いをする彼を少しも厭わなかったからだ。
 けれど、こんな風に自分が自分であろうと意識することが、こんなに難しいとは思っていなかった。
 アドルフは淡々とした声音で答えた。
「写真はありませんよ。撮ったって、すぐ大きくなる頃ですし、あっという間に変わってしまうんでしょうし」
「……?……まあ、そりゃそうだが」
 小吉は若干不思議そうな表情でアドルフを見た。
 きっと、あまりよい受け答えではなかったのだろう、とアドルフは思う。それは、口にした直後に自分もそう思った。
 成長したって構わない。むしろ、写真と久しぶりに会った赤ん坊の差に驚いて笑うぐらいが普通の親に違いない。
 写真の中の子供が「その時のその赤ん坊」の状態である必要はないのに、一体自分は何を馬鹿なことを言ってしまったのか、とアドルフは自分に落胆をした。
 なんとなく。
 自分の赤ん坊として写真に写っているその子が、本当は「それではない」という事実。
 人々に伝える姿と自分が知っている本当が実はまったく異なっている、そんなものを自分から人に見せるなんて馬鹿馬鹿しい。その思いが交錯した末に、わけのわからない受け答えを自分にさせたのだ。
 アドルフはそう判断して
「どうも、疲れているようです」
と言い訳をした。それへ、小吉はあまり追求をせず、ビールを飲みながら軽く返事をする。
「そうだろうな。眠くなったら、後片付けとか気にしないで、部屋に戻っていいぞ」
 ああ。本当に疲れている、とアドルフはもう一度思った。
 小吉のその言葉を、心底「優しい人だ」なんて思ってしまうあたり、どうかしている。
 自分が同じ立場でも同じことを言っただろうに、こんな風に沁みるなんて、どれだけ気持ちが疲弊しているのだろう、と。




(つづく)


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