少女漫画ジョセ小


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チャイムを鳴らしても、応えはない。約束はしていなかったが、ジョセフにとってこれは予想外のことだった。
家主がいないならば仕方がない。勝手に鍵を開けて勝手に上がりこむだけだ。
「お邪魔しますっと」
かつて知ったる他人の家……といえど、余程のことがなければ迎え入れる小吉がいないことなぞない。
早朝とは言えないし、かといってまだ昼にはなっていない時刻。もしかして、まだ寝ているのだろうか、と寝室を覗いたがそこに彼の姿はなかった。
「あーれー、今日、オフだって聞いたのに……」
リヴィングのソファにバッグを放り投げて――いかにもなビジネスバッグだが、何ひとつ重要文書なぞそこには入ってはいない――ジョセフは小吉の不在をいぶかしむ。
キッチンには、平皿一枚とコーヒーカップが洗われないまま置いてあった。簡単にトースト一枚の朝食でもして出かけたのだろうとジョセフは推測をしつつ、次は冷蔵庫を開ける。
食材はある。特に買出しの必要もない程度に。
小吉は少ないオフに買い物をする性質ではない。外出しないわけでもないが、こんな午前中から出かけるのは珍しい。
ジョセフは既にその程度のことは知っており、だからこそベッドに潜り込もうと徹夜明けにやってきたというだが……。
「とりあえず、シャワー、シャワー……」
ジョセフはスーツ類を脱いでは床に投げ散らかし――よく小吉に「お前、散らかってないのは顔だけか!」と怒られるのだが――手早くシャワーを浴びた。少しは目覚めるかと思ったが、本国やら日本やら、ここ数日あちこち飛び回った身体は珍しく時差にやられてしまい、睡魔に勝てそうもない。
(長時間起きてるのも、時差直すのも得意だったんだけどなあ)
だから、一日徹夜して、昼間少し仮眠する程度で大丈夫、と思っていた。それがどうも調子が悪いと感じたと思えば、なんだか小吉に世話を焼いて欲しくなったのだ。
何度目に会った時か。
あのお人よしの男は、自分が日本支部にいる時に来たらいつでも来ればいい、とさらりとジョセフに告げた。きっと、それはジョセフ1人に言ったわけではないのだろうが、だからといってそれに甘える人間が早々いるわけもない。
結果、ジョセフが知る限りでは、日本だろうがワシントンだろうが「小吉が根城にしている場所」にひょいひょいと顔を出すのは、今のところジョセフだけだ。
(せっかく小吉さんがいる日にちょーど出張になったのに、オフだっていうしさ)
連絡ひとつせずに来てしまった自分をうらめしく思いつつ、ドライヤーで髪を乾かす。
風呂あがりにすぐにドライヤーを使うのは嫌いだが、髪を濡らしたまま寝ては小吉に怒られるだろう。
それに、小吉が時々ジョセフの頭に手を伸ばして、意味もなく――意味はあるのだろうが、聞いたことなぞない――ぽんぽん、と二度三度軽く叩くのが、ジョセフは嫌いではないのだ。こうやっている間に小吉が帰ってこない保証もないのだし。
「ちぇー、1人寝ですか、そうですか……」
冷蔵庫から一本ミネラルウォーターを拝借して浴室からリヴィングに戻ると、いつもは片付いているはずの衣類が当然のようにそのまま転がっていた。
「うわあ」
我ながら、これは許せない。が、目を逸らそう。
ひとつひとつ拾いたい衝動を抑えつつ、ジョセフはトランクス姿で寝室にどかどかと向った。
(帰ってきた小吉さんに、拾ってもらおう)
本当は、そうやって服を脱ぎ散らかすのは彼の本意ではない。せっかくのスーツにしわが入るのは嫌だし、時々わけのわからない綿埃が小吉の部屋に落ちていることだって知っている。特に、数ヶ月前にM.O手術成功者が定員を満たしてからというもの、小吉は日本にいても大概支部の施設で寝泊りをして、オフでもなければ自宅に帰らないことが増えているとも聞いた。
それでも、小吉が「まったく仕方ねぇな」と顔をしかめつつ服を拾ってくれる姿は、決して言わないけれどジョセフにとっては好ましく思える。
彼のその姿を見るためには、何度だって嫌がらせをせずにはいられないのだ。
(物がない家なのに、なーんかたまに散らかしてんだよな、あの人は……あんまり汚れてなきゃいいけど)
そんな身勝手なことを考えながら、主のぬくもりがとうに消えたベッドに腰をかける。
あまり広くないその部屋は、以前は寝室ではなく、家具ひとつ置かれていなかった。
本当の小吉の持ち家は、ここではない。U-NASAの幹部としては、どうしても支部の近場に居を構えることが必要となっての仮住まいだ。
仮住まいといえど、立場上U-NASA規定のセキュリティ完備の住居をあてがわれるのが筋。このように、カードキーがあれば誰かがほいほい入れる場所、というものは本来許可が下りるはずもない。
それでも、小吉はどうも口では言わないが「庶民らしい」「人間らしい」生活を好む。ジョセフからすれば、あまり理解が出来ない、底辺に限りなく近いと思われる生活を。
その結果、実際に恩恵を受けているのは小吉ではなく、いつでも自由に出入り出来るジョセフであることは、いささか皮肉めいている。
(このベッドは、悪くない。あの人にしちゃ、奮発したんだろう)
わざと体重をのせても軋む音のしない、しっかりしたベッド。
狭い部屋に置くにはそれは「しっかりしすぎて」いると思えたが、そういった部屋と家具の調和なんて、きっと小吉には二の次のことだったに違いない。
ワシントンでの小吉の住処は、郷に入れば郷に従えではないが、完全に洋式の居宅だ。だが、それはどうやら彼の本意ではないらしく、この家には和室がある。以前の小吉が、そこで和式布団を敷いて寝ていたことをジョセフは知っている。何故なら、彼がこの家に初めて招かれた時には、ベッドというものは存在しなかったからだ。
が、彼らの仲が徐々に深まりだしたある時
「疲れて帰った時に、ベッドだとすぐ倒れられるからな」
と突然小吉はベッドを購入し、何もなかった小さな洋間にそれを置いた。
ベッド周りには何かを置く場所が少しは欲しいだろう、と安っぽい小さなチェストを置いた。ただそれだけの部屋だ。
簡素な部屋だが、間違いなくジョセフのために用意された空間。そして、その部屋で小吉が仕方なく寝ているのだと思うと、ジョセフは「馬鹿だな」と呆れつつ、口端が緩む。
(この家は、俺のための家ではないし、更に言えば「あの人の本当の家は、あの人のための家でもない」けども)
ぽい、と濡れたタオルをチェストの角にひっかけると、その上にあったシルバーフレームのアラーム時計に目が留まった。正確には、時計に表示されている今日の日付に、だ。
それまで、日付はしっかり意識をしていなかった。いや、ここ最近あちこち飛び回っていたから、移動先の日にちは気に留めていたけれど、その日が「何の日」なのかまでは気が回っていなかったのだろう。
ジョセフにとっては、まったく何でもない日だけれど、小吉にとって今日は。
「……あ、あー、ああ、そう……だから、日本支部にいたのね……」
腑に落ちた。ジョセフはつい自分が声を出したことに気付くと、苦笑いをちらりと浮かべ、黙って布団に潜り込んだ。
午前中から小吉が出かけている理由がわかったのだ。
(まいったな。帰ってきて、俺の脱ぎ散らかしみたら、こりゃ、笑わないかもな……)
だからといって、今から起きてそれらを拾いに行こうとは思わない。
むしろ、それぐらいが自分達にはちょうどいいのだ、とジョセフは自分に言い聞かせる。
人間は知らないふりをする必要が時にはある。恋愛だろうがなかろうが。
そして、今日はそういう日。
(もし、今日がバグズ二号が火星に到着した日だったら、それだったらわかりやすいのに)
まったく、小吉は馬鹿で律儀な男だ、とジョセフは閉じた瞼の裏を眺めながら考える。
そこは薄暗い灰色の宇宙のようで、ぼんやりとした闇と光が輪郭のない形でちらちらと動き、彼は眉間にしわを寄せた。
いつもは意識していないというのに、一旦気付くと「目を閉じても瞼の裏が見える」という事実が、気になって仕方がなくなる。
正にそれだ、とジョセフは意識を逸らそうとするが、どうもうまくいかない。
(なんで、さっきまでの睡魔が、こんなことで消えるんだ。ろくでもない)
今日は秋田奈々緒の誕生日だ。
そして、それは小吉が彼女の墓参りに行く日でもあるのだ。
小吉からは一度もその話を聞いたことがないけれど、ジョセフは知っている。
だからといって、それを知っていると口にはしないし、ジョセフが知らないふりをしている以上は、こうやって今日ふらりとやってくるのが「それらしい」ことだと小吉は思ってくれるに違いない。
まるで猫のように気が向いた時しか姿を見せないジョセフを、小吉は一向に咎めない。逆に、いちいち「遊びにいってもいいか」とか「泊まりにいってもいいか」と連絡をするほうが、面倒だと小吉は思うだろう。何のための合鍵だ、と笑うに違いない。
(あ、でも、眠れそう……)
そう。ジョセフはこの家のカードキーを持っている。
けれど、彼が踏み入っても良いのはそこまでなのだ。


最初に、小吉にアプローチをしたのはジョセフだ。
といっても、それは恋愛的なものではなく、仕事上「そうしてみるのも悪くない」と判断したからだ。
当時、大した策を弄したわけではなかったが、思いのほかあっさりとジョセフはワシントンの小吉の家に招かれた。
勿論、それを「なんだ、案外懐に入るのは簡単だな」などと思うことはジョセフは出来なかった。むしろその逆だ。
小吉の誘いに笑って応じていても、心の中では「自分は何かヘマをしただろうか」「警戒するため近づいておいたほうが良いと思われたのか」と思い巡らしていた。
後者に関しては、今更だろうとジョセフは思う。そもそも、オフィサーと呼ばれている彼らの仲間意識なぞ薄く、国間の信頼が深いわけもない。警戒されていないわけがない。
日本とアメリカ、そしてドイツはまた別として、その他の国は必ず腹に一物持っている。小吉がジョセフに探りをいれてきたっておかしくはない。
ジョセフ側からの探りを逆に利用しようとしていたって、それはむしろ当然のことだとジョセフは思っていた。
(ま、酒飲んで口を滑らせるようなヘマはしないけど)
そういえば、小吉の提案でオフィサーで食事に行った時、小吉と劉は酒まで飲んだはずだ。となれば、小吉もまた、酒のひとつやふたつでは口を滑らせるような人間ではないのだろう。当たり前といえば当たり前だが、ふむ、酒は役に立たないな、と考えつつ、当時のジョセフは口端を緩めていた。
なんにせよ、こういうスリリングな状況をジョセフは「面倒なのが楽しい」と思ってしまう。たとえ、命に関わることでも。それが自分の長所だと彼は思っていたけれど、彼をそれなりに知る周囲はそれを「ジョセフの恐ろしいところだ」と思っているに違いない。
敵になるのか味方になるのかもわからない間柄。防衛線を張らなければいけない間柄なのに、わざわざ一歩乗り越えてお互いの懐に入っていく瞬間と、探り合ってせめぎ合う時間は好きだ。
恋愛と違うのは、彼が好意をもとうがもたなかろうが、その騙し合いをしなければいけないこと。それだけはどうも困ると彼は思っていたから、出来れば小町小吉が彼にとって「楽しみたい」相手ならば良い、と思っていた。
ジョセフが小吉の家に招かれたのは、小吉がどういうつてかはわからないが手に入れたという、やたら高価な日本酒の話をしていたからだ。
日本酒に興味はまったくなかった。だが、その高価な日本酒と小吉はあまりにも不釣合いに思え、それならばその酒を自分が相伴してやった方が余程酒のためになるだろうと、興味をあるふりをちらりとしただけ。たったそれだけのきっかけだ。
後から聞いた話ではドイツのアドルフもまた、酒絡みで小吉の家に招かれたことがあったというが、要するにその程度であっさりと己の城を他人に見せる男なのだ。
「なんかあれば、また来いよ」
それは、ホストがゲストの見送りでよく使う言葉だ。今まで多くのそんな「社交辞令」を聞いてきたが、「これは本音です」と念押しされなくても信用出来る人物は珍しいな、と首を傾げながら家を後にしたことをジョセフは覚えている。
たった一度だけで打ち解けたわけでもないし、たった一度で小吉を気に入ったわけでもない。
以降いくつかの偶然を経て、彼らは近しい間柄になったのだが……。


体感ではほんの20分ほど、しかし、実際は二時間後にジョセフはうっすらと目覚めた。
小吉が帰ってきたのがわかったが、そのままもう一度瞳を閉じる。
案の定、リビング方面から「なんだ、こりゃ!」という小吉の声が聞こえてきた。
ああ、そういえば、服を脱ぎっぱなしにしていたな。
そう思ったけれど、時差のせいで徹夜してしまった身体はまだ少し重い。
(スーツを、はやく脱いでくれたらいいのに。おれが知らない女のために着たものなんて)
おれが知らない。
いや、少しは知っている。映像は見たことがある。
小吉が心の中でいつまでも大切にしている、可愛らしい少女。
小吉が20年前のバグズ2号の生き残りであることは周知の事実であるが、誰も彼に当時のことを話せとせっつくこともない。それは、個人的なことを聞く以外、報告書にあったことはほぼ全てオフィサー達には公開されているからだ。
それ以外の情報――秋田奈々緒のことを小吉は幼馴染以上に想っていた、など――は単なる推測以外何者もない。
小吉は大抵のことは聞かれれば答える人間だし、聞かれたくないことを口にされても、それなりに受け答えることが出来る。
それでも、秋田奈々緒に限ったことではなく、バグズ2号に関することをジョセフは一度も小吉に尋ねたことがなかった。
尋ねたくないのではないし、気を使っているのではない。
一度くらいは口にして、辛そうな表情の一つや二つ見てもいいな、と思っているが、その思いはすぐに「いや、それじゃ駄目だ」と掻き消される。
ジョセフは、当時のことを足枷にして、一人でいつまでも何かしら背負っている小吉が嫌いではないのだ。小吉の弱音も聞きたくないし懺悔も聞きたくない。そのほとんどはきっとジョセフには理解出来ないし「馬鹿な男だ」と思うに違いないからだ。
世間一般の話でいうと、愛しく思う相手が心に何かを抱えていたらどうするだろうか。
人々はどうにか荷を軽くしてあげようと、手を差し出して「つらかったら話して」だとか「自分にだけは言ってもいいんだよ」と、外側に放出することを簡単に要求する。
実際、それを促されて委ねれば、人の気持ちは軽くなるものだと――たとえ根本的な解決はされずとも――ジョセフだって知っている。それは傷の舐めあいであり社交辞令に近いものだが、残念ながら人の心にとっては有効な手段なのだ。
けれど。
彼は小吉にそんなことを求めないし、小吉も自分自身にそれを許さない。
どんなに近しい間柄になっても、小吉が外にまったく漏らさない苦悩があろうが、ジョセフはそれに手を差し伸べない。
こうやってカードキーを渡されていても。同じベッドで寝ようと。彼らが立っている心の距離はまったく近くにはないし、ジョセフは一歩も歩み寄る気はない。
人と人は接触して変化していくものだ。実際自分達だって「仲良く」なったとは思う。が、それと人の質が変化することは別のこと。
ジョセフはまったく自分を変える気もなかったし影響されるのはまっぴらごめんだ。そして、「誰にも漏らさない」小吉が、自分といることで変化して「自分に打ち明けてしまう小吉」になることだってごめんだ。
ジョセフからの口付けを受け入れようが、身体を開こうが。
(どんどん、背負うといいのに)
寝返りをうちながらジョセフはうとうとと小吉のことを想う。
(こんなに近くにいるのに、自分をさらけ出せない自分のことを、もっと苦しんだらいいのに。部下に優しくして、頼れる人間だと思わせてるくせに、自分自身は人の手を払うような人間なんだって、苦しんだらいいんだ)
あんなに誰からも好かれているのに、誰をも受け入れようとしているのに、その実、あまりにも閉じきっている。
そういう男だから、ジョセフは擦り寄るのだ。相手に重荷を決して分けようとせず、折れる寸前まで凜と立っているだろう男だから。
(多分、泣いて心の内を打ち明けられたら、おれはあの人のこと嫌いになるな。面倒だ。うっとうしいって思うな……あのままがいい。ああ、さっさと墓参りなんて終わらせて……)
深い眠りに入る寸前に思ったことは、そんな自分本位のことばかりだった。



「おい、何時に起きるんだ。アラームかけてないぞ?」
決して荒っぽく起こさず、ベッドの前で膝を折って小吉は優しく声をかける。
余程疲れているのだろう、と察してくれているのだ。ジョセフはぼんやりとそう思いながら、ゆっくりと瞳を明けた。
うっすらと膜がかかった視界に入ってきた小吉は、スーツ姿だ。見慣れているはずなのに、何故か違和感を覚える。
(ああ、いつもと同じようなスーツなのにな……)
何故か、ではない。違和感の正体は自分の心にある感情だ。
今日のそのスーツは仕事のために着たものではない。過去の女のために着たものなのだ。
だからといって、ジョセフの心にわきあがる感情は嫉妬などというものではない。小吉がどう思っているかはわからないが、少なくともジョセフ自身は、そんな感情が生まれる間柄になった記憶はないのだ。
(ああ、でも、そんな過去に縋り付いて、日本人の言う「礼」ってやつ?そんな形に縛られてスーツを着て出かけるなんて)
素敵だ、と声に出しそうになって、それを抑えた瞬間掠れた息がジョセフの唇から漏れる。耳ざとくそれを聞きつけ、小吉は心配そうにジョセフの顔を覗き込んだ。
「どうした、ジョー?」
「……いえ……起きます……」
「何時に来た。悪かったな、ちっと用事があって」
朝です。知っています。悪いのはこっちです。
そのどれも声には出さずに、ジョセフはむくりと起き上がった。
「お、おおお、なんだ、お前」
ベッドからするりと降りると、ジョセフは図々しくも小吉の膝の上に乗った。体勢を崩した小吉は、驚きながらも倒れないようにジョセフを支える。
「なんだ、どーした。おい、大きな犬猫みたいだな」
「……なんも、しませんから、スーツ脱がせてもいいですか」
「は?……お前は人のスーツ脱がす暇があったら、自分のスーツをちゃんとハンガーにかけろよ」
「物々交換です。ぼくのスーツは、お任せしますから」
「まったく嬉しくないんだが、気のせいか?」
はは、と小さく笑ったものの、小吉は拒まない。なんの遊びだ、と言いたそうに苦笑を見せるだけ。
重い、だとか、邪魔だとか、決して小吉は邪険にしない。
寝起きで寝ぼけているのか、程度にしか思っていないのかもしれない。それは、それで良いかとジョセフは小吉のネクタイをさっさと取り払った。
「おっさんのスーツを脱がせて喜ぶのはお前ぐらいだ」
「喜んでるわけじゃないですよ」
「じゃあなんだよ」
「内緒です。なんもしませんから、興奮しないでくださいね」
「はいよ」
薄情な答えだな、なんて内心で自分のことを棚上げしつつ、ジョセフはシャツのボタンを上からひとつひとつはずしていった。
「……」
あと一つ。
そこでジョセフの手が止まる。
小吉は不思議そうにジョセフを下から見上げ、一瞬目を細めた。ジョセフの焦点は最後のボタンにあっていたが、視界の隅で歪んだ小吉の顔に気付く。
(ああ、そんな顔をさせた。おれは、今どんな顔をしていたんだろう?)
どうしても、最後の一つをはずす気になれない。
はずしたボタンを再び下からとめてゆくジョセフ。
「おい?何やってんだ」
「はは」
「ジョー?」
なんの遊びだ、という茶化しではない。小吉が本気でジョセフを心配していることは、怪訝そうな声音でわかる。
(そんな心配されるような顔を見せてしまったのか。おれは)
自分もまだまだだな、とジョセフはもう一度笑い声をあげた。
「ははは、いえ、なんでもないです……いや、ちょっとこのままでいいかなって思っちゃって」
「はあ?なんだ、それ」
心底意味がわからない、と小吉は困った表情を見せる。だが、ジョセフはそれ以上の説明を何もしなかった。
(なんかほら、あるよな、AVとかの。ずっと喪服着てる未亡人みたいな)
その想像で笑わないわけにはいかない。ジョセフはもう一度「ふふっ」と声を漏らし、いっそう小吉を困惑させた。
いつまでも過去の女に囚われたまま、他の男と身体を重ねるような小吉の方が良い。
ジョセフの気なぞ知らず、他の女のために着たスーツ姿を無防備に晒してしまうような、それぐらいの間柄が自分達にはお似合いだと思う。
そして、最後のボタンをはずすのが自分であってはならない。それは、ジョセフの本意ではないのだ。
「お前は、たまによくわからないことをするな」
結局、ジョセフはボタンを上まで止め直して、小吉の膝から降りて床に座り込んだ。
小吉は何一つ追求せずに、苦笑いを浮かべながらジョセフへ手を伸ばした。
(ああ、ほら、やっぱり。髪を乾かしておいてよかった)
放っておいてもどうせ乾いてしまうような時間が経っているのに、ジョセフはそんなことを思う。
いつものように、ぽんぽん、と頭を軽く叩かれるのだろう。
あまりスキンシップをしてこない小吉が、唯一あっさりとジョセフに触れる行為。それを拒む必要が彼にはない。
「……腹は減ってないか?」
「腹……っ……!」
と、予想に反して、寝起きであちこち跳ね上がっている髪の中に、骨太な指が差し込まれた。
完全に無防備だったジョセフは一瞬呼吸を止めそうになったが、平気の体を装って笑う。不意打ちの刺激でうなじにぞわりと粟立ったが、それは不快や恐怖のせいではない。むしろ、その逆だ。
「食ってないです。腹減りましたね」
「たいしたものはないぞ」
「いつだってたいしたものないでしょう」
「うっせ」
二度、三度髪をかき回しては離れていく小吉の手。
結局、どうしたんだ、とも、何の遊びだったんだ、とも尋ねない男は、立ち上がって部屋を出て行った。今から着替えて、ジョセフのために食事を作ってくれるに違いない。
「……あーー……」
床に座り込んで、ベッドの淵にもたれかかるジョセフ。
たまらない。
どうせ、これだって、小吉が昔の女のことを考えていたせいで、調子が狂っているからに違いない。
ジョセフはうなじに手を当てて立ち上がると「何もしないなんて、言わなきゃよかった」と呟いた。
それから、自分らしくもなくそんなところに律儀だったことに気付き、影響されたのか、と溜息一つ。
そんな変化はまっぴらごめんだ。そっちの方がたまらない。
(ずるい大人だな)
ジョセフはとっくにぬるくなったミネラルウォーターのボトルに手を伸ばしながら、自分の髪をぐしゃぐしゃにかき回した。



おしまい


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