小アド(2)

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「そういや、お前数日はこっち(ドイツ)にいるの?」
 皿の上に散らかった惣菜を集めながら尋ねる小吉。アドルフは「話を逸そうとしてくれたのか」と思いつつ、平坦な声音で答えた。
「いえ?明日の夜の便で本部に戻ります」
「は?」
 どうやら予想外の回答だったらしく、小吉は眉を潜める。
「なんだ、それじゃ俺とほとんど変わらないじゃないか」
「うちの班員は今本部でトレーニング中でしてね」
「それはわかるけど……」
 語尾をぼかしながらも、小吉はそれ以上は追求せず、話の矛先を変えた。
「ああ、そういやさ、アドルフのところの班員」
 嫁さんだって待ってるだろうとか、家族とゆっくりすればいいのにとか。そういう言葉が続くと思って身構えていたアドルフは、小吉があっさりと話を逸らしたことに内心驚いた。
 だが、それと共に、小吉が何をどこまで嗅ぎつけているのだろうと、アドルフはすこしばかり怯える。
 人の気遣いというものは、時として疑心暗鬼を招く。まさに、今この瞬間がそれだ。
 当の小吉はもう何の気なし、といった風に話を続ける。
 戦闘員の不足とランキング上位者の不足を、ドイツ上層部はどう思っているのか、という至極真っ当な話だ。
 オフタイムにそんな話を、と言われないようにという配慮か、小吉は深刻な表情は見せない。まるで天気の話や世間話のような呑気さで軽い口調で「なんだかなあ」と呟く。勿論、お前の力量を疑っている話ではない、と一言添えて。
 アドルフはいささか冷たく
「動かなくなったやつらを網で捕獲するぐらいは役立ってくれれば、こちらも守ろうって気にもなりますけどね」
と言い放ち、小吉を苦笑いさせた。
「ま、今日見た網なら持ち手が改良されてたし、以前よりは女の子でも持ちやすくはなってるしな。そんな小さなプラスでも、ないよりはマシだ」
「そうですね」
「っと、いかんいかん、仕事の話をしたいわけじゃなかった」
 そう小吉は言うが、むしろアドルフにとっては仕事の話の方が好都合だと思える。
(仕事の話以外に何を話せというんだ)
 だが、彼はそれを口にするわけにもいかず、小吉のそれへは返事をせずに、網の話を続けた。
「女性が力を入れて握れるサイズと男が持ちやすいサイズは違いますし、男女に限らず、あれだけの大きさのものを全員共通で扱うのは難しいですね」
 敢えて仕事の話に戻して、その場を凌ごうとしてるのは、きっと小吉にもバレているだろう。
 アドルフは食事を終えると、空いたパックや紙皿を片付けた。さっさとこんな時間は終えて、眠りたい。そう思いながら。
 その思いが通じたのか、小吉は食事を終えて一息つくと、そう無駄な時間をとらずに「ゆっくり休もうぜ」とアドルフをすぐに解放した。



 どうにも、小町小吉が苦手だ。
 何が決定打だったのかはわからないが、アドルフはその感情をはっきりと認識していた。
 話をしていると調子が狂う。いや、その程度の相手は班員の中でもいるし、人生で初めてというわけでもない。
 自分に悪意害意を向けているわけではないし、むしろ面倒だと思うぐらいには好意的で、日本人らしく協調性を求めてくる。
 アドルフは、協調性というものが心底嫌いなわけではない。面倒だ、煩わしい、と思う部分もあるが、それを全排除することは人間である以上出来ないこともアドルフは知っている。
 例え、被検体として一般的な生活と隔離されていた時期が長くとも、ありがたいことに彼は学生生活を表面上まっとうな形で過ごすことも出来たし、そこでの人間関係で、未熟なりにもそれなりに気付いたことだってある。だから、艦長としての小吉から向けられるそういったものは理解出来なくはない。アドルフとしては、利点も難点もわかっているつもりだ。小吉が、精神論だけを語る阿呆ではない、ということも含めて。
 それでも苦手と思うのは、世の中で安直に使われる「相性」というものだろう。きっと。
 そんな風にアドルフは飲み込み、それ以上考えることを止めた。
 苦手意識を克服しようだとか、苦手だからといって相手を無視しようだとか。そういった何もかもを無視をする。
 ただ単に彼は「小町艦長が苦手だ」と認識して、それ以上の感情の進行を止めようと。自分の立ち位置を現状維持しようと。それだけは、ほんの少しの努力をしようと思った。
 それが、彼の精一杯の譲歩だ。



 さて、小吉とアドルフがドイツ支局から本部に戻って十日後。アドルフが小吉の執務室を訪れると、ミッシェルがそこにはいた。それは、アドルフには好都合。何故なら、アドルフの班にスケジュールの調整が発生し、それを二人に伝えるために足を運んだからだ。
 今現在、日米班とは本部の施設をお互い融通しあって使っている関係上、そういった連絡は不可欠だ。
 アドルフの新しいスケジュールを確認したミッシェルはさらりと
「大変だな、子供とゆっくりしてる時間もないだろうし……それを言ったら、既婚者はみんなそうだろうけど」
 そんなことをアドルフに言った。こういう話の流れは型通りのため、アドルフはとりたてて感情を動かすこともなく
「ええ、そのとおりですね。みな、きっと同じでしょう」
と淀みなく返す。勿論、言い出したミッシェル本人も、特に深い意図はなかったため「そうだな」と話は終わった。
 小吉は、アドルフの視界の隅で何も言わずにいたが、アドルフが退室しようとした時に声をかけてきた。
「アドルフ、今日この後予定何かあるか?」
「ありますけど」
「そっか。じゃあいいや」
 軽く答えれば、同じように軽く答えられる。
 何故呼び止めたのかを小吉は言わなかったが、勝手に推測したミッシェルが
「何だ。またどこか食事に行くかとか酒を飲みに行くかとか、どうせそんなぐらいだろう」
と、わざとうんざりした表情でいいがかりを付けた。
「どうせ、ってひどいなあ、ミッシェルちゃん」
「ちゃんは止めろ。アドルフ、気にしないでいいぞ、このおっさんが言うことは」
「はい」
 ミッシェルと小吉はそれぞれ違う形で相手への思いやりを外に出す。アドルフはそう思うが、決して言葉にはしない。
「ちょっと、そこ二人で結託するのやめてくんない?」
 苦笑いを浮かべて肩をすくめる小吉に、ミッシェルは手厳しく
「日本人のやり方をゴリ押しして、アドルフにこれ以上嫌われたら逆効果だろうが」
と、本人を目の前にバッサリと切り捨てた。
 これ以上、とミッシェルが言うということは、自分が小町小吉を苦手としている空気は、抑えているつもりでも外に出ていたのか、とアドルフは「まいったな」と内心呟く。それも、本人ではなくてミッシェルに気付かれているなんて、案外とこの若い女性はイメージよりは繊細なのかもしれない、なんてことをぼんやり考えた。
(とはいえ、彼女のことも実際はよく知らないしな)
が、その「よく知らない相手」だからこそ、自分の感情が気付かれたことは失態だとも言えるだろう。
 なんとなく退室するに出来なくなったアドルフは、困惑の面持ちで小吉を見る。すると、小吉は傷ついた風でもなくあっけらかんとおかしなことを口走った。
「うん?別にアドルフは俺のこと嫌ってないだろ?な?」
「「は?」」
 それへは、ミッシェルとアドルフの声が重なる。
 言葉も言葉だったが、何よりも小吉の表情が心底意外だ、と言いたげな、変に相手――この場合はアドルフだ――を伺うように見えないことに、アドルフは驚き、つい意地の悪い言葉が口から漏れた。
「その自信は何が根拠になっているんですか」
「これだから、オッサンは……」
 タイミングはまたもミッシェルと同時だった。さすがに、今度は言葉は違ったが。
 小吉はまったく凹んだ様子もなく、むしろ「お前達こそ、何を言っているんだ」と言いたそうに憮然と言葉を返す。
「だって、アドルフって、苦手なやつはいるかもしれないけど、嫌いってはっきり思う相手はそんなにいないような気がするんだよなあ」
「そういう『俺の経験上は』みたいな話を持ち出して、相手の心を見透かすような発言をする人間は好きではない、とはっきり申し上げておきましょうかね」
 意地になったわけではなく、アドルフは躊躇なくするりとそう答えた。これだけ言えば、さすがにがっかりするだろうか?そう思いつつ小吉を見る。
と、小吉は何か言いたげに口を半開きにして一瞬動きを止め、それから軽くそれを引き結んだ。
「……」
「何か反論があるようですけど」
「うーん」
 小さくうなる小吉。
「言いたいことがあればはっきり言え」
と、何故か嫌そうに言うのはミッシェルだ。
 それに小吉は、渋々といった表情で、歯切れ悪く答えた。
「いや、好きではない、ってだけなら、まあ、いいかなあ、ってさ」
「……日本人流に少し柔らかく言い過ぎましたね」
 嫌いだ、と言えばよかったのか。
 そう思えど、さすがにそれはアドルフにもためらわれた。ミッシェルが「アドルフに嫌われている」と口にするのと、本人から直接聞くのでは印象も違うし、何より、それを口にしたいと思ったわけではなかったのだ。
 その時、アドルフのコートのポケットから呼び出し音が聞こえた。携帯端末を取り出し、無言で一礼をして部屋から出るアドルフ。
「わざわざ、そんな言い回しを知ってるあたりが、アドルフらしいよなあ」
 そんな小吉の言葉がかすかに耳に入ってきたが、それへミッシェルが返す言葉は不明瞭で、静かに扉は閉まった。
 アドルフらしいとは、どういうことなんだろう。
 俺らしいとは。
 それを知っていると勝手に思っている、あの小町小吉という男は苦手だ。
 ああ。そうだ。苦手で、どうしようもないんだ。
 アドルフは通路を歩きながら、深い溜息をついた。



 本部でしか行えない訓練と検査を、変更したスケジュール通りにきっちりと終え、第三班は一時的にドイツに戻る運びとなった。
 とはいえ、ミッシェルに言われたように、アドルフはドイツ支局での打ち合わせや何やらで家にいられる時間も少なく、忙しい日々が続くことは明白だったのだが。
 家に帰りたい気持ちがないわけではない。
 自宅は落ち着く。
 彼が帰れば、彼の妻は彼が食べたいものを作ろうとしてくれるし、子供は比較的おとなしく、うるさく泣きわめくことも少ない。
 支局にいたらいたで、どうでもいい仕事にまで駆りだされるし、アドルフのポストに入ろうと躍起になっていたらしい人間からは突っかかられるし――勿論、アドルフ自身は替われるものなら替わって欲しいとすら思っているのだが――煩わしいことは山ほどある。
 けれども。
(あまり家に帰れないことが)
 嘘ではなく本当で、彼の力ではどうしようもないことであることが、ありがたい。
 自分がそんなことを思っていることを自覚して、アドルフは自分自身に落胆をした。
 それからふと。
 小町小吉ならば、そんなことを思うアドルフを「らしい」と思うだろうか、それとも「らしくない」と思うだろうか。
 そんな、考えてもどうしようもないことを思いつき、すぐさま「どっちでもいい」と思考を放棄した。
「班長―!」
 本部でアドルフに用意されている執務室に、入室の許可も得ずにイザベラが入ってくる。
 いちいち咎めるのも飽きたし、だからといって終始鍵をかけているのもおかしく思い、最近は放置しているのだ。
「なんだ?」
「次、ここ(本部)に来るのって、いつになるかわかります?」
「今のところ決まっていないな……火星行きの二週間前には調整で全員本部に集まるのは決まっているが、それまでは……」
 本部にしかない施設での訓練は当然本部で行うことになっているが、いつどの班が使用するといった相談は全スケジュールに渡って決定しているわけではない。
 ドイツに限ったことではないが、各国ともにあまり本国からアメリカの本部に班員達を出したくないという思惑がある。アドルフ達の班は比較的日米班との関係が良いため本部にいやすいといえばいやすいのだが、上層部はそれを良くは思っていない。
「何か用事があるのか」
「期間限定の、ディナー割引のチラシもらって。次に間に合うなら次までとっとくけど、間に合わないなら日米班にあげよっかなって。来週からのだから……」
「ああ、そういうことか……」
「期限、今月末なんすよね」
 今は月の頭だ。
 ならば、もう一度くらいここに来ることもあるか……と思いつつ、アドルフは答えかねた。
 彼はきっと来るだろうが、班員を引き連れてくる予定はそうそう彼の独断では読めない。
「……そうだな……って、おい、イザベラ、勝手に本棚いじるんじゃない」
「えっ、いいじゃないすか。どうせ、見てもわからない本しかないんだし」
 だったら余計、本を勝手に出し入れするな、と言おうとしたが、アドルフは黙った。
「それとも、エロい本でもまじってるとか」
 冗談めかしてイザベラがそんなことを言うものだから、深々とため息をつくアドルフ。
「お前は、俺をなんだと思ってんだ……」
「じょーだんですよ、アメリカよっか、ドイツの方が過激なの多そうですもんね」
「そういう話はしてない」
「それに、班長そういうのって、引き出しの中とかにガッツリガードして隠してそう」
 そういう話はもういい、とアドルフは辟易の表情を見せたが、イザベラは悪気のない笑顔を向けた。
「なんだよ、そりゃあ……」
「だから。本は本にまぜとけ、って感じじゃなくて、大事なものとか隠したいものは、本当に見えないところにいれとくっていう。この前エヴァの話聞きました?日記つけようかなってエヴァが言い出して」
「日記なら、毎日日報出させてるだろうが」
「個人的な日記ですってば。で、それいいじゃんっていったら、エヴァ、鍵がかかる日記帳が欲しいとか言い出して」
 余程おもしろく思ったのか、イザベラは楽しそうに笑い声をあげた。
「鍵なんてかかってたら、余計見たくなるのが心情ってもんでしょう?……で、班長、今度いつここに」
 あっさりと話題を戻すイザベラに、アドルフはきっぱりと答える。
「未定だ」
「そっかー、じゃ、諦めようかな。それとも、班長行きます?班長一人ならここに来ますよね?」
「俺が一人でディナーに行くとでも思ってんのか」
「誰か誘えばいいじゃないですか。他のオフィサーとか」
 そう言いながら、イザベラはポケットからチラシを取り出して、パシ、と軽く音をたててアドルフの机上に置いた。
「言い方が悪かったな。そもそも俺は一人でもほとんど外食はしないぞ」
 本部でも支局でも、設置されている食堂で食べるか、執務室で食べるのがほとんどなのは、イザベラも知っているはずだ。だが、彼女は相変わらずマイペースだ。
「それじゃ、班長から誰かに渡しといてくださいよ。もう夕食の時間だ。失礼しましたー!」
「おい」
 アドルフの制止の声を無視して、勝手に入ってきたように勝手に出て行ってしまうイザベラ。
 アドルフが他のオフィサーを誘って外食をするような人間ではないと、さすがにわかっているはずなのに、なんという適当さだ、とアドルフは眉根を寄せた。
 チラシを手にとって眺めるものの、その割引券を使おうとまったく気持ちは動かなかったし、小吉やミッシェルを誘いたいとも思わない。
 渡すだけ、と思っても彼らに持っていけば逆に「一緒に」と言われ、きっと自分は断る。容易にそこまではっきりと予測できた。
(それにしても)
 小吉が脳裏に浮かんだせいだろうか、先ほどのイザベラの言葉を思い出す。
 何の他意のない会話なのはわかっている。
 だが、確かにイザベラが言うように、隠したいものを隔離しようとするたちなのは、あながち間違っていないと思った。
(イザベラに言われるのは、別に嫌じゃないな)
 自分がどういう人間なのかを、勝手に想像されて言われても、カンに触らない。それは、最近日常を共にしているからだろう。
 そう思いつつチラシを書類の上にポイと投げ、ふとアドルフは気付いた。
(でも)
 例えば、ミッシェルに言われてたとしても、きっとカンに触らない。そして、それはイザベラとはまったく別の理由だ。
 そうですか、あなたは、俺をそういう人間なんだと思っているんですか。
 軽くそう思うだけだ。仮にミッシェルの予測が当たっていれば、どうしてそう思ったんだろう。ミッシェルの予測が外れていれば、そりゃそうだと。その程度の感情しか動かないだろう。
 どうして、小吉には妙な苛立ちを感じるのだろうか。
(これが、人の相性というものか)
 椅子の背もたれに体を預けて、アドルフはイザベラが出し入れを繰り返していた本棚に目を向けた。
 がさつにいじっていると思ったが、背表紙はきっちり同じラインで揃っている。
 それは少しだけ意外だと思い、そう思ったことに対して「らしいとか、らしくないとかは、わからないもんだ」と独り言が口から漏れた。
「本は本に混ぜとけ、か」
 目を閉じるアドルフ。
 確かにそうなのだ。
 今向かい合いたくないことを、自分は引き出しに閉まって鍵をかけたいのだ。誰もその鍵は持っていない。けれども、人々は安直にその引き出しに指をかけて開けようとする。
 仕方ない。
 妻のこと、子供のことは、既婚者相手の話題には欠かせないもので、彼が隠そうとしようが、最初から人々の前にその引き出しは置かれてしまっている。そういう世の中なのだ。
 人々が引き出しに近づくことも、開けようとすることも、アドルフは止めることが出来ない。それをすれば、彼が意識的に引き出しに鍵をかけたのだと知られてしまうからだ。
 だから、もう諦めて彼は引き出しに鍵をかけない。聞かれれば答えるしかないし、拒否をすることも出来ない。家族のことはあまり話をしたくないと言って勘ぐられるのも御免だ。
 仕方なく、彼の秘密はまるでイザベラ言うところの「本は本に混ぜておけ」のように。
 嘘ではない答えを重ねて、真実が見えないように。
(……お前みたいなのがいるから、そういう風にしたくねぇんだよ)
 何が、本は本に混ぜておけ、だ。あんな勝手に人様の本棚を漁る人間が言うセリフか。
 心の中で悪意のない毒づきする、
 自分の過去のことならば、別に良い。
 鍵なんてかからない引き出しにポイポイと入れておいても、みな「触れてはいけないのだろう」と警戒をする。それは、彼の顔や手の傷を見ての判断だ。
 好奇の目で見られることは既に慣れ、逆にそういうわかりやすい符号を自分が持つことで、他者は「触れてはいけない」と思ってくれることはありがたい。
 中にはそれでも好奇心に負けて「一体何したらそんなひどい顔になるんだ?」なんて聞いてくる人間もいるが、それへは「ご想像に任せる」と突き放して終わりだ。
 だが、彼を今悩ませてることは、そうはいかない。だから困る。
(ドイツに戻るのが、憂鬱だ……)
 本部が快適なわけではないが、支局よりはましだと思う。一日の仕事を終えて戻る場所が、自宅ではなくて一人だけの殺風景な空間であることがありがたい。
 以前は無機質な部屋を見れば、昔を思い出して忌み嫌っていたというのに。



 本部からドイツ支局に戻る前日、アドルフは忘れ物を取りに、随分遅い時刻に執務室へ向かっていた。
 執務室がある建物は、アネックス計画以外のプロジェクトを進めているチームの人間もいくらかはいる。
 その時間でも隣の研究棟を出入りする研究者もいれば、もともと夜型の仕事をしている者、他支局からやってきて時差を調整出来ていない者など、活動をしている人間はちらほら通路を歩いていた。
 通路の照明は半分ほど落とされているが、困るほどでもない。
 アドルフは執務室で目当ての物をすぐ探し当てて鞄に入れて、ぐるりと室内を見渡した。
 もう、忘れ物はないだろうか。
 必要なデータはそもそもサーバー上にあるし、持ち歩かなければならない書類なぞない。ここにある書籍は自分のものでもないし……。
 また何か後で思い出して二度手間になるのは御免だ、ともう一度確認をして、アドルフは執務室を出た。
 すると、彼が来た時にはまったく誰もいなかった通路の先、曲がり角付近から誰かの声が聞こえる。
(……知らない声と、小町艦長だな……)
 まいった、とアドルフは小さくため息を付いた。
 何故なら、寝泊まりしている部屋に戻るには、そちらへ行くしかないからだ。
 まあ、どうせ「なんだまだいたのか」とか「明日ドイツに戻るんだろ?」とか、そんな風に声をかけられるぐらいだろう。
 そう思って歩き出そうとした時。
「あんたのせいで、妹は!」
 険しい声が通路に響いた。それへ「大声で話すことではないだろう」となだめる小吉の声が続く。
 しかし、もう一人の声は決して静まることはなく
「地球に、戻ってこなければよかったんだ、あんたは!」
と小吉をなじる言葉が、叩きつけられる。
(……ウィルス関係の話か)
 アドルフは即座に理解をした。
 わかりやすい。わかりやすく、そして抗い難い。
 聞きたくもないのに聞こえる会話。だが、それをそのまま放置するのは、聞き耳をたてているのと同じことだ。
 仕方なくアドルフはわざと足音を立てて角に向かって歩き出した。
 早足で歩いたつもりはない。むしろゆっくりと。
 小町小吉に言葉を投げつけた人物を彼は知りたいとも思わなかったし、出来れば見たくなかった。面倒は御免だ。近づく間にいなくなってくれれば助かる。
 そんなアドルフの思惑通り、角を曲がればそこには小吉一人のみ。
「……ありがとな」
 誰が現れるのかわかっていた、とばかりに小吉は小さく微笑んでアドルフを迎えた。それに戸惑うアドルフ。
「……何のありがとうですか」
「わざと、足音」
「……夜ですから、響くだけです」
「うん。夜だから、怒声も響くよなあ」
「はは……」
 それには素で小さく笑ってしまう。
 どうして自分だとわかったのか、と問おうと思ったが、アドルフは即座にそれを止めた。
 小吉が何らかの武芸をやっていることは彼も知っていたし、そういう人物は人の足の運びなどに敏感であることを、以前聞いた記憶があった。それに、わざわざ聞けば、小吉はあっさりと、かつ、アドルフが苛立つようなことを答えるかもしれない。
「アネックス計画の関係者は、身内にA.E.ウィルス感染者はほとんどいないはずですが」
 アドルフが言うように、特例を除いて、職員の身内にA.E.ウィルス感染者はいないことになっている。つまり、身内が発症したら、別部署に異動するようになっている。
 仕事に対して過度に感情的になられては困るし、今まさにあったように、小町小吉と揉め事を起こされるのも面倒だからだ。
「最近感染したんだろう。きっと、異動になる。だから、その前に……ってことじゃないかな」
「あァ……」
 小吉は多くは言わない。さすがに、へらりと「嫌になっちゃうな」と軽口を叩くこともなく、かといって「じゃあ俺はどうすればよかったんだ」と深刻になることもなく。
 きっと、もう慣れているのだろう、とアドルフは思った。
 彼の二十年間のことなぞ、アドルフは知ることは出来ない。同じような時間、アドルフもまた検体としてあれこれと実験をされ、耐えながら生きてきた。けれども、たとえどんなに研究者達が求めるデータを彼の体がはじき出さないとしてもそれは彼の能動ではないし、研究者達も受け入れざるを得ない。それに比べれば、生きるために地球に戻ってきたという行為を今のように他者から否定をされ、遠回しに「死ねばよかった」と言われることは、どれだけ辛いのだろうか。
 アドルフは、小吉の前だというのに、つい無意識に物思いにふけった。
(死にたいと思ったことはあったが、死ねと言われたことはそんなになかったな……顔の傷が醜いせいで言われたこともあったが、それはただの悪口であって、心底の悪意ではない……)
 静かに罵倒の声を聞けるようになるまで、どれだけの回数己の生を否定されてきたのだろうか、小町小吉は。
 それまでまったく思いつきもしなかった考えに、アドルフは目の前の小吉の存在を一瞬忘れた。
 が、それを気取られなくて済むタイミング声をかけてくる小吉。
「こんな時間にどうしたんだ?忘れ物か?」
 その声で我に返ったアドルフは、平静を装って淡白な返事をする。
「はい」
「明日ドイツに戻るんだろう?」
「はい」
 それから、いくらか小吉と言葉を交わして、その場で別れた。
 ようやく一人になって歩き出したアドルフは、自分が今何を小吉と最後に話したかもよく覚えておらず、ただひたすら早くその場を去りたいと、それだけを思っていた。
 意味もなく、歩数を1,2,3,4……と脳内で数えて自分の気を逸そうとする。
 余計なことが口から飛び出さないうちに、早く小吉から離れなければいけないと感じたのだ。
 そうでなければ、迂闊に聞いてしまう。
 自分が生きようとした結果だとしても、自分のせいで、誰かが死ぬというのはどういう気持なのか。そして、それを理不尽に責められるのはどういう気持ちなのか。
 大人の対応として、興味がないふりを続けてきたけれど、その質問をアドルフがしても、きっと小吉は許すだろう。
 どんな質問にもきっと、彼は答えてくれる。それを、「小町小吉らしい」と勝手にアドルフは思った。
 嘘でもなく、本当でもない言葉で。
 アドルフは、ちらりとイザベラの言葉を思い出す。
 本を本の中に隠す。
 そんな可愛いものではない。
 木は林や森の中、とも違う。
 きっと、小町小吉は枯れ葉の中に、枯れ葉を隠している。
 A.E.ウィルス持ち込みを疑われた時からではなく、きっと火星から戻ってきた時から、いや、火星で誰かを最初に失った時からだろうか。それは、アドルフにはわからない。
 だが、バグズ2号関連の記録を見る限り、小吉達は「騙されて」火星に連れて行かれた被害者だ。それをアドルフも知っている。
 決してU-NASAはそれを明言しないが、様々なピースを集めればそんなことはすぐに気付く。
 その理不尽の上に更に二十年間積み上がってきた理不尽なものは、どれほどの層を重ねているのだろうか。
(心が揺れない男ではない)
 もう、聞き飽きたと開き直って、誰にも同情をしない、ウィルスに感染して運が悪かったんだな、と冷徹になれるような人物ではない、とアドルフは思う。
(やめろ。見たくない)
 誰に何を言われても枯れ葉をかき分けて回答をしているように見せて、本当は。
 その林にあるはずがない木の葉が、とても深いところに静かに眠っていて、大量の落ち葉がそれを覆い尽くしているのだろう。二十年の歳月を経ても、決してそれは分解されることもなく。
 そんなことが自分には耐えられるのだろうか、とアドルフは思い至った。
 たとえ火星から戻ってきて、この先二十年間。自分が検体として扱われていたとそう変わらぬ期間を繰り返すとして。
 その間、妻の不義を己の胸の奥底に追いやって、同じように枯れ葉を重ねていって。だが、人々はその枯れ葉を容易につま先でかき分け、土足で踏みしだく。誰が知らなくとも、勿論妻が知らなくとも、自分はそれを見続けなければいけない。
(気味が悪い妄想だ。煩わしい)
 それでも、そこに隠されているものは、アドルフにとっては大切なものだ。
 枯れ葉に喩えてはいけないような。
 いや、「かつては枯れ葉に喩えるなんて許せなかったもの」だったのではなのか。
 違う、それは今でも大切なものではないのか。
 それとも。
(49,50……51)
 52歩めでエレベーターホールに辿り着いた。エレベーターがその階に止まっていた幸運に感謝をしながら乗り込み、階の指定より先に扉を閉じる。
 そこで、ようやく安堵を得て、気持ちを落ち着けた。
 そうだ、明日ドイツに帰るんだ……。
 違うことを考えようとして、根本的には変わらぬことを思いつき、アドルフは眉間を寄せた。
 心を閉ざして、引き出しに鍵をかければすべてが済めば、何もかも楽になれるのに、と。
 アドルフは、自分が思った「すべて」が何なのかを理解しないまま、そう思った。



(つづく)


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